泣いたラプンツェル‐02 

涙で歪んだ視界には、いまだに身体を石のように硬直させている美遥がいて、何度まばたきしてもそれは変わらなかった。生ぬるい雫を袖口で乱暴に拭って、鼻をすすって、口を開く。涙よりも鼻水よりも、出してしまうべきなのは言葉だ。わたしの心の裡にある、現実の私だ。

「わたしはバトルするの苦手で、へたくそで、頼りにならないと思うけれど、それでも自分なりに考えてるの。ここなら琳太がいい、ここなら次は交代しようって。でも、そこで真っ当な理由もなく交代することを拒まれたら、わたしは困るの!美遥、わたしのこと困らせたくていろいろ言ってるんじゃないかって思うこともあった」
「そんなこと、」
「そんなこと、ないって思ってるだろうけど、わたしはそう思ってる。だって、わたしが美遥のことで困ってる間、美遥はわたしのこと独り占めできるもん。美遥はわたしに自分を見てほしくて、構ってほしくて、わがままになってる」
「ちが、」
「違わないよ!!」
「……!」
「違わない」

長い沈黙だった。
鳥ポケモンの鳴き声が遠く聞こえてくる。
10秒だったか10分だったか。あるいはもっと長かったのかもしれない。時が止まってしまったかのような屋上で、ゆっくりと、縦長の小さな瞳がうるみはじめた。蚊の鳴くような声が、澄んだ空気を震わせる。

「おいら、わがまま?」
「うん、わたしはそう思ってる、し、困ってる」

ぐっと唇を噛み締めてはいるものの、涙まではこらえきれなかったようで、ぼたぼたと美遥の瞳からも涙がこぼれ始めた。
もらい泣き、とは少し違うと思うけれど、わたしも引っ込みかけていた涙が再び沸き上がってきて、ずず、と鼻をすすった。

「美遥のわがままに振り回されるの、もう疲れたよ……」

眼帯が湿って不快な感触がするから外してみると、目としては機能していないのに、しっかりと涙だけは流れていた。

「おいら、リサにとって、わがままだった?」
「うん、とっても」
「おいらが、リサのために強くなりたいって思ってたこと、全部、違った……?」
「全部じゃないと思うけど、わたしが困ることは、たくさんあったよ。美遥はわたしのためじゃなくて、自分のために動いてたんだよ、きっと」

はなちゃんの言うとおり、美遥は、自分の気持ちと、相手の気持ちの、ちょうどいいところを分かっていない。だから、自分の主張はすべて相手のためになるものだと思っていて、それがわがままだという自覚がなかった。
彼が強くなりたいと言ってバトルの練習をひたむきに行ってくれているところはうれしいと思うし、頑張ってほしい。だから、美遥の全部を否定したいわけじゃない。ただ、美遥にはもう少し、周りの仲間の気持ちを考えてほしいのだ。かわいいお願いだと思って聞いているうちはいいけれど、それが許容できなくなってしまうくらいに度を過ぎたものになってしまうと、わたしたちの関係性は崩壊してしまうだろう。
わたしも美遥の言い分を曖昧なままに聞き入れたり、誤魔化したりしてしまっていたかもしれないけれど、その結果がこれだ。踏みとどまるために、今、ここでけじめはつけなければいけないのだ。

「おいらね、リサが困ったように笑う顔、好きだったんだ。ああ。おいらのこと見てくれてるんだなあって思えて、進化できた時、本当にうれしくて、でも、おいら、弱いまんまで、試してばっかで、リサの言うとおり、リサのこと、信じてなかった、すぐいなくなっちゃうって思ってた」

そこに追い打ちをかけたのが、燐架さんの言葉。別世界から来たわたしには、もうひとつ故郷があって、そちらを選ぶ権利もあるのだと、わたしが望めば、この世界から飛び立てるのかもしれないのだと、新しい帰る場所を提示してくれたのだ。彼女からすれば全くの善意、気遣いにすぎなかった。けれど、美遥にとっては、またひとつ、わたしが彼の前から消えてしまう理由になっていた。

「おっきくなったから、一緒に寝るのも変だし、手をつなぐのもなんだか違うなあって、分かってたけど、知らないふりして甘えてた」
「うん」
「おいら、ちょうどいいところ、見つけられるかな」
「一緒に見つけよう」

美遥が目を伏せ、腹の縫合痕を指でなぞる。彼の中に、もうわたしはいない。もやもやと消化できないままでいた、歪んだわたしの影は、彼の中から立ち去ろうとしているようだった。

