NOVEL | ナノ

 翌朝

WC決勝後。
正確には次の日の朝、急に目が見えなくなって。





多少戸惑いはしたが、僕は意外なほど冷静にそれを受け止めていた。





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久々にかかる東京の病院、かかりつけの医師。
いくつも検査を受けたが、予想を裏切らずその原因は不明。
幼い頃からの主治医には、精神的なあれやら気持ちが緩んだことでのそれやらと言われた。

これまでの数年間、いや、もしかしたら今まで生きてきた十数年間その全てを通じ、痛いほどにピンと張り詰めて過ごしてきた心の糸。
それがふつりと切れたことによる身体的症状、…結局のところ、彼の見立てによればそれはやはり心の問題ということだった。
さすがは幼い頃からかかっている医師と言うべきか、彼の指摘は的を射ていたように思う。だが、このタイミングでのそれは少し予想外でもあった。

多少強がりのようにも聞こえるかもしれないが、あの試合に負けたこと…僕は全く気に病んではいなかったからだ。
試合どころか人生初めての敗北、負け戦。
だが不思議と想像していたような耐え難い辛さはなく、何故だか清々しさだけが体に残った。

(これまで、絶望し悔しがる大勢をこの目で見てきたはずなのに。)

今まで背負ってきた重荷をようやく下ろすことができたようで、両肩から憑き物が落ちたようでもあった。
そして、ある意味無敵不敗の鎖に繋がれていたような僕を負かしたその相手は他でもない、袂を別ったかつての友であり、それがまたどうにも嬉しく、心地がよくて仕方ない。
彼の努力は近くから遠くから、いつも目にしてきた。一番近くで寄り添い共に励んできたのは大輝だろうけれど、あいつにも負けないくらい、僕はテツヤの努力と才能とも言えるべきバスケへの愛情を分かっている。
他ならぬその彼が、僕を負かした。
…いや、表現が逆なのか。僕を負かすのは、彼以外にはありえなかっただろう。
WC、チームメイトと共に優勝を取れなかったことは悔しくはあるが、それと同時に清爽な感覚を久々に覚えることが出来、そのことを大いに嬉しく思っていたから。

…だからこそ、よもやそれがこんな形で体に顕れてこようとは思わなかった。

数秒か数分か(時計が見えなかったので定かではないが)僕はこの状況を考え、見極めようとした。
そして導き出した結論は、ただ単に、…そう、深く凝り固まった理由など全くなく単に、これまで何かと気力だけで支え立っていた足元から、力が抜けてしまったのだということだ。心が膝をついてしまったようなものだと、そう推察をして。
ひとまずため息を一つ吐いた。





診察から診断から、学校、家への連絡から委細玲央が請け負ってくれた。
父は今や普通の人間へと姿を変えた息子から思いのほかあっさりと興味をなくしたようで、簡単に手放してくれた。
目が見えるようになるのか、それに関してはもう既に担当医の方で充分な説明がされてあったのだろう。特に触れられることもなく、困ったら秘書に連絡しろと言われただけだった(その電話すら誰かの支えなくしてはかけられなかったということに、彼は恐らく一生かかっても気付かないのだろうと僕は思う)。
家族の会話に聞き耳を立てて良いものか、隣に立ち受話器を耳に添えてくれていた玲央の気遣いが痛いほどに伝わってきて、申し訳なかった。
そんな彼に最後に一つだけ頼みがある、と頼み込んで(実際、そんな無理押しは全く必要なかったが。二つ返事どころか敦の名を最後まで言う前に、彼は”分かったわ、”と受けてくれた。”そんなの、征ちゃんが言い出さなかったら私から勝手にするつもりだったわ”…彼の優しい声が耳に残る)、玲央に繋いでもらった電話口から言った。

「馬鹿だな。…試合中にだって、膝ついたりなんかしなかったのに。」

その電話の先、恐らく同じ東京のどこか。
君は「うん、そうだねぇー。変なのー。」とのんびりと返事をしてくれるかと思っていたのだけれど。

「何、それ…」

いつも温かくてのんびり響く、花束のようにふわっ香るようなテノールは聞こえなかった。
代わりに耳に飛び込んできた電話越しの君の声は、一瞬飲んだ息ごと凍りつくのではと思うくらい低く、鋭くて。

