NOVEL | ナノ

 原子番号2番

「”赤ちんの敦”でいるのが、嫌だったんだよ。」

言ってしまって、あ、と思った。

だが、口に出してしまったものを訂正することは出来なくて。

ましてや、取り下げるなんてもっての外で。

耳に入っていないことを祈るなんて、それはさすがに無理だと思う。





原子番号2番





あ、と、思ったその一瞬。
咄嗟に脊髄反射で取り消そうと思った時には、目の前の赤司は大きく目を見開いていた。
無意味に紡がれた言葉だった。中身のない妄言だった。だがそれは、一言一句余すことなく瞬時に伝わってしまったように見えた。
何でもすぐに飲み込んでしまう理解してしまう、持ち前の彼のスペックが今は苦々しい。

「ずっと、さ、嫌だったんだ、”赤ちんの敦”って、だから」

本当はそんなこと、紫原は思ってはいない。周りからそう揶揄されることはあっても。…むしろ、彼自身がそれを望んでいたくらいだ。
だからこそ、今自分が何を言おうとしているのか、それは紫原にも分かってはいないことだった。

紫原の眼下に、呆然と見上げる赤司の姿。
それをはるか頭上から見返すのは、こちらも呆然とした表情の紫原だ。
恐らくどちらも混乱を来しているであろう、ぼんやりとし始めた中学生2人分の脳内コンピューター。
それとは対照的に、普段のんびりとした語調で耳に優しい片方のテノールが、何故だかこのときばかりは鋭さを以ってもう片方を切りつけた。

「こうなって、よかったよ。」

思った以上に無感情な口ぶりで告げていた、紫からの平仮名十個。

ただの平仮名十個分。たったそれだけの言葉だ、それが。

…それが、君の心を抉り取らなければいいのだけれど。





次の日、赤司は学校に来なかった。





あれから、どうにかこうにか言い逃げのようにその場を後にしてしまったことを、昨夜は相当に気に病んで帰宅した。もうとうに引退しているというのに、練習で特に疲れて帰ってきたときのように、そのままベッドに突っ伏した。夜中に一度目が覚めたけれど、手持ちのお菓子だって用意されていた夕飯だって、全く喉を通らなかった。
そしてその後の記憶もまばらだ。
いつものように家族に挨拶をして、恐らくいつものように準備をして、きっといつものように通学路を通って、今朝は気が付いたら学校に来ていた。
そして、赤司はいなかった。

こうなったのは、きっとすべて自分のせいだ。という自覚は、紫原にもある。
無意識とは言え不可抗力とはいえ、赤司にとんでもないことを言ってしまった。
嫌われても、仕方のないこと。拒絶されても、仕方のないこと。
…彼を傷つけてしまっても、仕方のないこと。

赤司は今、一人何を思っているのだろう。

今彼の隣には誰もおらず、彼の傍には何もない。

誰一人、何一つ。彼を支えるものはないというのに。

そう思った瞬間、体中の血が逆流したような感覚を紫原は覚えた。実際にはそんなことあるわけもないのだけれど、事実それほどの焦燥感ではあった。言葉での感覚ではないそれ。感情か理性かと言われれば、間違いなく感情のそれ、である。
振り向きざま、後ろから2、3人に声をかけられた気はしたがそれを感知することはなかった。
自分にとって今はただ、赤司の元へ向かうことだけが唯一の選択肢だった。





紫原と赤司は、…いや、何の偶然かあるいは神の悪戯か、同校同学年に集った彼ら、曰く”キセキの世代”は、中学卒業後の進路を別にしていた。

同じ進路を選べば、高校においても難なく勝ち進むことが出来る、さらなる高みを目指せると言う人もあった。だが結果として、誰一人、彼らは進路を共にはしなかった。
それは彼ら”キセキ”主将赤司が望んだことであり、そして何より彼ら自身で決定したことである。
東京、神奈川、秋田、とそれぞれの進学先を決める中、主将である赤司自身が東京を離れ、進学先を京都に定めたのは、その行動だけを見れば意外なことのように思える。けれど彼が選択した先、それが高校バスケにおける王者ともいうべき最古豪洛山高校であると知れば、大抵の人間はああそうかと頷き、それならばと納得した。
ただ紫原にだけは、その選択は憂うべくもののように感じられた。
最古残の伝統校かつ常勝校、その目指すべくところは”百戦百勝”を掲げた彼ら帝光の抱える理念に極めて近く、そしてはるかに遠かった。

