時計

本当に大事なものってさ、時計みたいなものなのかな。


そう思ったんだ。


唐突にそう切り出した紫原に、氷室は首を傾げた。


「時計?」


「そう〜。時計。」


いつもと変わらぬ口振りで、いつもと変わらず菓子を食む。
さくさくと調子よく響くそれからは、彼の内心を読み取ることは出来なかった。
ただ彼がその仕草をするとき、つまり意思なくぼーっと菓子を食しているときの彼の目はどこか遠く、いつも何か目前の光景とは違う何かを見ているようだと氷室は思っていた。
またその視線は、いつかの彼が過ごした時代を懐かしんでいるようにも見えた。


「…部屋のね、時計が止まったの。」


今日もまた、どこを映してもいないような目をして彼は前を向いている。
食べこぼしをあまり気にしない性格であるから座った足の上にはらはら落ちるスナック菓子の粉は感知しないのかただ単純に気付かないのか、手元には微塵ほどの注意も払わず彼の視線は遥か先だ。


「時計?」


氷室が聞き返すと、そこでようやく紫原は視線を移す。
のんびりとした仕草で横に立つ氷室の顔を見上げると、どことなく虚ろな視線がそこに焦点を定める。
紫陽花色の珍しい光彩の瞳にじっと見つめられ、氷室は自分の心の奥底まで、あるいは未だ疼いて止まない卑賤な嫉妬心まで見透かされてしまうような落ち着かない気分になった。


「そー。」


けれど紫原にはそのつもりもないようで、一度一通り氷室の姿を捉えると再び視線を遠くへやった。
そうして心ここに非ずといった風で、呟くように続けた。


「部屋にさ、時計が三つあるの。キッチンと居間と、ベッドにね。」


「ああ、そうだったっけ…」


氷室は数度邪魔したことのある紫原の寮の自室を思い起こす。
キッチンの奥にかけられていた大き目の掛け時計と、居間のテレビと反対の壁にあるやや小さめの掛け時計は備え付けのもので、ベッド横の小さなデジタル時計は目覚まし用にと紫原が家から持って来たものだ。
そのどれもがこれと言って特徴のあるものではなかったし、いずれかの電池が一つ切れたところで特段不便もないだろうと氷室は思う。
他二つの時計の存在に加え、テレビをつければ時刻は表示されるのだろうし、めんどうくさがりの紫原は、着け外す機会の多い運動部ということも手伝って外出先では元々スマホを腕時計代わりにしているほどだ。


それに何より、電池を変えればきっとまた、時を刻めと動き出すのだし。


…紫原は、止まってしまった時計に何を感じたというのだろう。
遥か前、まだ氷室も陽泉の他のメンバーも知ることのなかった時代の、もう過ぎ去ってしまった時を止めたいのだろうか。
それともの何か、何の変哲もないあの掛け時計に別の思い入れでもあるのだろうか。
そう思う頃には氷室はもうすっかり紫原の言に意識を奪われてしまっていて、作業していた手を止めた。
改めてその顔を窺い見るのだけれど、やはりそこに何か感情めいたものは感じられずに口を噤んだ。


「キッチンのね、やつが止まったの。…でさー、それでさ…気付いたんだし、」


「…?」


「俺ねー、そのキッチンの時計よく見てるらしーんだ…。」


…時計なんて、居間にもあるしさ、スマホもテレビも見りゃ出てるんだけどー…。


でも、すっげー不便なんだ、あの時計止まってから。
だからさ、


言いながら、手をパンパンとはたく。そこで初めて氷室は彼が一通りお菓子を食べ終わったことに気が付いた。
順調に一定のペースで棒状のスナック菓子を食べ進めていたのだからそろそろ頃合いではあったのだが、それすら知覚しないほどに紫原の執着に心を寄せる。
元々、紫原は何事にも執着の薄い方だ。
無頓着、と言って済まされる以上の興味の薄さを如何なく発揮しながらそれでも日々を悠々と過ごしていくのだが(その半分は彼の生来持った高いスペックのなせる業だ。
そしてもう半分は、負けず嫌いという彼の性格に起因する)、時間単位ではないにせよ日付単位では手放すことがないように思う菓子にだけはやや強い思いを抱いているようだ。
…そして人間では、家族でも陽泉高校の誰でもなく、今は遠く京都の高校に通う中学時代の同級生、赤司征十郎にだけ、他には見せない執着と関心と、…これは氷室が密かに思っているだけのことだが、恋慕のような愛情のような一面を見せる。
バスケにはどうなのか、そこはまだまだ未知数といったところだ。
IHを欠場した経緯を思えば、赤司がバスケに勝っているということは明らかではあるのだが。


その紫原が、かあえて脱力して、…いや、あるいはそのように見せ実際は力なくなのか、肩を落として呟いている。
何とも珍しく、何とも不安にさせる光景だ。彼のいつにない一面を、予期せず見せつけられている。


「朝、部屋出る時間とか寝る前の時間とか、俺、何かそっちばっか見てんだって。…初めて気付いたんだ。」


今まであるのが当たり前で、自分の傍にいてくれるのが当たり前で、


気付かなかった。全然、気付かなかったんだよ。


本当に何度も、追うんだ、俺、その時計…


んで、気付くんだ。動いてないって…


「動いてないのに、まだ、また…見ちゃうんだ、」


それで、また、気付くんだ。動いてないって。


どうしてだろうどうしてこんなにも苦しいんだろう。


今まで見失ってきたものがある、見ないように目を瞑っていたものがある。


失って、初めて気付いた、大事な、人、


消えるような声でそう言って、彼は器用に結んだスナック菓子の袋を投げる。
きれいな放物線を描いたそれはまるでよく出来たアニメーションのように、音も立てずにごみ箱の中へと吸い込まれていった。








