千代の傷跡‐06 

すっかり受け身で博物館の展示品たちに浸っていたから、うまく頭が切り替えられない。とりあえず当初の目的でもあるので、ジムの方へと扉を開けて入ってみた。しかし、博物館に入ったときと同様に、ジムらしさがかけらも見当たらない内装をしている。どう見てもただの図書館だ。

ドアのそばに立っていたおじさんが言うには、本に隠された問題を解いていくことで先に進めるようになるのだという。同時に初めの本に関するヒントも貰った。

「ええと、最初の本は“はじめまして、ポケモンちゃん”だったよね」

台に乗っても上の方の本に手が届くか怪しいくらいにうずたかく本が詰め込まれている棚ばかり。整然と区画され、並んでいるそれらを見て心が静まって行くのは、図書館というものが静けさを前提とした空気をまとっているからだろう。それでもここはジムなのだ。その証拠に、本を読んでいた人たちはわたしと目が合うなりそわそわとこちらの挙動を見守っている。いや、見張っていると言った方が正しいかもしれない。
一度ボールに戻ってもらっていた九十九に、小さく囁きかける。

「もし戦うことになったら、どう?いけそう?」

かたりかたりと震えるツートンカラーの球体。じゃあ、はじめは傍で見るだけにするかと訊けば、一度だけ揺れた。それでいい、ということだろう。じゃあ、と九十九を出して、誤解を招かないために擬人化してもらう。

本は簡単に見つかりそうにもないし、ジムトレーナーに勝って聞き出すというシステムなのだろう、きっと。
はなちゃんにはさっき戦ってもらったから一旦お休みしてもらうとして、琳太のボールを握った。待ってましたとばかりに眼鏡をかけた男の子が読み止しの本を棚に戻し、わたしと同じようにモンスターボールを手に取る。

「琳太、よろしくね!」
『ん!』

図書館の雰囲気に似合わない、はきはきとした声が通るここは、もうバトルフィールドだ。相手が繰り出したポケモンはミネズミ。それを目にした瞬間、少し足がすくんだと同時に、ひっという悲鳴がかすかに聞こえてきた。わたしのものではない。同じように怖いと感じている九十九があげたものだ。反射的に空いている手でお腹を押さえている。

今のわたしたちにとって、ミネズミはちょっとしたトラウマになっていた。わたしは実害を受けていないけれど、九十九はあの鋭い前歯の一撃を受けたんだ。バトルが苦手で臆病だと言われる九十九が、身体を張ってくれたあの瞬間。目の前のミネズミはあの時のミネズミとは違うと分かってはいるけれど、鮮明に焼き付いた記憶がリフレインしてしまうのは仕方のないことだと思う。

「琳太、突っ込んでかみつく!」

怯えや迷いを断ち切るように、おなかに力を込めて声を張る。ここで「ちょっとミネズミは……」だなんて言っていられないのだ。怖気づいてしまっては戦ってくれる琳太にも相手にも失礼だし、言い訳にしたくない。自分が逃げていい理由にはならない。それでも手先の震えは止められなくて、無意識のうちに、傍らにいた九十九の手を強く握っていた。怖いという気持ちを共有して縋りつくくらい、許されていいとも思うから。

琳太よりも小柄なミネズミはちょろちょろと駆けて琳太の攻撃をかわす。琳太は遠距離でも攻撃できるが、ミネズミが遠距離攻撃を仕掛けてくるところを見たことはない。ついつい攻撃的な指示を飛ばしてしまったと後悔した。

「琳太、いったん距離を取って!」
「させるか!ミネズミ、ひっさつまえば!」

背を向けた琳太にミネズミが飛びかかる。一見無防備な背中に心臓がぎゅっと掴まれたが、震える左手を握り返す感触がして、ひゅっと酸素を吸い込んだ。背中を押すでも道を指し示すでもなく、ただ隣にいるような、手のひらから伝わる控えめな温度。それが今は、何よりも踏みとどまり、諦めないための支えになった。

「たたきつける!!」

ぐっと二本の前足で強くブレーキをかけて立ち止まった琳太が、振り向く勢いを利用して遠心力よろしくミネズミへ自分の身体を叩きつけた。
予想だにしない反撃に、ミネズミは顔面で衝撃を受け止めるしかなかった。逃げ回るような恰好だった琳太の背後を取ったことで、完全に油断していたのだろう。目を回して起き上がることはなかった。

「お疲れさま、琳太!」
『ん!』

黒くてふさふさの頭を、いっぱいに広げた手で掻き回すようにして撫でる。自ら手のひらに突っ込むようなかたちで頭を押し付けてくる琳太を受け止めながら、膝を折ったわたしは九十九を見上げた。

「九十九も、ありがとう」
「ええっ。ど、どうして?」

両腕を中途半端な位置で浮かせた九十九がびっくりして肩を跳ねさせる。薄暗い館内によく映える、切りそろえられた白髪も一緒にぱらぱらと揺れた。

「だって、九十九はわたしの手を握り返してくれたでしょ?そのおかげで頑張れたんだ」
「あれは握られたからつい、反射的に……」
「そうかもしれないけど、わたしにとっては心強かったんだもん」

まだお腹をさすっている九十九へ、半ば押し切るようにして感謝を伝えて立ち上がる。さあ、ジムトレーナーから本に関するヒントをもらって先に進まなきゃ。思ったよりも広い館内に目を細めつつ、わたしはつま先に体重を預けた。




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