NOVEL | ナノ

 告白予行練習

「赤ちん、俺、好きな人出来たかも。」

放課後、午後練の後の部室内。

完全下校の監査が入るという理由でいつもより早く練習が終わったその日。

だらだらと着替えていた室内の空気は、その一言で一変した。





告白予行練習





一瞬の沈黙と、その後訪れた地鳴りにも似た男子中学生の歓声。
体育館の関係で(いくら第一第二があるとはいえ。いくら全中での数々の優勝を誇るとはいえ、バスケ部だけがいつも特別待遇と言う訳にはいかない)二軍と三軍はオフの日だ。
幸い部室に残る人数も少なかったため、うるさいと顧問が怒鳴り込んでくるような騒ぎにはならなかったけれど、それでも紫原の唐突な発言は場の部員たちを興奮させるのに十分の威力があった。

大半は皆、単純に驚いていた。
それも無理はないことだ。普段から何事にもあまり関心を示さない、何に対しても低エネルギー姿勢の紫原である。
部内で咲いた幼い恋バナにも、”恋愛なんて面倒じゃん、誰かに振り回されるなんて冗談じゃないし…。”、とこれまで全くと言っていいほど興味を示さなかったし、幼稚な性談義にすらほとんど乗ってはこなかった。
その彼に、好きな人が出来たというのだ。それも、誰かの告白を受け入れたのではなく、彼の方から”好きな人”という。
普段紫原を知る部員たちからすれば到底信じがたい事実であり、だが彼は好き好んでこの手の嘘を吐く人間ではない。とすれば、やはり彼の言う通りということなのだろう。
相手がどのような子なのか気にはなるけれど、赤司に切り出したこの会話の流れなら自然とその話題にもなるはずだ。例え聞き逃したとしても、早晩噂になるだろう。
ならば無理に会話に割り込んで行って、紫原の機嫌を損なう必要もあるまい。そう誰かが納得するとまた誰かがそれに続き、やがて場の空気は落ち着いていく。
しかし一方で、緑間、青峰、たまたま部誌を届けに来てこの場面に出くわした桃井の3名は、未だ困惑の中から抜け出せずにいた。





…彼らの見てきた限りで。
紫原敦という人間は、微笑ましいほどまっすぐに、彼の持てる限り全ての愛情を彼らが副主将赤司征十郎に向けていたのではなかったか。
時に、その仕草から表情から。
気分屋の彼から垣間見える、子供のように素直な態度から。
それはありとあらゆる場面から、伝わって来ていたはずなのだけれど。

(気になる…。)

(どういうことなのだよ…?)

桃井も緑間も、空気を読んだ結果しばらく黙っていることを選択したが(口を開きかけた青峰は、桃井の肘をもろに受けその場に沈み込んでいた)、腑に落ちなさは全く払拭されない。
この展開は一体どういうことなのか、出来れば委細余すことなく具に知りたい。
記憶をいくら探ってみても、見つけ出せる光景は、母を慕う幼子のように赤司に懐いていた紫原(懐くという表現がこれ程までに似合う関係を帝中レギュラー陣は知らない)であり、何かにつけ赤ちん赤ちんと彼の名を呼んではすり寄って行った紫原なのである。
時には赤司の背をぎゅっと抱き竦めたり、あまつさえ彼の手すら引いて帰路についたこともあった、そんな姿を、自分たちは幾度となく見てきた。
加えて、それを赤司は否定も拒絶もすることなく、当然のように受容していたように思う(端整な顔立ちのあの白磁、その頬のあたりは時に赤く染まっていた)。
そんな2人の様子から、はっきり確認したわけではないにせよ赤司も紫原も、互いに恋愛の情のようなものを抱いているとばかり思っていた。それなのに。

