回転木馬の逃避行‐07 

 夜、ウルガモスの歓迎会も終わり、いつものように寝ようとしていると、琳太の姿がないことに気がついた。

「琳太?」

 もうみんなボールに入ってしまっているはずだから、彼らを起こさないように小声で呼びかけてみる。返事はない。かといってダークボールの中に琳太が入っている様子もない。
 トイレ、洗面所、それから半分明かりの落とされたロビー。どこを見て回ってもいなかったので、慌てて部屋に戻り、みんなを起こそうとした。

 そしてドアを開けたとき、風が吹いて、カーテンがなびいた。

「琳太……?」

 小柄な人影が、窓枠からこぼれる月の光の中に、くっきりと浮かび上がっていた。わたしの声が聞こえたのか、ゆっくりと琳太が振り向く。その顔は、逆光になっていてよく見えない。真っ黒なポンチョがはためいて、ゆらりゆらり、琳太の影もそれに合わせて揺らぐ。あと少し、風が強ければ、ふらりと消えてしまいそうだと思った。

 なんとなく胸の中がざわざわして、開け放たれているベランダへと駆け寄る。

「どうしたの?寒いでしょ」

 ドラゴンタイプは冷たいものが苦手だ。ポンチョの裾に隠れている琳太の手を取ると、氷のように冷たく凍えた指先に、背筋が粟立つ。ぎゅっと握って前屈みになる。琳太と同じ目線で目を合わせると、その目には、今にもあふれそうな涙が貯められていた。

「りん、」
「ごめん、なさい……っ!」

 守れなくて、ごめんなさい。痛い思いをさせて、ごめんなさい。パートナーなのに、役に立てなくてごめんなさい。弱くて、ごめんなさい。

 マゼンタの瞳が、ぐずぐずになって溶けてゆく。わたしはそれを、黙って見ていることしかできなかった。息が苦しい。呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに。
 この涙の止め方を、わたしは知らない。 きっと、止めることができるのはわたしだけ。なのに、どうしたらいいのか分からない。
 九十九なら、まずは座って話そうって言うのかな。はなちゃんなら、くだらねえって一蹴するかもしれない。美遥は困ってわたしを呼ぶんだろう。
 じゃあ、わたしは。わたしはどうしていたんだっけ。
 いつもいつも、みんなに慰められてばかりのわたしは、誰かを慰めたことがあったっけ。泣きながら抱き合ったことはあっても、思いの丈を叫んだことはあっても、誰かを一方的に励まそうとして、本気で向き合ってきたこと、あったっけ。彼らの背中を押してきたことが、あったっけ。
 いつもいつも、わたしは与えられてばかりだった。
 もらった分を返さなきゃいけないのに、その返し方が分からない。どんどんみんなの優しさは、わたしの手のひらからこぼれ落ちていくばかりだ。何も残っていやしない。

 一緒に歩いて行きたい、一緒に行こうだなんて聞こえがいいけれど、それって、自分が何も与えてあげられないからじゃないの?
 足並みが揃えば、誰かの手を引く必要なんてないし、誰かが遅れても、他の誰かが気づいて手を差し伸べてくれる。そうやっていつも、隣に並んで、時には背中を押される立場に甘んじてきたんじゃないの?
 きっと自分以外の誰かが引っ張ってくれるだろうって、そう思ってたんじゃないの?
 
「おれ、ここにいてもいいのかな」

 ……何を、分かりきったことを。

「この世界で初めてわたしのことを受け入れてくれたのは、琳太なんだよ?」

 琳太がいなければ、わたしはあの暗い洞窟の中で、ひとり孤独に死んでいた。右も左も分からない空間に突然放り出された絶望感に苛まれながら、誰にも看取られずに。

「でも、今は、おれがいなくてもいいでしょ?」
「なに、言って……」
「うーん、おれ、何言ってんだろ?」

 へらり、微笑みのような何かを浮かべようとして、結局うまくいかなくて、歪なかたちをした口から鋭い犬歯が覗く。
 
 だめだ、引き留められない。
 漠然と、そう思った。

 一緒にいることが当たり前だったから、いなくなるだなんていうありもしない幻想にとらわれて、恐怖に押し潰されそうだった。おかしいな。琳太は目の前にいるのに。握っている手の感触が、次第になくなっているのは寒さのせいだけではないような気がして、それでも、これ以上手を伸ばすのはためらわれて、動くことができなかった。白い息が冷たい空気に融けていくことすらも恐ろしくて、叱られた子供のように息を詰めることしかできなかった。

 先に動いたのは、琳太だった。

「リサ、もう寝る?」
「え?う、うん。一緒に寝ようって思って」

 そっか。
 そう言ってうなずいた琳太の表情は、いつも通りだった。怖いくらいに、すっきりと、憑き物が落ちたような顔をしている。

「ん、ここ、さむい」
「そう、だね」

 からからと滑りのよい窓を閉めて、カーテンで月の光も遮る。
 ふたりして潜り込んだベッドはとても冷たくて、自然と互いに身を寄せ合っていた。ただ、今夜だけは、琳太の少し低めな体温に泣きたくなるくらい安心してしまって、思わず自分の腕が、琳太を求めていた。
 首元で、ふふ、という琳太のかすかな溜め息にも笑い声が小さく漏れて、その吐息の温かさに、泣きたくなった。
 琳太がそっとわたしの腕に手を添えてくれたのを感じたところで、わたしの意識はすとんと闇の中に沈んでいった。



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