のこされしもののうた‐03 

美遥にお礼を言おうと思って振り向くと、彼はむっと口を引き結んでいた。けれど怒っているとか、不機嫌だとか、そういう表情には見えなかった。違和感を覚えて、一歩美遥に近寄ると、彼の口の端からぴょこりと一本、黒い毛がはみ出していた。

「髪の毛?」
「えっあっ、ご、ごめん……」

わたしの後ろに立った時、何かの拍子で口の中に入ってしまったのかもしれない。長い髪の毛だとよくあることだ。わたしも俯いたときや風が強いとき、自分の髪の毛が口の中に入ってしまって困ることがある。とくに彼が謝るようなことでもないのだが、意図せずしてとはいえ髪の毛を抜いてしまったことに、罪悪感を覚えているのかもしれない。
慌てて美遥は口からぴーっと髪の毛を抜いた。美遥の持っている色の髪ではないから、やっぱりわたしのだ。それをゴミ箱に入れるのかと思っていたが、彼はその髪の毛をつまんだまま、部屋を出て行ってしまった。どうしたんだろう。ゴミ箱ならすぐそこにあるのに。


その日の夜、いつものようにわたしは琳太と美遥に挟まれて眠った。美遥が大きくなったせいでベッドはだいぶん狭くなったけれど、暖かい。
しかし、セッカシティは寒い。そのせいか思うように眠れなかった。ネジ山を抜けたときから思っていたことだが、この街はホドモエ付近と比べて格段に日差しが弱くて風が冷たい。秋をすっ飛ばして冬に突入しているようだった。
琳太が毛布を巻き取ってしまい、寒さにぶるりと身体が震える。毛布をもう1枚調達してこようか。それともこのまま我慢しようか。眠ってしまえば寒いことなんて忘れられるはずだ。そう思って琳太の背中にくっつくようにして、横向きに身体を丸めた。
じゃり、じゃり、とかすかな音がすることに気づいたのは、その時だった。
何の音だろう。かすかに響くその音は、自分のすぐ後ろから聞こえてくる。しかし、聞いたこともないような音だ。やがて、ちくりとうなじに痛みが走る。この感覚はさっきも……。
ごろりと寝返りをうつと、こっちを向いている美遥とばっちり目が合った。わたしはかなり夜目が利く方なので、美遥の目がまばたきしている様子もつぶさにわかる。
一方、鳥ポケモンだからだろうか、彼はわたしが見ていることに気づいていないようで、ごそごそと手を動かして、何かを手繰り寄せているようだった。
何か。……髪だ。髪の毛。わたしの、髪の毛だ。
束でとって手繰り寄せたそれを、指ですり合わせている。まるで何かを確かめているかのようだった。

何をしているのだろうと思った矢先、彼は、毛先の部分を自らの口へと運んだ。はむ、という効果音がつきそうなそれを、わたしは声もなく見つめていた。じゃりじゃりじゃり、舌で、歯で、髪の毛を擦り合わせる音がする。
食まれている。噛み切ろうとして歯と歯でこすり合わせるように何度もぎょり、ぎょり、ぎょり、と。時折髪の毛を引っ張られている感覚が、頭皮の方にも伝わってくる。

先ほどから聞こえていた音の正体がわかるとともに、わたしは自分の顔が引きつったのを感じた。変に吸い込んだ空気が、鼻の奥で悲鳴になる。言葉にならない声が漏れてしまうのを、どこか他人事のように聞いていた。軋んだ木材のような、尖った爪で黒板をひっかいたような、金属同士をこすったような、およそ人の口から洩れたとは思えないような、わけのわからない声。目の前で起きていることを受け入れられずに、自分の悲鳴と甲高い耳鳴りで聴覚が埋め尽くされる。

美遥がわたしの様子に気づいたのか、小さな声で名前を呼ばれたような気がする。けれど、雑音にしか聞こえなくて、どうしていいのかわからなくなる。わたしの声しか聞こえない。じゃりじゃり、ぎょりぎょりという音が耳をついて離れなくて、それをかき消したくて耳を抑えるけれど、それはまとわりついて離れない。空気に音が溶け込んでいるとしか思えないくらいに、ねっとりと音が脳を包み込む。
髪の毛がわずかに重たくて、それが、わたしの心臓を揺さぶった。
のたうち回るけれど、耳も、髪の毛の感触も、離れてはくれない。もう自分が悲鳴を上げているのかどうかさえ、意識することができなかった。

息を吐いてしまえたら、どんなに楽だろう。吸い続けて、吸い続けて、吸えなくなっているのに、吸い続けるしかなかった。夜目の利いた目はもう、美遥の顔を見ていなかった。焦点の合わない目が最後に映したのは、ぬらりと唾液にまみれた髪の毛が、美遥の口から吐き出されるところだった。

遅れて聴覚の方もふつりと途絶える。美遥以外の誰かに名前を呼ばれた気がしたが、もう誰でもよかった。ただ、呼んでほしくない、と思ってしまった。
もう何も、聞きたくない。



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