その紫原が、好きな人が出来た、という。

これは一体、何かの冗談なのだろうか。

「…紫原、…えぇと、」

周囲3人の混乱をよそに…というか、今一番混乱しているのは他ならぬ赤司なのだが、何とか二言紡いでから息をのみ込む。
どうやら紫原の告白を聞いてから息をするのを忘れていたらしく、急に吸い込んだ新鮮な空気に気管が震え、むせ返りそうになるのを何とか堪えた。
当の紫原はといえば、大それた発言をしている自覚があるのかないのか、頭を掻きながら「えーとー、あのねー、」と何事か思うところあるのか逡巡している様子だ。
大丈夫、混乱しているのは自分だけじゃないし(何だかよく分からないが、紫原もそのようだ)、自分はそれを上手く隠すことができている。
赤司はそう自分に言い聞かせてはいたが、彼が相当な混乱の中にいることは周囲の目から見れば明らかだった。
時に血迷った発言が飛び出したりする我らが副主将さまではあるけれど。
それでも、いつも以上に混乱している様子は正直痛々しい。

「紫原、さぉれ、それ、は、」

(噛んだのだよ。)

(噛んだな。)

(…さぉって…赤司くん噛んだ…。)

だが、それこそ全く、無理もないことだった。
何故なら赤司自身、紫原に対し少なからずの好意を寄せていたからであり…。
…いや。

(紫原が、誰かのことを、好き、…?)

それは、確かに。
赤司の中に中芽生え始めた、淡い淡い、幼い恋だった。

(俺、は、)

それは、(望まれて、とせめて思いたい)12年ほど前この世に生を受けた赤司征十郎にとって、人生で初めての、恋だった。

(俺は、紫原を、。)

幼稚で、明け透けで、無配慮で。体格だけが育ってしまったこの幼子を、どうしようもなく好いているのだと。好きで好きでたまらないのだと。
そのとき初めて、赤司は自身の”好き”に気が付いた。
皮肉なことに、それは紫原からの、決別の一言がきっかけで。





色々なことが一気に起こりすぎていて、赤司は上手く言葉が継げないでいる。
その姿を不思議そうに、だが心配そうに覗き込みながら、紫原は先を続けようか迷った。
どうやら(自分には理由は分からないのだけれど)、赤司は普段の彼らしくなく相当に混乱しているらしい。
小刻みに震えたり顔を引き攣らせたり、わざと強がって笑おうとしているのも、分かった。
どんな時も赤司に寄り添い、彼のことを誰よりも近くで具に見てきたのは紫原だ。
その強さも、孤独も。
その弱い面も、脆い面も。
全て、というのは自惚れだと分かっている。だが、それに限りなく近く、赤司のことなら誰より広く知っている、誰より深く理解しているという自負があった。
だが今は、赤司の様子が、彼の取り乱すその理由がまるで分からない。

(赤ちん、辛そうにさせるやつなんて、)

それが者にしろ物にしろ、何らかの事象にしろ、原因さえ分かれば自分がひねり潰してやるのに。
幼な思考の紫原には、その原因が誰あろう自分であるということが分かっていない。
自分という選択肢を除外した頭では、肝心なその理由が分かるはずもない。歯痒さについ俯いてしまうと、自分と赤司の身長差ゆえ、彼の姿がより間近に視界に飛び込んできて余計に混乱する。
ついいつものように触れようと手を延ばすと、だがいつもとは違いびくりと身を固くする赤司。
ますます訳が分からなくなって、紫原の方も困惑してしまう。
まるで赤司の混乱が、自分にも移ってしまったかのようだ。
延ばした手の先、触れるか触れないかの位置で身じろいだ赤司は、ようやく呼吸を整えたらしく小さく二回深呼吸をして、紫原に向き直った。
普段なら触れた手、触れようとした手に彼の手を合わせ握ってくれるのだけれど、今日の赤司は指一本動かさない。

