回転木馬の逃避行‐03 

 目の前でゆらゆらと宙に浮いているのは、今まで見たことのないポケモンだった。
 6枚の羽をゆっくりと動かして、器用にその場でわたしのほうを振り向いた。とても大きな蝶、あるいは蛾のようなポケモンだった。
 正直言って、あまり虫は得意な方ではないのだけれど、あまりにも規格外の大きさすぎて、案外気持ち悪いとは思わなかった。それを目の前の存在にいってしまうと、全くフォローにはなっていないし、とっても失礼だろうなあ。
 
『リサ、大丈夫?』
「え!?あ、うん、なんとか……」
『そう。間に合ってよかったわあ』
 
 口調と声音が微妙に食い違っている気がして、彼と呼んでいいのか彼女と呼んでいいのか迷っていると、不意に声をかけられた。まさか名前を呼ばれるとは思っていなくて、しどろもどろで返答する。
 わたしの返事を聞いた虫ポケモンは、満足そうに小さくうなずいた。
 
 太ももに重みを感じて下を見ると、琳太がわたしの顔をのぞき込むようにして首をかしげていた。表情は全くわからないけれど、心配してくれていることは十分に伝わってくる。琳太の毛もあちこちが焼け焦げていて、擦り傷だらけだった。
 
「大丈夫だよ」
『ん……』
 
 琳太に乗られてようやく自分が床にへたり込んでいることに気づいた。
 琳太は何か言いたげにしていたけれど、黙ってわたしの前に立った。その体躯が淡く青白い光に包まれたかと思うと、薄いガラスが砕け散るような音がして、ぶるりと琳太の身体が震えた。
 
「琳太?」
『んー!』
 
 苛立ちを含んだような声で、琳太は地団駄を踏む。何かをしようとして失敗してしまったのだろう。それが何かを尋ねる暇もなく、低いうなり声が耳を打った。
 
「どう、リサ。世界を導く英雄のもと、その姿を現し、共に戦うポケモン……レシラムの美しい姿は!」
 
 Nは白くて大きなポケモンの前に立ち、両手を広げる。
 レシラム。それがあの伝説のポケモンの名前。
 純白の翼を広げ、Nを庇護するような姿勢をとっているレシラムは、わたしの目の前で羽ばたいている虫ポケモンを、ひたと見据えているようだった。
 
 ぼろぼろになって、かろうじて根元だけが残っている柱に囲まれて、Nとレシラムがわたしの前に立ちはだかる。
 何もできないと思った。だって、無理だ。勝てっこない。
 ポケモンバトルとか、そういう次元じゃない。あれは、気まぐれな羽ばたきひとつでわたしたちを殺せるくらいの力を持っている。チェレンなら、ハチクさんなら、どうにかできたかもしれないとすら、到底思えなかった。
 
「これからボクはポケモンリーグに向かい、チャンピオンを超える!ポケモンを傷つけてしまうポケモン勝負はそれで最後」
 
 止めなければいけないというのは、分かっていた。でも、分かったところで、今のわたしに何ができるというのだろう。
 無力さに打ちひしがれているわたしをよそに、Nはなおも言葉を続ける。
 
「ボクたちを止めるなら、キミも英雄になればいい!」
「えい、ゆう?」
「そう!レシラムと対をなすポケモン、ゼクロムに会うんだ。そうすれば、ようやく互角になれる!ボクたちを止められる!……さて、どうする?」
 
 伝説のポケモンが、もう1体いる。そのゼクロムというポケモンも、きっとあのレシラムみたいに強大な力を持っているのだろう。
 ゼクロムがわたしに力を貸してくれるかどうかは別として、それが対抗手段になり得ることは間違いないはず。
 
 でも、どうしてNはそんな貴重な情報を教えてくれたのだろう。このままポケモンリーグを支配してしまう方が、よっぽど楽に違いないのに。
 
「ボクの予測……ボクに見える未来なら、キミはゼクロムと出会うだろう。共に歩むポケモンに信じられているキミは……!」
 
 Nは、目を細めてどこか遠いところを見ていた。
 彼の目には、何が見えているのだろうか。それを知ることはかなわない。けれど、Nへと頬を擦り寄せるように首を伸ばしたレシラムを見て、レシラムもNを信頼し、そして何かを期待しているのだろうと思った。