「どういうこと?」

精一杯の感情を込めて責められている。
そんな感じの声音に思わず「敦、」と怯えた声が出た。

「、」

恐らく、僕の名を呼ぼうとして止めたのだろう。玲央の戸惑いは見えなくてもその息遣いで伝わった。
だがそれに配慮するほどの余裕もその時の僕にはなく。

常勝不敗の枷が外れた、と同時に、襲ってきた安寧と空虚感。
目が、見えなくなって。
これまで僕のことを縛ってあるいは縛ろうとして止まなかった親からも、あっさり手放されてしまった。
玲央たちは温かく接してくれたけれど。

正直なところ僕は、とても不安だった。





清爽にすら感じた、自身の負けではあったけれど。
いつからか痛みを感じることも寂しさを感じることも停止していた心を、支配者のいなくなったその奥底を、途端に空虚感と恐怖が襲ってきた。
刹那に急襲する焦燥感と、じわじわ続いている不安感。
神でもなく、敗北を知らない絶対の存在でもなく、ただの赤司征十郎になってしまった僕を君がどう思うのか。
不安でないはずはなかった。
心細かった。
本当は抱きしめて欲しいのに、君の姿は傍にない。今は傍にいても見えないが。
聞こえる声すら冷たく響いて、視覚の効かない分その音は激しく僕の内面に打ち付ける。

そもそも、勝つため、勝利を手にするためと散々利用してきた僕を、(だというのに、負けてしまった僕を)、君がどう感じるのか。
そんなもの、容易に想像がつくというもの。
失望しないはずはない、見限らないはずがない。
僕など、やはり取るに足らない存在なのだと君は再確認したかもしれない。

ましてや、…あの頃、一昨年の、あの日。
迫る敗北から、その恐怖から、″赤司征十郎″という存在の喪失から逃れることに必死で、自分の心を守るのに必死で。自分が取るに足らない人物であるというその恐ろしい事実から目を背けるただそれだけのために、色んなものを切り捨ててきた僕だ(そう、そして他ならぬ君のことも)。心の奥深くに隠れ逃れてしまったこの僕だ。
今さら許される、安穏の元に生きることを許されるわけもない。

だから、つい身もすくんだ。肩を縮め、声が震えた。
言い訳をするつもりはない、ただ、僕は嫌われたくなかった。

その一心から身を固くした僕の耳に、だがすぐ柔らかな声音が飛び込んでくる。
渇望していたそのトーンに喉が震える。
声は、何とか押し留めた。

「っ!、ごめん、赤ちん、」

(あつし、)

「、ごめん赤ちん、でも、…でも、俺、心配で…」

でも、赤ちん他人事みてーに言うし…そんな…

(あつ、し、)

呼んではいけない。
頭の中で警鐘が鳴った。
呼ぶな、その名を呼ぶな。
その名を呼べば、きっと口をついて出てしまう、抑えられなくなってしまう。

、でも、

「っ、あつし、」

抑えきれなかった名前。愛しい愛しい、君の名前。

会いたいよ、会いたいよ、会いに来てよ、

あつし、

「あ、い、たい、」

何度も、何度も、意識の奥底で繰り返した言葉は幸いにも二度しか紡がれることはなかった。
そしてその内の一回は、手から落としたスマートフォンのスピーカーから、彼に伝わることはなかったと思う。

元々見えないのだから霞みもしない、だが確実に潤んでいるのだろう、目頭が熱い。
片手で十分足りるはずなのに、思わず両手で覆い隠した映りもしない視界の端で、玲央が僕のスマートフォンを拾い上げるのが分かった。
低血圧の自分を顧みず、朝食も摂らぬまま朝から考えることばかりしていたからか、僕はそのまま意識を失ってしまったけれど。
その横で、彼は、切迫した声で”今すぐ、”と何か二言三言叫んでいたような気がした。