紫原が見ている限りではそれが動かさないのか動かせないのか分からなかったが、実際のところそれは赤司自身にも分からなかった。

戸惑いがちに近づいた紫原の大きな手のひら。その手に、ああ、自分の手を延ばそうと思えば、いつもみたいにぎゅっと手を握ることだって出来たのかもしれない。だが、そんなことをもう自分はしてはいけないのかもしれない。
ぐるぐる回る葛藤が、赤司の正常な思考力を明らかに邪魔している。
そのまま視線だけ上に向け紫原を仰ぎ見ると、彼は少しだけ傷ついた表情を見せ手を引っ込めた。
長めの、紫陽花色の光沢を持った黒髪が自信なさげに揺れている。
憂いげな視線の奥、湛える彼の瞳もまた不安そうに揺れているように見えた。

「それは…それで…紫原、…。それ、で、俺に、は、何を?」

上手く言葉が継げない。慣れた日本語が続かない。
何の助詞が適切なのか分からないのだけれど、それを考えようにも、赤司には赤司自身何を言いたいのかが分からない。
混乱した頭は単語とでたらめな助詞しか吐き出させてくれず、本当に気になっていることからどんどん話題を反らそうとしている。
本当は知りたいのに、聞きたいのに。
“それは誰?”
”どんな人?”
“どんなところを好きになったの?”
“俺よりも、その子の方が好き?”

(っ、馬鹿か俺はっ///)

特に、最後の質問は何なんだ。
それに紫原がどう答えるっていうんだ。
…答えなんて、分かりきっているじゃないか。





そんな風に赤司があっちへこっちへと思考を飛ばしているうち、長躯をうなだれさせたままの紫原もまた、彼の本来の目的を取り戻した。

(そうだ、…言わなきゃ、やらなくちゃ、)

混乱しきっている赤司の様子は気になるけれど、ここで止まってしまってはこの話を切り出した意味がない。
今日は、今日こそは、と決めたのだ。

赤ちんに、きちんと言わなきゃいけないことがある。

はっきりさせなきゃいけないことがある。

(こんなの、ずっと曖昧にさせてちゃダメなんだよね…)。

崩れてしまいそうな自分を奮い立たせるために、衆人環視の部室を選んだんじゃないのか。
この状況を逸してしまったら、もう一生機会なんて訪れない気がしている。
大丈夫、出来る。だって今は、本番じゃないのだから。

「赤ちん、あのね、俺赤ちんにお願いがあんの。」

「…?お願い?」

「うん、あのね、」

赤司は、無意識のうちに紫原の次の発言を予想し身構えた。
よくよく考えてみれば。
改まってこういう話を自分に切り出してくるということは、彼の想いの人はきっと自分と同じクラスにいるに違いない。あるいは委員会か何かで、自分と何かしらつながりのある子なのだろう。
彼とその子の間の橋渡しをしてほしいということか。
要は彼の気持ちを代わりに伝えるか、あるいはそれを直接伝える機会を設けて欲しいとか、きっとそういうことだろうと赤司の脳内コンピューターが結論を弾き出す。
普段は4コア並のスペックを誇る赤司のそれだけれども、今日ばかりはうまく作動しない。
先ほど紫原に”好きな子が出来た”と告げられて、見事にフリーズしてしまってからというもの、セーフモードでしか動いてくれないのだ。

そして、また。紫原の”お願い”が自分の全くの予想外であったことに、またも赤司はフリーズすることになってしまう。

「赤ちん、俺、告白の練習したい。」

「む、ムッ君…!!??」

後ろで小さく、桃井の悲鳴に似た声が上がる。
すぐに自分で口元を覆ったらしく、それ以上彼女が何を意図していたのか知るすべはなかったのだけれど、紫原は再び赤司に注意を戻しそのアルビノの猫目をじっと見据えた。
さっきまで弱々しく揺れていた赤司の目は、…今度こそ、明確に震えているように見えた。





「赤ちん、…ごめん…やっぱ、ダメかな…」

紫原はそれを拒絶と取った。気まずそうに視線を左にずらし、どうこの場を収束させようかと逡巡しかけた脳を、赤司の早口での一言が遮る。

「っいい、。良い、よ。」

言ってごらん。

さすがに、”俺で良ければ”なんて、大人になりきることは出来なかったけれど。

何とか、ニコリと、笑えたはずだ。

赤司はやはり混乱したままの頭で、紫原の言葉をとにかく鵜呑みにしようとする。

(本当は、本当は…。)