「レシラムも、ゼクロムに会えるのを楽しみにしている」

 先ほどNは、レシラムとゼクロムが対になる存在だと言った。双子、のようなものなのだろうか。そう思うと、会わせてあげたいような気がした。状況が状況でなければ、素直にそう口にすることができただろう。自分たちの命が危ぶまれるような状況でなければ。

 レシラムが、姿勢を低くする。Nがその背中にひらりと飛び乗ると、再びレシラムは首をもたげて、ちっぽけなわたしたちを見下ろした。

『待っている』

 それは今まで聞いていた咆哮とはほど遠い、落ち着き払った静かな声だった。わたしに向けての言葉だったのか、それとも。
 返事をする間もなく、レシラムは大きく翼を広げ、羽ばたいた。
 もう熱さは感じない。髪の毛を巻き上げ、粉塵を舞い上がらせながら、白い巨が開いた穴から空へと飛び立つ。

 呆然とそれを見送った後、誰かに肩をたたかれて、そこで我に返った。たたかれたというよりは、掴まれたと言った方が正しい。それぐらい性急な動作のように感じた。
 案の定、そこには焦ったような表情をしたチェレンがすぐ近くにいて、その後ろにハチクさんもいる。追いついた2人も、レシラムの姿を見ていたらしい。

 チェレンは混乱していて、色々と矢継ぎ早に質問を投げかけてきたが、わたしはうまく答えることができなかった。見かねたハチクさんがチェレンをいさめ、全員で塔を降りた。

 塔の入り口では、ベルとアララギさんが、心配そうな顔で待ってくれていた。
 わたしの顔を見た途端、ベルが泣き出しそうな顔をして、わたしに飛びついてきた。ぎゅっと思い切り抱きしめられて、その勢いに困惑していると、わたしの背中に回された彼女の腕が、ひどく震えていることに気がついた。

「リサ、よかった、よかったあ……!」
「ベル、放してあげなよ。苦しそうだし」
「う、うう……!」

 落ち着きを取り戻したチェレンがベルに言葉をかけると、今度はチェレンが彼女の標的となった。本格的に泣き出してしまった彼女を引き剥がすこともできず、ただただチェレンは眉間に深いしわを刻むことしかできないでいるようだった。
 
 鼻をすすっているベルが、か細い声で「死んじゃうんじゃないかって思った」と呟いたとき、ようやくチェレンが動いた。

「ベル。リサも僕も、ちゃんと戻ってきたから。もう大丈夫だから」

 ベルの肩に両手を添えて、チェレンがまっすぐに彼女と目を合わせた。しゃくり上げていたベルは、唇をかみしめ、ゆっくりとうつむいた。ぱたぱたと地面に温かい雫が落ちて、しみをつくった。

 外から見ていた彼女の目に、この塔での出来事がどう映ったのかは分からない。けれど、実際、わたしは本当に死んでしまうんじゃないかと思っていたし、今もこうして無事でいられることに対して今ひとつ実感がわかない。足下が安定せず、ふわふわと漂っているような感覚が、まだどこかに残っているのだ。それが美遥との空中散歩のせいだけではないことくらい、よく分かっている。

 振り向くと、入ったときよりも塔の外見は荒れ果てていた。あちこちにひびが入っているし、外壁に穴が開いて内部が露出してしまっているところもある。上層部に見える一際大きな穴は、Nとレシラムが飛び立っていったところだろう。
 ということは、ベルたちもあの光景を見たはず。もしかしたら、爆風が巻き起こって壁が破壊された瞬間も目撃していたかもしれない。あの風と熱の凄まじさは、きっと、内側で見るよりも、少し離れたところで見た方が、その威力を知ることができたに違いない。
 あまりにも近くにいすぎたわたしは、あの破壊力や熱量を推し量るメモリが、とうに振り切れてしまっていたから。

「とりあえず、ポケモンセンターに戻ろう」

 ハチクさんの言葉にうなずいて、わたしはベルの手を引いた。指先が冷え切っているせいで、ほんのり赤くなっている。氷のような彼女の手を温めるようにぎゅっと握りこむと、すん、とベルはまたひとつ、鼻をすすった。
 


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