退き潮は寄るばかり‐07 

深く、大きく、肺が痛くなるくらいにたっぷり息を吸って、静かに口から吐き出した。包帯も縫合糸も取れて元通りになった腕を一度さすってから、目を閉じる。
……よし。

「は、はなちゃん」
「あ?」

星を散らした瞳に射すくめられて、ずっと頭の中で考えて組み立てていた言葉がバラバラになってしまった。覚悟はしていたけれど、やっぱり本人を目の当たりにすれば話は別だ。口ごもってうつむいたわたしの前から、彼が立ち去ることはない。待ってくれているのだろうか。

「えっと、あの、……ありがとう」
「あ!?」

予想していなかった言葉なのか、はなちゃんの声のボリュームが跳ね上がった。わたしとしても、どうして「ありがとう」に至ったのかを省いて、真っ先に言いたいことだけを伝えてしまったことは予想外。慌てて補足する。

「だって、最後の力を振り絞ってミネズミを遠ざけてくれたし、この前だってジョーイさんを呼んでくれたのは、はなちゃんでしょ?」

だから、ありがとう。重ねてお礼を言うと、はなちゃんはがしがしと頭を掻き回してそっぽを向いた。居心地が悪いのか、そわそわと落ち着かないのが丸わかりだ。照れてるのかな。

「お前は俺らに比べてすぐコロッといっちまうんだから、気ぃつけろよな。……それと、」

その先の言葉が聞き取れなくて、首をかしげてみせる。はなちゃんがそれ以上何も言おうとしないので聞き直しても、口をつぐんだまま。こう中途半端にされては気になってしまうではないか。

「言いたくないならいいけど、気になる……」
「……」

これ以上の追撃は、彼を怒らせてしまうかもと思ったけれど、それとなく気になる旨を口にせずにはいられない。だって、普段のはなちゃんはきっぱりものを言う性格だし、こんなにそわそわしているのは珍しい。


入院している間、あのやり取りがあって以来、今日までわたしとはなちゃんは会話どころか顔を合わせることがなかった。わたしはベッドの周りからあまり動けないし、はなちゃんははなちゃんでわざわざわたしの病室へはやって来なかったのだ。寂しい気もしたけれど、お互いに気まずい気持ちがあるのはわかっていたので探しに行くことはできないでいた。

琳太ははなちゃんの態度が不満らしく、はじめの頃はどうにかしてはなちゃんを病室まで引きずって来ようとしていたみたいだけれど、最近はそれもない。九十九が納得させたのか、それとも琳太まではなちゃんと気まずい関係になってしまったのか。真相を知る術がないことが歯がゆいし、琳太や九十九にまで気を遣わせている状況が申し訳なかった。

けれど、いつまでもそうしているわけにはいかない。はなちゃんは、やろうと思えばいつでもそうできたのに、わたしの手元にある自分のボールを奪おうとはしなかった。まだわたしに預けてくれていた。まだわたしの手持ちのポケモンで居てくれることに安心感を覚えつつも、この気まずさを解消しなければ先には進めないということが鉛のようにわたしの心にのしかかっている。


ぼーっとしていた、らしい。
不意に温もりを感じて視線を下げると、小麦色の肌が、わたしの利き腕ではない方の手首を握っている。そのままぐい、と引き寄せられてよろめいたけれど、なんとか踏みとどまれた。

「八つ当たりしちまって悪かった、って言ったんだよ」

ぼそり。耳もとで響いた言葉に肩が跳ねる。短い言葉なのに、それすらも満足に拾えず、ぼろぼろと取りこぼしてしまった。頭の中ではなちゃんの声がうまく噛み砕けなくて、くっと呼吸が止まった。掴まれた手首と、低い声を流し込まれた側の耳が、やけに熱い。

「二度も言わねえぞ。お前が怪我しねえように俺が強くなればいい話なんだから、もう何も考えんな。いいな」

ああ、かっこ悪い。そう言ってため息をついたはなちゃん。トレーニングルームに入り浸っていたのは何となく知っていたけれど、それが決して気を紛らわせるためだけではないと知って、心の内からこみあげてくるものがあった。

吐息が耳をくすぐる感触は否応なくはなちゃんを間近に感じさせてきて、それがどうしようもなく気恥ずかしい。それを伝えたくて顔を上げると、ようやくはなちゃんはわたしとの距離感に気付いたらしい。ばっと飛びのいたはなちゃんは、トレーニングルームの扉に背中をぶつける、はずだった。

「うわあっ!?」

はなちゃんのものではない叫び声が上がって、青い影がはなちゃんの下敷きとなって倒れていく。わたしたちを気にかけたらしい九十九が、タイミングの悪いことに扉を開いてしまったのだろう。九十九がはなちゃんの体重をとっさに支えられるわけもなく、ドミノ倒しになっている。

「大丈夫!?」
「ああ……」

ごろりと横に転がって、はなちゃんは九十九の上からどいた。しかし、九十九はまだ起き上がれないでいる。そして、もがいているのは九十九だけではなかった。

「んー!!」

琳太も、ドミノ倒しの犠牲になっていたのだ。どういう転び方をしたらそうなるのか、琳太のポンチョが九十九の視界を奪っていて、琳太は琳太でポンチョを九十九に持って行かれて動けない。
はなちゃんが九十九を、わたしが琳太を助け起こして、そそくさとトレーニングルーム前を後にした。入り口で騒いでは迷惑だろうし、とてもほっと一息つけそうにはなかったからだ。
ロビーまで足早に移動してソファーに身体を預ければ、いつもよりも沈み込んでいく気がした。自分の身体が重たく感じるのは、運動不足のせいだけではないだろう。

けれど、肩を寄せ合う温もりがあるだけで、ふんわりと心は弾んでいるのだった。


 11. 退き潮は寄るばかり Fin.

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