(お前と正反対のことばかり、考えているのに…)

紫原。
お前の望む未来とは正反対のことを望んでしまう俺だけれど。
少し、大目に見てくれないか。

(思う、だけ、だから…、)

言葉では表せない感情の静かな高まりに、赤司の目頭が熱く視界が滲んでいく。
目尻に溜まり始めた涙を、眼前の紫原が悟ることがなければいいのだけれど。

赤司の視線の先、戸惑いがちな紫原は、だが意を決したように赤司の目を一直線に見つめた。
頭では理解しているはずなのに、彼の慈しみのその視線が、憂いげに細められる彼の目が、自分に向けられるそれではないと分かっているはずなのに。
不意にそうであったら嬉しいのに、と思ってしまって、涙が零れそうになり必死に堪えた。
赤司と同じように瞳を揺らす紫原は、すぅと短く息を吸うと一気に思いの言葉を吐き出した。

「ずっと前から、好きだったよ。大好き、赤ちん。」

「!」

紫原の告白に。彼の真摯なその言葉に、不意に涙が一粒溢れてしまった。
最後に自分の名前が告げられるなんて思いもせず。
ああ、当日それではダメだよ気をつけなければなんて諭すことも出来ずにその場で赤司は立ち竦み、ただ唇を噛んでいるしか出来なかった。

先ほどから凍り付いている部内の空気は、ほとんど今の紫原には読めていなかったのだと思う。
恐らく、いっぱいいっぱい過ぎて赤司の表情すら目に入っていないのだろう。
刹那殺気立った緑間の気迫が痛いほどに伝わってきたけれど、今の赤司にはそれを律するだけの余裕もなかった。

「…どーお、赤ちん…?何か、ダメなとこあった?」

不安そうに尋ねてくる、幼子の声音。
それがいつだって自分の傍にあるものだと、勘違いをしていたのは自分の方だ。

(いけないのは、俺の方だ。)

そう赤司は彼自身に言い聞かせた。
本当は、辛い。嫌だ。受け入れたくない。紫原が自分の傍から離れていくことなんて、想像だって出来はしない。
だけれども、それは自分自身の奢りに他ならない。
紫原にだって意志はあるし、自立した個人だ。
誰かを好きになることを止めることなど出来ないし、ましてやそれを妨げる権限など、ない。
結局、悪いのは自分。
紫原の想いを直視することもせず、独立した個人としての彼など意識したことすらもなく、ずっとずっと良いように利用してきた自分の方だ。

じわりじわり押し寄せてくる涙。とうに緩みきった涙腺から溢れてくる涙が次々目尻に溜まる。
その様子を知らず、そわそわする目前の最長身。
赤司は出来うる限り最高の作り笑いで、紫原に向き直る。

「ううん、良かった。紫原にそんなに真剣に思ってもらえて、きっと相手の子は幸せだね。」

その言葉に、嘘偽りは全くない。
全て本心で、全て本音で。
ただ、その現実を中々受け入れられそうにないだけだ。

赤司の様子を見兼ねた緑間が、そこで初めて2人に割って入ろうとする。

「いい加減にするのだよ紫原…お前も何とか言え、赤司!お前、お前は、本当は、」

「っ、良いんだ。…良いんだ、」

良くない、良くない、と心は言うが。
どうにもならない現実。自分で抗うことの出来る範囲は限られている。

とにかく場を収めなくては(そもそも一番混乱しきっているのは他ならぬ赤司なのだが)。
だがもう赤司の理性や感性やといったものはとうに限界を超えていて、このままでは部誌を書いたり戸締りをしたりといったまともな作業どころか、真顔でこの場に、紫原の横にいられる自信がない。
とうとうすべて放り出すことにした赤司は、緑間に小さくあとは頼むと告げるとジャージも荷物もそのままに足早に部室を後にした。
それはまさに一瞬の出来事で、紫原が引き留めようとするよりも早く、軽量な部室のドアが空虚な音を立て閉まった。





