5 奏鳴曲の始まりは
携帯電話の着信音が音楽室に鳴り響いた。
氷帝学園広しと言えど、堂々と携帯電話を鳴らす教師は榊一人であろう。
己は授業中ではないということもあり、榊は内ポケットから携帯電話を取り出した。
「跡部…?」
ディスプレイを見れば、教え子からの電話。
今日は休むという連絡があったというのにどうしたというのだろうか。
榊は首を傾げながらも、通話ボタンを押し、携帯電話を耳にあてる。
「私だ」
『お忙しいところすみません。監督』
「いや…。それより、どうかしたのか?」
お前はサラリーマンかと言いたくなる跡部の台詞に返し、榊は先を促した。
『お久しぶりです、榊先生』
次の瞬間、聞こえてきたのは跡部の声ではなく、長い間聞くことのなかったピアノの方での教え子の声だった。
「阿佐ヶ谷己緒か?」
『えぇ先日帰国しました。忘れられていなくて嬉しいです』
「忘れるわけがない」
『近々、氷帝の方にお伺いいたしますので、その際は宜しくお願い致します』
「わかった」
『では』
プツリと通話が途切れる。
跡部と阿佐ヶ谷が休んでいる理由に何かしら己緒が絡んでいるのだろうと検討をつけ、榊はピアノに向かう。
奏でるのは己緒が好きだと言ったピアノソナタだ。
ピアノを弾きながら、榊は己緒という少女を思い出していた。
己緒のピアノの指導をしていたのは、彼女の父親と仲が良かったからだ。
出会いは必然だったと言えよう。
彼女には兄がいたが、兄の方はテニスの腕は確かだったが、ピアノの方はからっきしだった。
それに対し、己緒はテニスの腕はからっきしであったが、ピアノの腕は一流だったのを覚えている。
ピアノを楽しむ姿勢に、教えていた榊も楽しかった。
彼女は親の離婚により名字さえ変わったものの、中学入学までは氷帝の近隣にある父親の家に住んでいたため、榊もその頃まで己緒にピアノを教えていた。
その彼女が海外に留学したのは、中学2年に上がる春だった。
律儀にも、自分のもとにまで報告に来たのには僅かながら驚きはしたものの、相変わらずだと思ったのも事実だ。
そんな彼女が予定よりも早くに帰国したということは、何かがあったのだろう。
「協力は惜しまないが、私にとっても娘のような存在だからな、無理はして欲しくはないな」
呟きはピアノの音に溶けて、消えた。