千代の傷跡‐07 

本一冊分の隙間に潜むようにして存在している小さなスイッチ。暗がりに手を伸ばして押してみると、カチッという軽快な音のあとに、重たくて大きなものを引きずるような鈍い轟音が生まれた。目の前で本棚が左から右へと流れていく。本棚が壁にぶつかり動きを止めると、とさりと棚の上に積み重ねられていた本が崩れた。

床にはぽっかりと穴が開いており、階段の先は暗がりに溶け込んでいる。わずかに足元灯がある程度だが、十分だ。そう思っていたのはわたしだけのようで、後ろの九十九はかなりおっかなびっくりしながら一歩一歩、ゆっくりと階段を踏みしめていた。

最後の一段から足をのばし、開けた場所に降り立つと、にわかに明るさが増した。それでも博物館と比べれば薄暗いと言える。ここでもやはり、ガラスケースはぴかぴかに磨かれていて、その向こうには、堂々たる雰囲気をまとう女性がいたのだった。この人が、館長でもあり、シッポウシティのジムリーダー。

「よくここまで来たね。あたしがシッポウシティジムリーダーのアロエ。さあ、愛情込めて育てたポケモン、見せてもらおうか挑戦者さん!」

審判が二つの旗を掲げる。後ろの椅子に座り、背筋をぴんと伸ばしている九十九の視線を感じながら、わたしはボールホルダーについているモンスターボールを一度押す。手のひらいっぱいにい大きくなった赤と白のボール越しに、はなちゃんがうなずいてくれたような気がした。

「はなちゃん、お願い!」
「頼んだよハーデリア!」

床を力強く鳴らした蹄の音は、わたしの心も奮い立たせてくれた。ぷるぷると小刻みに、彼の両耳が揺れる。はなちゃん越しに見据えた視線の先には、ヨーテリーの進化形、ハーデリア。可愛らしい見た目だったころの面影を残しつつも、精悍さとたくましさをにじませている。

「シママ対ハーデリア、試合開始!」

ぐるるる、と唸り声を上げるハーデリアに、少しだけはなちゃんの蹄の音が弱くなった。確か、いかくという特性を持っていると相手の攻撃力が下がってしまうんだっけ。ハーデリアの気迫からして、そうなってしまうのもうなずける。鋭い牙がちらりと見えて……いや、あれに噛みつかれるのはわたしじゃなくてはなちゃんだ。わたしが想像して怖がっている場合ではない。

「はなちゃん、ニトロチャージ!」
「ハーデリア、にらみつけるからとっしんだ!」

熱を放出させて走り出したはなちゃんを待ち構えるようにして四肢で踏ん張っているハーデリアが、ぎらりと眼に力を込めた。

「目を見ちゃだめ!突っ込んで!」

駆け出した足が鈍ったはなちゃんの背中に声を投げる。わたしの声で一歩、また一歩と加速していくはなちゃんの動き。それを迎え撃とうと、ハーデリアも動き出す。途中で睨み付けられてためらったとはいえ、駆け出しが早かった分こちらの方が勢いはある。あとは素の力に余程の差がない限り、はなちゃんが有利なはず……!

がつん、と炎をまとったはなちゃんとハーデリアが正面衝突する。額を押し付け合って、互いに一歩も譲らない。勢いと体格差ですぐにはなちゃんが押し切れると思ったけれど、甘かったらしい。進化して随分力が強くなったのだろう、ヨーテリーとは迫力が違う。それに、ジムリーダーが鍛えたポケモンだ。そう簡単にことが進むはずもなかった。

「はなちゃんスパーク!」

はなちゃんの身体を覆っていた熱がぶわりと解放され、かわりに眩しい光がバチバチと鋭い音を立てて白黒の身体を包み込む。
途中で技を切り替えたことで、はなちゃんの注意力が目先の力比べから逸れてしまったが、結果としてはそれでよかったらしい。ハーデリアが一歩引いたのだ。おそらく力任せに押し切ろうとしているはなちゃんの体勢を崩すために、わざと身体の力を抜いたのだろう。

状況は互いの距離が近いままで振出しに戻る。しかし前と違ったのは、ニトロチャージによってはなちゃんのスピードが上がっているということだった。床を蹴る蹄の音がしたかと思うと、ハーデリアの身体がバトルフィールドの壁面に叩きつけられていたのである。

身体を震わせ、光の残滓を飛ばしたはなちゃんが、しっかりとした足取りでわたしのところへ戻ってくる。審判の声が響いて、ハーデリアの戦闘不能が告げられた。

「ありがとう、はなちゃん!」

かすり傷だらけの身体にぎゅっと抱き着くのはためらわれて、そっと首筋に手を滑らせた。よせよ、とでも言うようにはなちゃんはぶるぶると鼻を鳴らしてそっぽを向く。照れているのだろうか。

「アンタ、なかなかやるねえ。でもやられっぱなしというわけにはいかないよ!」

豪快に笑ったアロエさんの目つきは鋭い。放り投げられたボールから飛び出してきたのは、ミネズミの進化形、ミルホッグだった。身長よりも長いしっぽをピンと伸ばし、腕組みをしている。

交代するべきだろうか。はなちゃんはジムに挑戦する前にもNと連戦している。結構疲労がたまっているだろう。そう思ってボールを手にしたとき、鼻面で手を押しのけられてしまった。

「はなちゃん、もう休んだ方が……」
『俺が向こうの様子を見てくるから、まだ琳太は温存しておけ』

それではまるで、自分が囮になるのと同じじゃないか。しかしはなちゃんの視線はすでにミルホッグへと向けられていて、今まさに、審判の旗が掲げられようとしているところであった。




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