赤司は、気付くと住宅街に紛れていた。
立ち止まり二秒ほど考えると、それが学校の近くの住宅地なのだと分かったけれど、道順は全く思い出せない。どうやってそこにたどり着いたのか、今となっては知るすべはないが、それは大して重要なことじゃない。もはや今自分はどこへ向かっているのかすら必要な情報だとは思わなかった。
ただ行くあてもなく歩く。家に戻るつもりも、ましてや部室に戻るつもりもない。
試合においても日常生活においても常にあらゆる状況を考えておき、いかなる事態にも迅速に対応することができる頭脳を持ちながら、今の赤司が見いだせる選択肢は1つしか存在しなかった。
ただ歩き続けること。その場所はどこであっても構わない。
出来れば、ふとした瞬間に何かを(さっきのあの、絶望的な光景を)思い出したりしてしまわないように、何も考えずに歩くことの出来る平坦な道が良い。

そして今、この状況がまさしくそれに符合していた。何かを考えることもなく、何も思い出さなくていい。
だというのに、何も考えていないはずの頭とは独立して、体がずくりと疼き出す。じわりじわりと目の端が熱くなってくる。

何故だろう何も考えなければ。何も悲しいことはないはずなのに。

部室を飛び出したときは沈む気配すら見せなかった長い日の空が、今は夕暮れに染まっている。
いつの間にか辺りを支配した赤めのオレンジ色に、物悲しさは感じないが底知れぬ寂しさが襲う。

(怖い…、)

夜が、怖い。暗がりの、しんとした空気が怖い。

いつも共に帰った夜だ。道すがら、他愛ない話をした。毎日毎日飽きもせず、疲れたと言いながら、菓子を食べながら。
その横顔を見ているだけで幸せだった。多くは求めないつもりでいた。
傍にいる。ただそれだけのことが、知らずに求めていた”多く”であったなどと気付きもしないで。
…ああ、改めて、訪れる夜が怖い。
これからどれほどか長くの間、自分を支配するのであろう暗闇を思うと、底知れず恐ろしいのだ。
紫原が不在の左側、彼の歩かない自分の背後。
漠然とした不安感、空虚以上の喪失感も。気を緩めたら飲み込まれてしまいそうな不安も、心許なさも。
横にあの笑顔がいてくれたら、後ろからあの長躯で抱き竦められたら、何てことないのに。

(お前がいないことで生まれる恐怖が、お前がいないと解消できない。)

それは全く当たり前のことなのだけれど、その当たり前の事実がいっそ清々しいほどの笑顔で赤司を刺し貫く。
思い悩んでいる間も、刻々と夕暮れは闇に差し替わる。夜になったらきっと、自分は立ち止まってしまうだろう。立ち竦んだまま動けずに、そのまま朝の光を待つしかない。
紫原という光を失ってしまった自分はこんなにも、あまりにも弱くて、まるで自分ではないみたいだ。

縋る先のない闇の中を、一人立ち独り歩いている。
自身の立場や環境を、いつからかそんな風に思っていた。
1年副主将として先輩を統べ同輩をまとめるためには、周囲から独立した、孤高の自分を作り出さなければならなかった。

…しかし今思えば、それも単なる幻想なのかもしれない。完全なる独立した個人など、存在し得るはずもない。
人は皆、人生の大半は他の誰かとの関係性の中にいる。
種類・度合いに差はあれど、誰もが皆誰かとつながって生きている。
そのはずなのに。
いつしか覚えた孤高という錯覚に、あまつさえ陶酔すらしていた。周りのこと周りの者を見向きもしなかった。
自分が、紫原の存在によってどれほど救われていたかなど、考えもしなかった。

