其の女と出会ったのはまだ若い頃だった。
雪山の中でひとり彷徨っていたのを保護したら、
懐いてそれ以来ずっと付いてきた。
女には記憶が無かった。覚えていたのは「ななし」という名前だけ。
雪山を彷徨っていた理由すら何処か置いてきたらしかった。
「マリクさん」
其の女だけは俺がウィンドルに渡って騎士学校の教官という地位についても呼び方を変えなかった。
それが心地よかった。
女は剣の扱いにも長けていたが、剣を使うことを畏れていた。
珍しい香水を毎年どこかからか手に入れて、俺の誕生日にプレゼントする女だった。
「マリクさん」
「ななし」
「お仕事お疲れ様です」
「ああ」
気が付けば、女房のように家に棲みついていた。
それでもいいかと、思っていた。
「鯛茶漬け作ってますよ」
「おお、本当か」
「でも、あんまり夜食食べると太りますよ?」
どんなに夜遅くに帰ってきても、起きて待っていた。
「いってらっしゃい、マリクさん」
何時もどおりの朝に、違和感を感じた。
帰ってきたら、家には誰も居なかった。
「ななし」
名前を呼んでみた。
返事は無い。
行ってしまったのだなあ、と思った。
どうすることも無かった。
どうしようもなかった。
そばに居ることが当たり前すぎて、
彼女について何も知らなかったのだ。
名前以外は、何も知らない。
何が好きなのか
何が嫌いなのか
それすらも、知らなかった。
ただ、彼女のつけていた、
香水の匂いしか残っていないし、
それも好きでつけていたのか、わからなかった。
もしかしたら、記憶が戻ったのかもしれない。
「(ななし)」
心の中でもう一度つぶやいた。
幸せにしてやれなかったな、と思った。
だからこそ、幸せになれ、と願った。
繋いだ手だけは離して行って
(せめて、もう少し早ければ、こんなに後悔しなかったのかもしれない。)
title/ Shirley Heights