「電池、替えればいいんじゃないのか?」

気が付くと氷室はそんなことを口走っていた。
自分でも自覚はなく、その言葉が骨伝導を通って自身の聴覚に捉えられるまで、言葉を発したことすら感知していなかった。


…その発言が場違いなことは氷室にも全くよく分かっていたのだ。
彼が見せたほんの少しの固執、執着の欠片が意味するのは、時計そのものではないのだろう。もしくは、そのものであってもそれ以上の何かが奥に控えているのだ。
その奥底を未だ氷室は見たことはないのだけれど、何となくの想像はついている。
彼の思いの奥底、意識の最深淵に揺蕩うそれは、恐らく、


「…そんなんじゃ、ダメだし。」


「…、」


「…、…、…ぅぅん、違うね、そうだし…ごめん、やっぱそーだねー…。」


「アツシ、」


自分の気持ちを否定させ、あまつさえごめんなどと普段なら絶対に(彼が謝るべき場面であっても)見せない謝罪の意まで表明した紫原の言を遮るように、氷室は口を挟んだ。
名前を呼ばれた彼は再び氷室の顔を仰ぎ見る。
何も映していないような、だけれど澄み切った色合いの紫陽花色が再度氷室の視線を占有するが、今度は氷室も気にならなかった。
彼の目は今、氷室辰也を見ていない。その奥に先にあるいは空間を超えて、別の何かを見ようとしている。


「…室ちん、」


氷室は素直に、奇妙だと思った。
紫原は確かに自分の名を呼んだはずなのに、彼は全く別の何かを求めているような、そんな感覚がする。
不可解な心持ちだが頭を振って、改めて紫原の表情全体を見た。先程から澄んだ目ばかり見ていたが、…何ということもない、彼だって他の高校生と同じ、何かに躓き壁にぶち当たり行き詰ってしまったときに見せる、困ったような戸惑ったような、心細げな顔をしていた。


「アツシ、」


「…」


「…確かに、人間は時計みたいに、電池を替えたら、なんて上手くはいかないな。」


「…」


一言、一言、氷室の言うことを咀嚼し嚥下し飲み込んでいく。自分の言は彼の喉を焼くのかごりごり傷つけていくのか氷室には分からなかった。
だが、凍らせることだけはない…そう、分かっていた。
…彼が抱え続けた何かを、今再び首を擡げたいつかの心残りを、再び凍りつかせ彼の視線を逸らせることだけは。


「でも、…でも、きっと、伝える手立てはあると思う。」


「室ちん、」


もう一度紫原は呼ぶ。今度は、明確な意思をもって。
そして、心の奥底に仕舞い込んだ彼の繊細な部分にきっと、恐る恐る触れている…。


「人は時計とは違う、電池じゃ動かないし、そんな考え失礼だ。」


「…ぅん、」


「…でも…アツシが考えていること、そのままストレートに伝えてごらん。…それで伝わらなくても、諦めちゃだめだぞ。
…何度も、何度も…繰り返して、絶対、絶対、諦めないで話すんだ。…話せなくても、何か、伝えるんだよ、」


きっと、伝わるはずだから。


「諦めちゃ、だめ…」


「ああ、そうだよ、」


紫原は一度こくり頷くと、黙ったまま視線をもう一度どこかへやった。


だがその目はさっきまでとは違い、しっかり前を見据えていた。








メールも電話も無精な紫原だが、スマートフォンの扱いにはもう慣れた。
記念日だと言っては始終メールを寄越す兄姉に変身するのに時間を取られるのは面倒なので、今ではメール画面立ち上げた後はシャドウタッチでことが済む(まあ大体は予測変換が功を奏することが多い)。
慣れた手つきで触れた画面、慣れた位置をタップして開くデフォルトアプリに、何故だか今日は手間取っている。上手くいかない、と不思議に思い手元を見つめる、そこで初めて紫原は自身の手指の震えに気付いた。

(あ、…)

真剣だからこそ、怖かった。
大好きだからこそ、言えなかった。
けれど、もう、今は。


逃げてはいけないのだ。そう思うことが出来る。


「To:赤ちん」


「Sub:(件名を入力)」


「(添付する)」








「ごめんね、」








それに対して彼の返答は、やはり予期していたもとの大差はなかった。
今や完全に彼然として彼となった彼からの、閾値を超さない定常電位のそれ。
閾値の√2倍のそれ。


「どうした?何かあったのか?」


「…敦が僕に謝ることなんて、何もないだろう?」


微笑みさえも聞こえてきそうで、思わず緩んだ涙腺を叱った。








「赤ちん、」


ふわり笑う君が好きだった。


(む、紫原…///)


俺の行動にいつも戸惑いがちな苦笑いで、初めは嫌われているのかと思った。でも、すぐ気付いた君はただ、触れ合いに不慣れだったんだ。


そして君に、触れ合うことを教えたのは俺。
求めることが苦手だった、手を延ばすのを躊躇った君に、良いよ延ばして大丈夫と、懐柔したのはこの俺だ。
手を延ばすことをいつか覚える、君の傍に在りたかった。


それなのに、


「ごめん、」


君のすべてを裏切って、延ばしてくれた手を振り払い。


「ごめん、」


あの日の俺は、無慈悲な世界の深淵で、君の絶望の表情を見た。


「ごめん、」


分からなかった、気付かなかった。
今まで共に在ったのに、こんなに傍にいてくれたのに。


未だ真意の届かないメール画面を胸に抱き、届かない言葉を何度も何度も繰り返した。


微弱な電波の繋ぐ先、画面を握る赤司の手もまた震えていたのを紫原が知ることが出来たのは、もっとずっとずっと先のこと、WCの最終日のことだった。


end.

13.11.24 加筆20131202


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