…考えていたところでどうなることでもなかったのかもしれないけれど、今はそんな後悔だけが赤司を取り囲み苛んでいる。
じくりじくりと胸の底が痛くて、このままでは日没を待たずに立ち止まってしまいそうだ。

(紫原、)

いつだって気怠げなあの流し目、器用に菓子を含んでいくあの口元。
“赤ちん、赤ちん”と幼子のように自分を呼ぶ声、自分にだけ向けられる絶対的な信頼の笑顔。そのどれもが、赤司の精神的な支えだった。
それを失ってしまったら、一体自分はどうなってしまうのだろう。

恐怖が今度こそ牙を剥き、全力で赤司を襲おうとする。
それに応戦する力は、もはや赤司には残っていない…。





…と、その瞬間、聞き慣れた声が赤司の耳に届いた。

暗闇に、一筋の光陰が差す。

「あ、赤ちんっ、」

耳慣れたテノールが飛び込んできた瞬間、変に力が入っていた膝から一瞬力が抜け、赤司は崩れそうになる。

(いけない、)

咄嗟に、理性はそれを拒絶した。
本当は分かっている。こんなのはいけないと分かってはいるのだけれど、つい手を延ばしてしまいそうになる。
そのがっしりとした腕に体躯に包まれたいと願ってしまう。
その赤司の、透明で屈折率の高い感情を。今はギリギリの理性だけが押さえ込んでいる。

膝下だけを突っ張らせ、骨格だけで何とか踏みとどまった。
ゆっくりと声の方に向き直ると、揺れる赤司の視線の先に馴染んだ長身が映り込む。
肩を軽く上下させる度、長めの紫陽花色が揺れる。少し汗もかいているように見えるけれど。

(何で…。)

もしや、走って自分のことを探しに来たのだろうか。
そんなことはありえない、とは思わない。都合の良い思考だとは思うが、紫原と共に過ごした日々が年月が赤司にそうさせる。
それに、仮にそうだとして、紫原が赤司のことを追いかけてきたのだとして、その理由は混乱し精神的に疲弊しきった赤司には全く分からなかったが。

それは、極めて自然なことだった。
赤司にとっての隣が紫原であったように、紫原にとって彼の横には赤司がいなければ、彼の前を歩くのは赤司でなければおかしいのだ。





「赤ちん、待って、さが、」

思わず詰まって、一呼吸。
続いた「探したんだよー、」の声に、ゆっくりとした彼特有の声音に焦りが少しも滲まないのは、赤司がどういう気持ちでなぜ部室を飛び出したのかがそもそも全く分からないからで。
また、探し回ったとはいえこうして赤司を見つけ出すことができたからだ。

紫原には、赤司の動揺が理解できていなかった。
部室を出て行ったあと、赤司にだけ有効な自分の野性的な勘が働いたのか瞬時にその後を追いかけた。しかし、校門を出た後の彼の行動は全く予測不可能なものだった。
選んだ駅までの道、よく立ち寄ったコンビニ、一度だけ戯れに入って遊んだ公園(ブランコは自分の頭が上の棒についてしまって、シーソーは体重がつりあわなくて、出来ないことだらけだったけれど楽しかった)、思い当たるところはすべて回った。だが、理由なく住宅街を歩いていた赤司はこれらの場所にはことごとく近寄ることはなく、むしろ避けてすらいたのだ。
そんなことをしたら(そこかしこ紫原とも思い出ばかりで)、紅茶に入れられた角砂糖のようにきっと瞬時に崩れてしまったに違いない。

部室を出た頃はまだ高かったはずの陽が、いつしか夕闇に覆われている。
未だ見つけることが出来ない赤司は、もう部室に戻ったのだろうか。

(それなら、いい、けど…)

荷物もブレザーも全部、置きっぱなしだった。
着替えは終わっていたようだけれど、ちゃんと汗を拭けていただろうか。夜が訪れるにつれ気温も徐々に下がってきた。羽織れる上着もなくて、寒い思いをしていないだろうか。風邪を引いてはいないだろうか。
逸る気持ちに焦りが募る。どうしようどうしようと心ばかりが急き、胸が痛かった。
そうしてあちこち歩き回った末、ようやく見つけた彼の赤色。
ほっとして思わず大きな声が出てしまったのだろうか。声をかけると、赤司はびくりと体を震わせたように見えた。