帝光のそれは勝つことに重きを置き、常にその高みを目指し貪欲に前進することだった。自分たちの旗印は常に”攻め”の姿勢で掴みとる常の”勝利”、一回なら一回、百回なら百回、三百回なら三百回、一戦たりとも手を抜かず、攻めの姿勢で試合に臨み、奪い取るように勝ちに行った。はるかにひ弱な者が相手だとしても、手を抜くことこそ非礼に当たった。
対して王者洛山の、それは前進に意味はない。少なくとも、全身全霊をかけ勝利することは、彼らにとって何の価値もないことだ。そこに目指すべき価値は存在しない。
彼らにとって勝利は必須。彼らを時に支配して、常に精神を束縛する”枷”は、言うまでもなく常勝王者のプレッシャー。
勝つことが全ての帝中の理念もどうかと思うけれど(その意味で言えば、黒子の心情ももっともなことだと紫原は思っていた)、こちらの方がはるかに性質が悪い。勝たなければいけないのではなくて、負けてはならないのだ。
勝って当然の彼らには、敗北という逃げ道は存在せず失敗すら許されない。

そんな環境へ、そんな過酷な境遇へ身を置こうと決めた赤司を、紫原は何度止めようと思ったか分からない。
だが結局何も言えず、迎えてしまった3月だ。紫原の進学先は秋田の陽泉高校、彼の進学する洛山とは東京のはるか北側を飛び越えて優に数百〜千kmの距離がある。
学力的にも名門であるが故、推薦入試とは言え洛山に進学するには学力的な縛りも随分あった。けれど紫原にもその道は無理なく選択できたし、むしろ、それを一時は望んだほどだ。聞けば聞くほど自分とは合致しない環境だが、赤司を一人そんな場所に送り込むくらいなら。
自分が彼の傍にいて、自分が彼を守らなければ。そう思っていた。
…だが、赤司はそれを拒んだ。

(お前にはお前の、俺には俺の場所がある。)

ああ、確かに。と、紫原は思った。
だが同時に、違う、嘘だ。と…紫原は言いたかった。
赤司の隣以外に、自分の場所などどこにもない。
…赤司の方は、違うのかもしれないけれど。

確かに、歩むべき道は違うと言った彼の発言は正論なのかもしれなかった。紫原には紫原の人生が、彼の力を活かす場があり、赤司には別の場所がある。
だけれど、例えその言葉の通りだとしても、赤司にとってそれは場所というより、”進むべき道”なのではないだろうか。そしてそれはゴールのない、道の両側を並走する木々すら街灯すら存在しない、ただひたすらの無機質な一本道なのではないだろうか。
寄りかかりたくなっても、喉が渇いても、疲れても眠くなっても、休息すべき場所すらない。
立ち止まりたくても立ち止まれない。足がもつれて転んでも、止まることなど許されない。
そこに自身の体を心を晒し、ボロボロにして疲れ果て、一体彼はどこへ向かうのだろう。

だがそれは、間違いなく赤司自身で決めたものだった。最後の砦、彼にとって最後の箍である紫原を拒絶して、赤司が下した決断だった。
そこに、紫原の言葉が入り込む余地はなかった。





そんなことを考えながら、紫原はいつしか立ち止まっていた。驚くべきことに、心ここに非ずの状態ながら辿りつくことが出来たらしい、赤司の大きな家の前。
質素に見える古い作りの門構え、確かに伝統を感じさせるそれ。見せびらかすようなきらびやかな絢爛さこそないものの、入る人を一度ならず躊躇わせるほどに高貴な面立ちのそこを、臆せずくぐれるのは、外部の人間であれば恐らく紫原くらいのものだろう。
加えて彼の家の守衛・使用人の中には、数少ないながら紫原を心憎からず思う者たちがいて、彼女たちは、仕える主人、そのご子息の大切な友として、彼のことを見咎めることなく静かに迎え入れてくれた。

目立たないよう気を遣い、小さい通用門から敷地内に入った紫原は傍らの守衛のにそっとさりげなく礼を言うと(いざ不法侵入が見つかったときに、彼に迷惑がかかっては困る)、離れへの道を急いだ。空間ばかりの枯山水を避け、母屋に面してはいるが目隠すものの多い日本庭園を進む。
慣れた道だ。目を瞑っていたらさすがに転んでケガをするだろうけれど。
…赤司のことを一挙手一投足、一言一句交友関係に至るまで、全てを把握したがる(支配したがる)彼の父の目から、あるいはその秘書の目から身を隠す方法はとうに心得ている。

