Remember XXX‐06 

わたしの世界は、ふたつあった。

ひとつは、自分が育った世界。物心ついたときから認識している環境で、私は高校生だった。お父さんはいなくて、お母さんとふたり暮らし。少し寂しいような気もするけれど、友達はそれなりにいて、それなりの学校生活を送っていた。

もうひとつは、わたしが生まれた世界。お父さんに会えて、自分にはきょうだいがいることもわかった。不思議なことがたくさん起きて、毎日知らない出来事がたくさん起きる。ポケモンという生き物が、人と協力して暮らしている世界。何かと不穏なこともあるけれど、そこらじゅうがわくわくに満ちている。

選んでもいいのだと、彼女は言った。ろうそくの炎のように、細やかな煌めきを持つ瞳。おろせば地面についてしまいそうなくらい長い髪は、ふわふわと揺れるツインテール。

「あなたは……?」
「燐架っていうのね!覚えてる?」
「うん」

覚えてる。わたしが世界を渡ったとき、手を引いてくれたのは彼女だった。その彼女が今ここにいるということは。

「わたし、帰ってきちゃったの?」

どちらの世界のことを帰る場所といったらいいのかはわからないけれど、この言葉がなんだかしっくりきた。
記憶が混濁していたけれど、頭の中に残っていたわだかまりがするするとほどけていった。どうしてかはわからないけれど、燐架さんがわたしをこちらの世界に戻したときの時間は、わたしが世界を渡るいくらか前になっていた。だから、わたしは琳太たちのことを忘れかけていたんだ。

「いきなりでびっくりした?」
「うん、わたし、みんなのこと忘れそうになってた」
「それもだけれど、私が言いたいのは、こっちから、あっちに行ったときの話なのね」

鳴り響いたままの警報器。音は鳴っているのに、時は止まっているみたいだ。
燐架さんがすまなさそうに眉を垂らすと、それにつられてツインテールもこころなしか元気を失っているように見えた。

「リサはこの世界で育ったんだから、こっちにいてもいいと思うのね」

鋭い爪や牙で、痛い思いもしなくていい。
目の前で仲間が傷つく様も見なくていい。

痛みがないというそれだけで、一気に世界は優しく見える。
今まで通り、いつものように学校に行って、部活して、たまには友達と遊びに行って。休みの日には家でごろごろしたり、電車に乗って遊びに行ったり。

「琳太たちには、会えなくなるんだよね」
「もちろん」

でも、今日カラオケに誘ってくれた友達は、わたしが世界を渡ってしまえば、会えなくなる。
世界を渡ったきりだったら、選ばなくて済んだのに。どうして今になって、わたしは選択肢を与えられてしまったのだろう。

「私、タワーオブヘブンにいるのね。自由に出られないの。だから、リサが来るのをずっと待ってたのね」

来てくれたら、改めて選択肢を与えたい、と燐架さんは思っていたらしい。それは彼女の好意でもあり、償いでもあった。わたしに選ばせることなく世界を渡らせてしまったことを、ずっと気にかけていたのだという。
どういう事情があって彼女がタワーオブヘブンから出られないのかは知らないが、自分が自由に動けないからこそ、自由にどこへでも行けるわたしには、道を増やしたかったのかもしれない。

「選んでも、いいの?」
「うん。泉雅には怒られちゃうかもだけれど、なんとか誤魔化すのね!」

すでにわたしをこちらの世界に動かしてしまっている時点で相当怒られることは覚悟済みなのだろう。そうまでして、彼女はわたしの意思を尊重してくれている。そこまでしてくれる理由が知りたかったけれど、今尋ねても、はぐらかされるような気がした。

「わたし、忘れちゃってた……」
「それは仕方ないのね」
「うん、でも……」

それでも、申し訳ない気持ちになる。あんなに一緒にいたのに。忘れたまま、いつもの自分としてカラオケに行って、家に帰って、誕生日ケーキを食べていたかもしれない。もしかしたら、友達はわたしをお祝いするために誘ってくれていたのかもしれない。

そういえば、わたしがいなくなった世界はどうなるのだろう。はじめからいなかったことになってしまうのだろうか。それとも、いなくなったことに気付いて心配してくれるのだろうか。行方不明の少女として捜索されているのかもしれない。

「みんな、わたしのこと、忘れちゃうのかな」
「それはやってみなくちゃわからないのね」

わたしがいなくなったら、琳太たちはどうするんだろう。琳太はお母さんろお父さんが面倒を見てくれるかもしれない。九十九にも研究所があるし、はなちゃんにも育て屋がある。美遥も、リゾートデザートに迎えてくれる仲間がいる。

でも。

「機会をくれて、ありがとう」
「ううん、いいのね。私の押し売りなのね」

差し伸べられた手を取る。真っ白で雪のような肌と、細い指先。ぐっと彼女がわたしの手を握り直したかと思うと、ぶわり、涼しい風が吹き抜けた。




back/しおりを挟む
- ナノ -