それからは嵐のように目まぐるしく物事が展開していった。

一日の仮入院をしていた病室の引き戸が、がばっと(本当にそんな感じの)音を立てて開く。
決して乱暴にではなかったのだろうが、体格からくる生来の力強さと普段鍛えている分、そして何よりの焦りがプラスされ、クッション材付きの引き戸が勢いよく跳ね返る。
それを手で押さえたのか、続く音は聞こえなかったけれど、代わりに室内に聞き知った足音が響いた。のたのたと普段は気怠そうに歩くのだけれど、そこに今日は力強さが加わっている。
…いや、離れて過ごした期間は長い。そのうちに、君も成長したことだろう。
伸びた身長の分、獲得した体格の力強さの分、それは思いのほか心強く響く。

「赤ちんっ、」

声を認識するより早く、触れた手が敦を認識した。
奇跡の人、ヘレン・ケラーは指先の感覚で人形を選んだというが、今はその状況に似ていると言えるかもしれない。…見えない、聞こえない、喋れないという三重苦を生涯背負った彼女。重ねてはおこがましいにもほどがあるというものだけれど。
触れた手が、指先が、今朝からあまり高速には動いてくれない脳内に”敦”だと教えてくれた。
僕の右手を包む大きな手の感覚。
節が目立って無骨な指先、けれど繊細に触れてくれる優しい手の、懐かしい感覚。やや平熱は低めの、でも僕よりは高い体温、逞しい腕…。
触れ合った場所から移動してくる、いつも自分を安心させてくれる温かな温度。
ベッドに近づくと即座に身を屈め、起き上がり腰掛けていた(それすら不安定で、ずっと左手をつきバランスを取っていた)僕より少し下の位置に顔を寄せてくれたと分かったその瞬間、バランスを取っていたことすら忘れ、僕は思わず縋って、その先の敦を求めた。

「あつし、」

左の掌が彷徨ったのは一瞬で、すぐ触れた先のふにっとした感触。
いつでも何かを頬張っていて、たまに頬袋みたいに膨らんでいる、可愛らしい曲線。
指の背にはさらさらと柔らかい感触。
無造作に、セットもろくにしていないのに、いつでもきれいにさらりと枝垂れている柔らかな猫っ毛。
美しい色は視覚からは入ってこないけれど、記憶からは容易に思い起こされる、高貴な紫陽花色の光沢を持った絹の糸。

(敦、だ、)

指先が先か聴覚が先か。
どうだっていい、視界で捉えることは出来ないのだけれど、目の前には確かに愛おしい存在がいる。

頬に額に、手で触れる。
じわり汗ばんだ額、不安そうにひくりひくりと動く瞼の不随意運動、下がった眉根、引き結ばれた口元。
指先から詳細に伝わってくるその一つ一つは彼の精一杯の戸惑いで、一度僕の名を呼んでから一言も発さないその理由も何となく悟れるというもの。

(…僕だって、そうだ、)

だから、きっと、もっと訳が分からないだろう君なら尚更、

「少し、」

ああ、でも、やっぱり僕がこんなことを言うのはおかしいのだろうか。

(君は、僕をあざ笑って突き放すのだろうか、)

そんなことはないと知っていながら、僕はずるい。

でも、不安になるこの気持ちも、決して嘘じゃない。

「…少し、っ、…怖い、」

僕がそう吐き出すなり、逞しい腕が僕の体を捕らえた。
がっしりとした体つきそのままの、荒々しい抱きしめ方だったけれど、それで良かった。ふわりふわりと包まれていたなら、今頃まだ少しの不安に囚われていたかもしれないのだ。
息苦しくなるほど抱きしめられる両腕の力強さ、それとは対照的な優しい息遣い。無関係にどこまでも柔らかい、肩にかかる君の猫っ毛(ああ、今日は結んでいないんだな)。

君のすべてに、怖がりな僕はたまらなく安心する。





それからのことは、本当によく覚えていない。


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