いつもの要領で庭を進むうち、半分ほど差し掛かったところで、飛び込んできた怒声に紫原は思わず立ち止まった。しばらく身を隠そうと、身を屈め膝立ちになる。

あまりに不釣り合いな怒鳴り声だ。治安が良く、怒鳴り声自体聞く機会のない住宅街の、そのさらに気品高い財閥の屋敷内で聞こえるそれとは思えない。
部活のハードな練習の際中においてだってそうだ。ヒートアップした先輩同輩間で(もちろん自分も含め、だ)怒鳴りつけるように声かけをすることはあったけれど、これ程一方的に当たり散らすようなそれには馴染みがない。
怪訝そうな目で見上げた先、庭に面した大きな居間に、きちんとお手本のように、絵に描いたように精確に正座する赤司の姿が見える。そしてその前では見慣れぬ壮年の男性が、まるで憎々しさを吐き出すように、言葉の暴力を振りかざし続けていた。
まだ年若い少年には…あるいは肉親から語られるにはあまりにも切れ味の良すぎる言葉のナイフを前に、赤司は言い返すことも視線を上げることすらせずに、小さく正座したままでいた。

その口ぶりからかろうじて聞き取れた内容から、思うに彼が何か叱責されていたわけではない様だった。
盗み聞くと言えるほどはっきり内容を聞き取れたわけではないけれど、…あれは、まるで彼の行動すべてが気に食わない、というような、例えて言うならそんな態度だ。酷く憎らしげで、酷く苛立った声だった。何かに関して注意あるいは諭されているわけでもなく、窘められているわけでも意見の対立というわけでもない。聞きようによっては八つ当たりのようなそれ。
…しかし、確実に、赤司の精神をすり減らす、それだ。
彼の父が何のことに関してあれほど怒りをあらわにしていたか、そのことに関しては紫原には分からない。だが、予想することは容易かった。

やがて離れである彼の部屋に先に到着していた紫原の視界に映り込んだ赤司の姿は、紫原の記憶の中にあるどんな彼よりも、入学した当初中学一年生だった頃の彼よりも、小さく頼りなく見えた。
彼は少しだけ肩を震わせて、恐らく”来ていたのか”と言いかけたのだろう。
だがその声帯は空気を通すこともなく、一瞬息を詰めた彼の両肩を、彼が痛いと感じるくらいに抱き寄せそのまま抱きしめた。
否定の有無なんて、いらなかった。このときばかりは確認もしなかった。
一日見ない間にあまりにも小さく見えてしまった彼の姿を、これ以上視界に捉えていることが出来ない。ただただ今は見ていられない。

そしてそれ以上に。
震える彼の傍にいて、彼を守り安心させてあげたかった。
それは、自分だけに許された行為だから。
今でも、…望むことを許されるのなら、これからも。
世界で唯一自分だけに、出来ることなのだから。





未だ震える赤司の背を、体勢を崩さないよう気をつけながら軽く擦ると、それだけで少しだけ力が抜ける。それまで相当気を張っていたのだと気付かされ、紫原は一瞬言葉に詰まりそうになる。

「お父さん、?」

「…うん、」

「京都、行くなって?」

「…うん。」

赤司のことを全てに関して把握したいあるいは支配したいらしい彼の父親は、当初から赤司が進学先を洛山高校に決めたことがそもそも気に食わなかった。
それを、”京都には恐らく父の息のかかった者が少ないんだろうぜ”と彼は気丈に語ってはいたけれど、裏を返せばそれだけ詰られ恫喝された末での決断だったのだと、紫原はそこで初めて思い知った。

それほどまでに過酷な決断をした赤司。
そして、自分を突き放すこともまた、彼にとっては辛い選択だったに違いない。
自惚れかもしれないが、そうあってほしいとも思う。…彼に辛い思いをさせたというのであれば、それは自分の望むところとは限りなく真逆のそれであるはずなのに。

幼く稚拙な独占欲を、だが今だけは許してほしい。
月明けて、来月。4月には、自分たちは離れなければいけないのだから。

「赤ちん、あの、ね、」

精一杯、優しい声音をと心がけたつもりだ。だが、その聞き慣れたはずの、ましてや彼のことを恫喝はおろか叱責や否定などするはずもない、緩く響くテノールにさえびくっと体を震わす様子が痛々しい。
そのまま一気に言い切った方が良いのか、それとも一呼吸置いた方が良いのか、はかりかねたが紫原は前者を選択した。
辛い時間は早く終わるべき。それは紫原の信条である。

