退き潮は寄るばかり‐03 

はなちゃんが電撃を食らわせたミネズミは再びきびきびと動き出していて、麻痺状態にはなっていなかった。はなちゃんの、最後の力を振り絞った一撃はきっと威嚇程度のもので、大したダメージは与えられなかったのだろう。

琳太ではなく真っ直ぐにわたしを狙うそれに、もうわたしは立ち上がることを諦めていた。だらりと無事な方の腕もぶら下げて、指先が短い草をかすめる。
何かもう、疲れちゃったなあ。目の前で琳太が頑張っているんだから、自分がもっともっと頑張らないといけないのに。どうしようもなく心に滑り込んでくる諦めの感情が悔しくて、ぐっと唇を噛み締めた。

『リサさん!』

一度だけ聞いた、硬いものがぶつかる鈍い音と、初めて聞いた彼の声。暗い緑色をぼんやり映していた視界をゆっくりと上げる。幾度も聞いたことのある声なのに、どうしてこんなにも新鮮で、心に真っ直ぐ届いて来るのだろう。

『ぼく……ぼく、もう逃げない。たぶん』

言葉に逃げ道を作りながらも、その小さな背中はわたしの前から一歩も引こうとしなかった。

「つづ、ら?」

九十九は、わたしの呼びかけに大丈夫と言った。震えを誤魔化すように声を張り上げて。大丈夫、ぼくは戦えるよ。

『ぼく、やっぱりこのままじゃだめだって思った。もう遅いかも、しれないけれど、それでもいい。ぼく、見てるばっかじゃだめだ。いやだよ』

わたしに言っているのか、それとも自分に言い聞かせているのかわからない言葉は、紡がれていく度に芯の強さを増していく。ちっぽけな身体が急にたくましく見えて、わたしをそっと振り仰いだ九十九は果たして、強い光をその目に宿していた。

『リサさん、ぼく、がんばる』

それが引き金だったかのように、九十九の身体が輝きだした。はなちゃんが電撃を扱う時とは違う、刺々しさを感じさせない柔らかな光。走り出したミネズミを、ぐんと大きくなった光の塊がしっかりと受け止めた。

「九十九、なの?」

これが、進化……。きりりとした目に、清流を思わせる明るい青の体躯。大事そうに抱えていたホタチは二つに増えていて、それがミネズミの鋭い歯を迎え撃っている。
黒い尻尾がぴくりと揺れて、同じ色の手がホタチを持ち直し、構えた。役に立たない腕をもどかしく思いながら図鑑をまさぐる。進化して変わるのは見た目だけではない。使う技も変わると聞いたことがあるから、戦うならば技を把握しておかなければ。そもそも九十九と一緒にバトルをしたことなんてたった一度きりで、もう彼がどんな動きをするのか、どんな技を使うのかなんて覚えていない。

けれど、敵は待ってくれなくて、プラズマ団員の指示でミネズミは体当たりを九十九に食らわせる。

「九十九っ!」
『痛い……けど、大丈夫。指示を!』

ようやく鞄をまさぐる手が冷たく固いものに触れる。ああもう他の荷物が邪魔だ。そうこうしているうちに、もう一度ミネズミがやって来る。
避けて、と言おうとしたそのとき、ざざざ、と木々が葉をこすり合わせる音が大きくなって、強い風が吹き抜けた。突風のようなそれに、吹き飛ばされまいと踏ん張るミネズミ。何が起きたかよくわからないけれど、おかげで時間稼ぎができた。かばんの中身をぶちまけてしまいたいがあいにくそれもできず、様々な荷物に引っかかりながらも力任せにポケモン図鑑を引っ張り出して開くなり叫ぶ。

「九十九、シェルブレード!」
『うん!』

一気に距離を詰めた九十九の、二つの武器が輝き、一閃、もう一閃。ミネズミはあっけなく倒れた。そのことにわたしも九十九も呆然としていたけれど、すぐに琳太の応援に向かう。

「琳太、ごめんね!」
『ん、大丈夫。あとはあいつだけ!』

思ったよりも琳太が元気そうなことに安心したけれど、連戦で疲れていないはずがない。九十九を見てうなずきかければ、彼はそれを理解してくれたらしく、琳太の前に立った。

『ん、九十九、おっきい!』

緊張感に欠けた琳太の声で、心が緩みそうになるのをこらえる。最後まで気を抜いてはいけない。いつも通りの琳太にほっとする気持ちも抱えつつ、わたしは九十九と、対峙しているメグロコとを見据えた。図鑑によればメグロコは地面タイプを持っているから、相性的には九十九が有利だ。落ち着けばきっと、大丈夫……。そう思ったのに、身体に力が入らない。わたしの視界は未だに低いままで、時折砂嵐のようなノイズが走り出すようになってきた。

「メグロコ、かみつけ!」
「かわして、みずのはどう!」

うまくメグロコの攻撃をかわせたものの、みずのはどうは尾を掠めただけで当たらないに等しい。しかも、メグロコは穴を掘って地面へと隠れてしまった。はやく倒さなければ、わたしが力尽きてしまいそうだ。きっと腕からの出血がひどいのだろう。じんじんとした熱を振り払うように声を張る。意識を、腕から逸らさなければ。そして気づく。穴の中に逃げられたのではない。追いつめたのだと。

「穴の中にみずのはどう!」

メグロコが穴から出てくる前に、みずのはどうを放った九十九。出てこようとしていた穴から水ごと飛び出して来たメグロコは、ばったりと地面に伏し、目を回していた。くらくらする頭で、どうにか勝てたのだと実感する。一歩、二歩と琳太がプラズマ団員に詰めよれば、彼らはしぶしぶドラゴンのホネを置いて逃げていった。逃げ足の速いことだ。

そこで追いかけるべきかとも思ったけれど、出口ではアーティさんが見張っているから心配ない。そういえば、さっきからアーティさんの声が聞こえているような……。まあいいや。ふつっと糸が切れたように身体の力が失われた。がっくりと垂れた頭が最後に見たのは、やっぱり薄暗い緑色だった。


 

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