(良かった…赤ちん、いた…)

肩を上下させるのに合わせ一度安堵のため息を吐いたが、つい言葉には詰まってしまう。
探し回ったのは事実だけれど、何故そうしたのか…何故赤司が部室を飛び出すなどという行動に出たのかが分からない。
状況を考えれば、明らかに自分の言動行動がその理由だ。というのは分かる。だが、先ほど彼は自分の告白(の練習)に、”良い”と言ってくれたのではなかったか。紫原にしても、赤司を動揺させる原因となるほど悪く酷く振る舞った覚えはない。
だとしたら、何故…。

「紫原、」

それきり言葉が続かず考え込んでいたらしい。呼ばれた声の先、不安そうにこちらを見上げる赤司の顔が、視覚神経をすっ飛ばしいきなり脳髄に飛び込んでくる。
電流が駆け抜ける、というのは、きっとこういうことを言うのだろう(生物の感覚器はあらゆる刺激に対しそれを電気的刺激として受け取るのだから、あながち間違った表現ではない)。
そこで初めて、紫原はようやく全て理解した。
普段低電力モードを保っている彼の持ち得る脳内コンピューターは実はハイスペックなそれなのである。普段持て余しがちなそれを今はフル稼働させ。

委細滞りなく、全てを理解した。





「赤ちん…」

理解する。と、同時に紫原の体をかぁぁっと熱が駆け巡る。

それは、

(どうして、)

という単純な疑問であり、

(もしかして、)

という淡い期待である。

もし今、2人の間に誤解が生じていたとして。

悪いのは明らかに自分の方だけれども、そのことには今は目を瞑ろう。反省して自己嫌悪に陥るのはいつだっていい。
今は。

(言わなくちゃ、)

本当は、明日以降にと思っていた。
普段隣にいることは多いけれど、実は2人きりになるタイミングというのは中々ない。いつかそのチャンスがあれば。そんなつもりでいたのだけれど。

ここ数日、散々迷った。考えるだけで怖かった。不安だった。正直言って苦しかった。
でも、きっと大丈夫だ。
だって、練習ではちゃんと、言えたから。

「赤ちん、」

迫る夕闇、人影のない、静かな住宅地。
ロマンチックなシチュエーションでは全くないけれど。

でも、紛れもなく、今は。





「好き、赤ちん、大好き。」





…大切な、本番だ。





告白予行練習

大好きな君に大好きだって、伝えるための一操作。





それから数分程度で、呆気なく周りを包んでしまった夕闇は、だが今の赤司にとって全く恐怖ではない。

それは紛れもなく、紫原の存在が横にあるからで。

「お!…俺、も、好き…だょ、」

…自分も素直にそう伝えることが出来たのは。

やはり彼の予行練習のおかげに違いない。





end.

2013.05.13





(その頃の部室)

「2人とも、出ていっちゃった…」
「それにしても何なのだよ紫原の奴め…あいつは…」
「…あ…そのことなんだけど、私、ちょっと思ったんだけど…」
「?」
「あ、でも違うかなぁ…?」
「何なんだよサツキ!言うのか言わねーのかはっきりしろよ、てか言えよ。」
「…ほっときゃいーんじゃねー?」
「灰崎?」
「灰崎…お前何か知っているのか?(何だその人の悪そうな笑顔は)」
「別になんも〜っつーか、明日には元に戻ってるって。…いや、余計扱いづらくなってっかもな。」
「あ、やっぱり…?(やっぱりそういうことなんだよね!良かった!)」
「「…???」」
「(いやーしかし本人に練習とかマジ引くわ―。ドン引きだっての紫原よぉ…。)」

崎ちんは恋愛のあれこれには鋭いです(笑)。

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