回転木馬の逃避行‐02 

 階段を上るにつれて、振動が激しくなっていく。足を取られないように、はやる気持ちを抑えて、ゆっくりと、石でできた頑丈な階段を踏みしめた。

 天辺が近いのだろう。明るさが増していく。
 なるべく足音を立てないように、慎重に。美遥にはボールの中に戻ってもらい、琳太を腕に抱えて進んだ先に、一際明るく開けた空間があった。きっとここが頂上だ。
 Nの背中が見えて、ここが目的の場所なのだと思った。
 
 ぐらり、視界が揺れる。
 
 一拍遅れて、先ほどから度々起きていた激しい揺れのせいだと気づいた。
 Nの前。何か、白い塊が宙に浮いている。手のひらでぎゅっと握り混んでしまえるくらいの大きさだったそれは、みるみるうちに大きくなっていく。
 その物体は、ちょうどNの頭上で浮上することをやめ、突如として紅蓮の炎に包まれた。

 それが、胎児のように丸まっている生き物だと分かったのは、巨大な翼が炎を突き抜けて広げられたときだった。
 ……何かが、生まれようとしている。

 つんざく咆哮は聴覚を超えて、もはや身体に直接叩き込まれているようだった。地鳴りのような振動が身体を揺さぶる。

 直後に感じたのは、凄まじい熱量。熱い、なんてものではない。それは痛みだった。触覚はとうに焼き切れてしまっていて、痛覚が辛うじて熱を拾う。
 何かが焦げるいやなにおいがした。多分、髪の毛だと思う。

 身体を丸め、熱風を避けるようにして瓦礫の影に身を潜める。それでも見なければという気持ちは止められず、辛うじて視界が確保できるぎりぎりくらいに、薄く目を開けた。
 瞼の隙間、純白の体躯が、圧倒的な質量をもって、そこにいた。
 見開かれた瞳は、冬の澄んだ青空のようでいて、静かに燃えている。

 羽ばたきひとつで爆風が巻き起こる様を、わたしは半ば夢見心地で見上げていた。

 綺麗だったのだ。美しいと思った。
 伝説の存在をこの目で見ることが出来た事実が、どれほど稀有なことかは分からない。
 けれど、人の目を釘付けにするにふさわしい威厳と、存在感。そら寒いような恐ろしさと、視線を釘付けにする魅力。それはわたしにもはっきりと伝わってきた。

「英雄を導くとされる伝説のポケモン、レシラム……。美しいな……」

 Nが、復活したばかりの伝説のポケモンを見上げながら、場所を譲るように後ろへと下がる。
 爆風のさなかにあって、Nの声はかろうじてわたしの耳にも届いた。その声音には、恍惚とした色が混じっている。

 今まで小さく丸まっていた分を発散させるかのように、レシラムはもう一度、世界に向かって産声を上げた。

 舞い散る火の粉のひとつひとつが、伝説のポケモンの誕生を言祝ぐようにぱちぱちと弾け、それでもまだ足りぬと熱を持て余している。
やがて白い巨躯に内包された熱は溢れ出し、レシラム自身を取り込んだかと思えば、爆発的な熱量を放射状に放った。

 敵意も、悪意もそこにはない。ただ、自身の存在を示しただけ。それだけなのに、一瞬で消し炭にされてしまうことを悟った。

 視界の端で、Nが咄嗟に身を屈めたのが分かった。倒れた柱が壁になって、身を隠すのには最適だ。

 わたしはというと、全く足が動かなかった。
 ほんの少し、身体を叱咤して柱の影に飛び込めばよかったのに、それすらも出来ないのだ。
 目の前のちっぽけな瓦礫では、それもろとも吹き飛ばされてしまうだろう。

 足がその場に縫い付けられているかのように、頑として動かない。それどころか、指の1本すらも動かすことが出来ない。身体が石膏でできた彫刻になっているみたいだった。

 怖い、という感情とは少し違う。……畏怖、魅了、諦め。自分の理解の範疇を超えてしまったそれを真実だと見せつけられて、その事実すら受け止めきれず、なすがままに押しつぶされているのだ。

『リサ!』

 夢見心地から覚めたのは、いつの間にか地面に降り立っていた琳太の声が聴こえたから。
 視界の端で、黒い塊が飛び跳ねて、わたしの前に出ようとしている。

 だめ。
 
 とっさに伸ばした手が届く前に、目の前が真っ白になった。もう目を開けていられない。いや、開けているのか、閉じているのか、それすらも分からなかった。ただただ、真っ白だった。
 鈴の音が聞こえたのは、幻聴だろう。こんなところに彼女がいるはずもない。走馬灯、とは少し違うような気がしたけれど、似たようなものだったのだろう。

 星のように光って、焼けて、堕ちたのだと思った。

『ちょっとあんた。伝説だかなんだか知らないけどねえ、あたしのお姫さまを傷つけないでくれる?』

 聞いたことも無い声が頭の上から降ってきて、指先に琳太の少しごわごわした毛並みの感触が伝わるまでは、本当に、そう思っていた。
 けれど違った。
 
 夕焼けみたいな色がはためいて、粉雪のように火の粉が舞い散る。
 今更ながらに熱と痛みを強く感じて、まだ死んではいないということが身にしみた。



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