「昨日の、さ、」

「…」

「ごめん、」

さらに身を縮みこませ、小さく丸まってしまう背がどうしようもなく愛おしい。何故だろうこの背とこの肩と、この声とこの存在と、離れなければならない次の月が恨めしくて仕方ない。
赤司を抱く腕にさらに力を込めると、苦しいだろうだが赤司はぎゅっと紫原の胸元でその服を握る。
あまりに強く握るので、手のひらをケガしたりしないだろうかと一瞬焦るが、そのまま続けた。

「”赤ちんの敦”って、ヤだって、」

「…」

「そういう意味じゃ、ないの」

「…」

ごめんね、

そこで一度、紫原は言葉を切った。

元々あらゆる配慮に欠けていて、口下手で無遠慮な自分のことだ、焦れば必ず誤解を招く。そもそも昨日だって、つい口にしてしまった自分の想いとは真逆のそれを、丸ごと受け止めた赤司はこんなにも小さくなってしまったのではないか。

すぅ…音がしそうなくらい、大きく息を吸い込んで、一度吐き出す。
そうすることで落ち着かせようとしたのは、赤司のことなのか紫原自身なのか。
一呼吸置いたくらいではもはや解消しきれないほどの混乱を抱え込んで、だが紫原は先を選択した。

「逆、なんだよ、赤ちん」

「…」

無言で、身じろぐ赤司。
布越しのその感触が、さらに身を縮ませてしまったようで心が痛む。

ああ、この存在に。自分に比べたらあまりに小さくて軽くて、今にも折れてしまいそうな体躯に。これまで何度となく彼自身の誇りと周囲からの期待に押し潰されそうになり、それを人知れずの努力で何とか潜り抜けてきた満身創痍のその体に、今度は常勝だけではなく勝って当然という重圧がかかるというのだ。
その感覚は、下から一心に勝ち進んできた者には絶対に分からないものである。まさしく”キセキ”と呼ばれた自分たちにしか共有することの出来ない部類のそれ。今や同等の、あるいは同率の存在となった黄瀬にも黒子にも、その苦しさについて共感してもらえる日は来ないだろう。そして灰崎は、そのガラスでできた高塔が上から押しつぶされ、まるで折り紙で出来た箱ような脆さでがしゃりと崩される絶望を、一足先に味わった。
重くのしかかるそのプレッシャーに、それを受け止めざるを得ないその彼の傍に。
これから先自分は、立っていることは出来ない。
共に、傍に、在ることすら叶わない。





赤ちん、

ねえねえ、赤ちん、

俺は、嬉しかった。ずっと。…ううん、今でも、嬉しい。

“赤ちんの俺”でいられて。必要だよって、思ってもらえて。

「俺は、”赤ちんの敦”、で、いたいの…」

でも、それは叶わなくて。

赤ちんは京都に行っちゃうし、俺は秋田に行っちゃうし…。

そうしたら、きっと、

「”赤ちんの敦”じゃ、いられなくなっちゃうでしょ…?」

つい、問いかけのように語尾が上がってしまうのが浅ましいと紫原は思った。
否定されることを、どこかで期待している。それが果てしなく浅はかで、恥ずかしい。
けれど、消せることの出来ない幼い動作仕草言葉、以って全ては彼への全力でのアプローチ。
それが、紛れもない自分の本心なのだ。

「…ううん、やっぱ、違うかも、そうじゃなくて。」

またも焦り混乱しかける自身に一呼吸おいて、紫原は腕の力をほんの少しだけ緩めた。不自由な体制を取らされていた赤司が一瞬身じろいで体勢を整えると、再びきつく抱き寄せる。
若干楽な姿勢になった赤司は、腕の中で再びぎゅっと身を寄せる。
…今部屋に誰かが入ってきたらまずいなとか、そう言ったことはこのときは2人とも全く頭になかった。ただただ赤司を抱きしめるのに必死で、赤司は赤司で、混乱した思考を抱え紫原の服を掴むのが精一杯だった。

「いつまで経っても、俺は、赤ちんの敦、だよ。それは変わんねーし」

「あ、」

(声…)

「ぁ、つし」

(掠れてる…)

昨日?今日?泣いたの?赤ちん?辛かったの?寂しかったの?
泣かせたのは、…赤ちんのお父さんだろうか?それとも、…?