「リサ……!」

わたしの言葉を聞いた美遥が、ぐしゃぐしゃに顔を歪めて泣き出す。……あれ、おかしいな。いつもの調子なら、ぱっと顔を輝かせてハグくらいしてくるものだと思っていたんだけれど。
両手を組んで額を膝に押し付けて嗚咽を漏らすその様は、神への贖罪を求める咎人のようだった。祈るように、縋るように、固く組まれた手のひらは震えている。指先は真っ白になっていて、無節操に伸びた鋭い爪が、手の甲に食い込んでいた。

「リサ、やさしずぎてっ……ごめんなざ、い、おいら、ごめんなさい、なんで、すてて、ずてられでも、おいてかれても、おかしくないのに、ひどい、こど、いっぱい、してっ、でも、……でも!いっしょに、とか!いう、から……っ!!」

あきらめ、られなくなる。

絞り出すように吐き出された言葉が心を震わせて、わたしもきっと、顔をぐしゃぐしゃにしているんだろう。
震える骨ばった手を包み込むように、両手のひらを添えた。いつも繋いでいたあの元気いっぱいで小さな手とは似ても似つかないその手の感触は、すっかり冷え切っていて、空っぽな感じがした。
爪の食い込む手の甲をそっと撫でると、少しだけ、美遥がそのかんばせをわたしに向けた。

「一緒にいたいって言ったのは美遥の方なのに。美遥が諦めちゃったら、本当に、どっかに、行っちゃうんだからね……!」
「うん、うん、おいら、もう、ぜったい、諦め、ない、からあ、」

手首をがんじがらめに縛られて、断罪の時を待っているかのような彼の目が、わたしを映す。

「おいら、ゆるしてもらえるかなあ」

なんとなく、それに答えるのはわたしじゃないと思った。少なくとも、今、ここにいるわたしが決めることじゃない、と。美遥も特に返事を待っている様子はなく、一度大きく鼻をすすってから、澱みを流しきったようなふわふわとした笑みを浮かべた。

「美遥はもう飛べるんだから、いつでもわたしのこと、探せるでしょ」
「うん、いなくなっちゃっても、がんばって、リサのこと探す!」

おかしいなあ。
わたしが言いたいこと言ってすっきりしようって思ってたのに。結局、中途半端に泣いただけで終わっちゃった。美遥の方がすっきりしてるような気がするし。わたしまだちょっと美遥の事怖いし不安だらけなんだけど。
けど、でも、なんだかこれでいいんだって思えたから、きっとこの話はおしまい。これで、よかったんだ。

「美遥ならきっと、本当のわたし、見つけてくれるよ」
「うん、うん、おいらが一緒がいいって思ってるのは、ここにいる、リサだから……!」

いつの間にか日が傾いていて、わたしの影が、美遥に落ちる。きらりと幾筋もの涙が流れていく様を、しばらく声もなく見つめていた。

「リサは、おいらのかみさまなんだ」
「え……?」

困惑しているわたしをよそに、美遥を手のひらをゆっくりと開き、今度はわたしの手を、自分のそれの中に閉じ込めた。小さなちょうちょを捕まえるときのように、潰してしまわないかというわずかな恐れを持ちつつも、逃がさないように、しっかりと。
籠の中にいるわたしの目をまっすぐに見て、美遥はもう何も言わなかった。

くう、という音がこだまして、美遥の腹が鳴ったのだと気づくのに数秒かかった。
安心したらお腹すいたのかな。そう思った瞬間、わたしも急激な空腹感に襲われた。そういえば、朝から食事が喉を通らなくて、水しか口にしていない。病み上がりに何にも食べないというのは、と九十九たちに言われたけれど、強く咎められるようなことはなかった。あるいは聞き流してしまっていたのかもしれない。わたし、よっぽど緊張していたんだろう。


美遥にどう向き合うのか、屋上に来るまでずっと考えていた。

トレーナーとして、”おや”として向き合うべきなのか、それとも、人間とポケモンとして向き合うべきなのか。立場の違いを考えたらきりがなくて、結局、勢いのままに飛び出した言葉のすべては、等身大のわたしだった。気味悪い出来事におびえ、ストレスを被っては怒り、聞き分けのない相手には大声を出して自分の考えを押し通す。

トレーナーとしても”おや”としても失格だと思うし、話し合いだったかといえば微妙なところだ。言いたいこと言えてすっきりしたかと言われれば、そうかもしれないけれど、まだ不十分な気もしている。あんまり言い争ったり自分の意見を言うのは得意じゃなくて、傷つけてしまうかもしれないと思って相手の顔色を窺ってしまうから、大声を出している最中も、怖くて仕方がなかった。怒鳴り返されたらもう、臆病なわたしは何も言えなくなってしまうと確信していたから。



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