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『千闇、愛してるよ』
『千闇ちゃん、愛してるわ』
父と母が笑っていた。
優しげに嬉しげに、さも幸福であるかのように、笑っていた。
腕を広げてこちらにおいでと迎える父と母に向かって、手を伸ばす。
手が触れた瞬間に、二人は砂塵のように消え去った。
『千闇ちゃん、一緒にお弁当食べよう』
『虚戯さん、勉強教えて』
『虚戯ーっ、××が呼んでんぜー?』
振り返れば、転校した頃のクラスメイト達が居た。
クラスメイト達は笑っていた。
楽しそうに、優しそうに、笑っていた。
今、行くよ。と、口を開いた瞬間、クラスメイト達もまた砂塵のように消え去った。
「…嫌、だ」
これ以上は嫌だと思った。
誰かを呼ぼうとして、誰の名前も呼べなかった。
『千闇』
『千闇ねーさん』
『千闇さん』
『ちやたん』
『ちやちゃん』
『千闇』
『千闇ちゃん』
『千闇』
顔が見えなかった。
名前を呼ばれていたのに、誰に呼ばれているのかがわからなかった。
恐いとは思わなかったけれど、触れたいと、呼びたいと、思わなかった。
何故か、駄目だと思った。
『死ねよ』
ぐさりと誰かの言葉が刺さった。
『死んでくれよ。アンタ、なんで生きてんだよ。俺達の前から消えろよ』
あぁ、これは記憶だ。
虚戯千闇の、匂宮千闇の記憶。
「起きろ、千闇!」
声がクリアになって、覚醒した。
部屋は真っ暗で、その闇に紛れて誰かが立っていた。
誰かなんてわかりきっていた。
「濡衣くん」
「大丈夫か?」
「うん」
サラリと髪を撫でられる。
虚戯千闇として、面と向かって濡衣くんに会うのははじめてだった。
でも、すぐにわかった。
他にはわからないらしいけれど、濡衣くんには独特の気配があったから、彼が裏世界と会えたあの日に病室に居たことを知っていた。
それからは傍で見守っていてくれていたことを知っていた。
「濡衣くん、ありがとう」
「あぁ。今度は良い夢を」
子供相手にするように、そっとぽんぽんと触れられて私はまた夢に落ちた。
今度は魘されない。
夢も見ない。
それは優しい夢だった。
それは哀しい夢だった。
それは、叶わぬ夢だった。