彼を悲しませたのなら、それは自分ではないと思いたい。
彼を悲しませたのなら、それは、…けれど、どこかで。

それは自分のせいであると。心のどこかで望んでしまう。

「でもさ、きっと、赤ちんの中での、…何だろ?ゆーせんじゅんい?…とか…きっと、…下がっちゃうし」

俺は。俺は、それが、悔しくて。それが。

「だから、…悲しくて…だから、…あんなん、思ってねーのに、」





つい、意地を張ったんだ。





いつか。これから近い将来。
いくら紫原が”赤ちんの敦”であろうとしても、例え今そうであったとしても。
その重要度は、今よりはるかに下がるに違いない。
物理的な距離、空間的な距離は、同時に精神的な距離さえも遠ざけてしまうだろう。肉体はおろか心さえまだまだ発達中の未熟な自分たちだ。絶対的な何かを失ってしまった関係の空虚さをきっと持て余してしまう。
考えるだけでも歯痒い。苦しい。…抗えないかも、しれない。

紫原がいくら想っても、赤司は必ず通じる距離にいない。ただでさえ言葉だけでは伝えるのが下手な紫原には、ほとんど絶望的とすら思える状況だ。
昨日みたいに強がって、とんでもないことを口走っても、意地を張って口では中々素直になれなくても、これまでは態度が距離がそれを埋め合わせてくれた。溝をきれいに埋めてくれた。
腹を立てていたはずなのに気付くと無意識に甘えていて、抱きついていて。いつだって自分の気持ちに素直になれるのは、相当時間が経ってからだった。それでも十分間に合った。
今後は、その奥の手が使えなくなる。紫原と赤司を繋ぐ微かな糸は、早々にその存在をミスディレクションさせつつある。

これからも、自分は変わらず”赤ちんの敦”であるだろう。それは変わらない。だが赤司の方はそれを認識してくれるとは限らないのだ。だって。
だって。
これから先、紫原の与り知らない遠い地で。赤司はたくさんの”赤司の何か”に出会うのだろう。
するであろう苦労も目に見える、理不尽な事柄にも出合うことだろう。だがそれ以上に、たくさんの愛に触れることだろう、今まで彼自身を取り巻いていたものと同じような、あるいはそれ以上の絆に触れるかもしれない。
その中で、自分は今までのように上位でいられる自信がない。
絶対的な距離は広がる上、赤司の中における自分の割合は恐らく低下していくばかりだ。

迫る次の月に逸る心、襲う焦燥感。心を急くものは多量に存在し、かつその解消方法は今のところ皆無だ。
”不安が無いと言えば嘘になる”
そんな常套句どころか、不安以外の何物もない。

…だが、それでも良い。
今日赤司の顔を見てそう思った。





これまでのように、物理的に、いつも近く在ることは出来ない。
けれど、確かにそこに存在するものとして。
覚えておいてもらえれば構わない。そして時に、思い起こして。

いつでも、そばに在ると。



原子番号2番
(例えばそれが希なものでも)



君を包む空気中。窒素や酸素のように、その大部分を占めることは叶わないだろう。
残り1%のほとんどを占める、アルゴンや二酸化炭素にすら及ばなくて良い。
ヘリウム程度の存在でもいい。0.0005%の存在確率でも甘んじよう。

君の僕であるというのなら。

僕は、他の元素と反応することなく、いつでも僕のまま存在し続ける。

君の傍に、共に、在る。





「赤ちん、」

呼ばれた声に弾かれたように上を見上げる可愛い猫目。
今、彼があどけない表情を見せるのは、世界で確かに自分にだけだと心のどこかで確信している。
これは決して自惚れではないだろう。

「お願いがあるの、」

だけれども。彼に心からの愛情を捧ぐのは、これからは、自分ばかりではないだろう。だからこそ。
愛されるべき彼に、感じて欲しいことがある。

(赤ちん、)

お願いです、





「赤ちんには、これから、色んな人に愛されて欲しい。」





高校行って、京都行って、バスケ部入って。

「先輩に、後輩に、同級生に、先生に、コーチに。」

購買のおばちゃんとか、学食のおばちゃんとか、コンビニのお兄ちゃんとか。

「とにかくたくさん、色んな人に、愛されてきてほしい。」

大丈夫。俺らと同じように、皆、赤ちんを愛してくれるはずだよ。

赤ちん、皆に愛されるから。

「それで、いつか、いっぱい、皆から、愛されてるなって、感じて、」

そう心から感じることが出来て、そして幸福に包まれるであろう君が。

(…叶わない願いだろうけれど。でも、)

その君がもう一度、自分のことを選んでくれたなら。

(例えばそれが叶わなくても、君が幸せであるのなら十分だ。…でも、)

ヘリウム程度に残った自分の存在に気付いてくれたなら。





どれだけか、幸せなことだろう。





呆然とする赤司を前に、恭しく身を屈めた。

中学三年間、最後のキスは、赤司の柔らかなほっぺたの感覚が残るそれだった。





end.

2013.06.02.


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