のこされしもののうた‐06 

きみはもう、こっち側には来られないし、来てもいけないんだ、とサツキは言う。どうして、と尋ねると、長すぎたからだと答えられた。

「きみは人間でいることが当たり前だと思って育ってきて、人間のまま生きていくことに慣れすぎた。だから、今更ほかの生き方は選べないんだよ」

そもそも、生き物は種族を定められて生まれ落ちるもの。わたしとサツキは、その例外中の例外だった。特にサツキは。人間かポケモンか、選べたのだから。

「僕だって人間になりたいと思った時もあった、けれどこちらを選んだことを後悔はしていない。それよりも、今はリサ、きみのことだ。きみ、両目とも見えているのかい?」
「え?」

サツキが言っていることの意味が分からなくて、わたしはちいさくかぶりを振った。枕元にあった化粧ポーチに手を伸ばすと、意図をくみ取ったサツキが手鏡を出してくれた。鏡を見るたびに泉雅さんの顔がちらつくけれど、あの人もそんなに暇じゃないだろう。何より熱に浮かされたこの頭では、何を言われても会話にならない気がする。

「ちょっとびっくりするかもしれないけれど」

サツキは手鏡を渡す瞬間に、少しためらうようなそぶりを見せた。けれど、結局はそう言ってわたしを見守るばかりだった。そして鏡を見て、サツキの言葉通り、いやそれ以上に、わたしはびっくりした。
わたしの目の赤い方、お父さんからもらった方は、いつも通りだ。けれど、お母さんからもらった青色の瞳は、影も形も見当たらない。そこだけぽっかりと穴が開いたように、虚ろで真っ黒な穴になっているのだ。見つめれば見つめるほど、その左目の穴に吸い込まれてしまいそうで怖くなったわたしは、慌てて鏡をサツキに返した。
左目だけ、骸骨を見ているようだった。何もない空間には生気の欠片もなくて、光も見いだせない。延々と続く空虚な穴が、わたしを飲み込もうとしていた。

試しに左目に触れてみようとしたけれど、眼球自体が無くなっているようで、本当に穴が開いているみたいだった。ここでようやく、自分の視界がいつもより狭いことに気づく。見えないはずだ。そもそも目がないのだから。

「すり抜けちゃうのも片目が無くなっちゃってるのも、今のきみが不安定だからなんだ。人間であることに迷いが生じてる、と言えばいのかな」

自分が人間か、そうでないかだなんて、今まで考えたこともなかったはずのわたしは、この世界に来て、自分の出自を知って、迷うようになった、と。そういうことなのだろう。自分としてはこの世界での立ち居振る舞いを覚える方に苦労していたから、それどころではなかったような気もするけれど。心のどこかでは、もうひとつの可能性を知ってしまって、迷っていたのかもしれない。

ああ、でも、もしかしたらこれは、代償なのかもしれない。わたしがこの世界に来るために必要とされていた代償は、あと2つあったはず。それがほかの人に降りかかるよりはずっといい。

「サツキ、これ、治らなくてもいいよ。きっと、治らない……」
「いいや、治る、治らないの問題じゃないんだ。これはきみの生き方の問題で、ほかの人がどうこうできるようなものじゃない」
「そう、なの?代償じゃないの?」
「ああ、あの人が言っていた代償ね……」

サツキは何かを思案している様子で、長いこと目を閉じていた。次に彼が目を開いたとき、その瞳にはきらめくアメジストがはめ込まれているように思えた。夜でもそっと足元を照らしてくれるような、暖かくて、けれど触れても決して温かくはない色をしたともしび。

「もしかしたら、そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない」

あの人はきっと、何が代償かなんてもう知っているし、どれが代償かなんて考えても仕方ないよ。
そう言ってサツキは笑う。
わたしがこの世界に来た時から、代償が決められているとしたら。チャンピオンロードでわたしが襲われたこと、九十九がバトルを怖がってしまうこと、ヤグルマの森でわたしが怪我をしたこと、リゾートデザートでの出来事……不幸なことって、数えてみたらきりがないくらいたくさんある。その中のどれが代償だったか当ててみろ、だなんて言われても、きっとわたしには一生わからない。どれもこれも必然的なものだった気がするし、乗り越えられなかったこともなかったから。
これはサツキの言う通り、これは考えても意味がないなあ。

「ところでリサ、食欲の方はどうだい?」

わたしの代わりに腹の虫が返事をして、サツキが笑う。
半分しかない視界でも、彼の笑顔はとても暖かいということがよく分かった。



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