99寂しいときは抱き締めてあげよう**+10-2
「――…ノ、」
静かに聞こえたそれに耳を疑った。今、間違いなければ俺は確かに名前を呼ばれた。何故恭弥は俺の名前を呼ぶのだろう。こんな人のいないところで。呼ぶなら俺のいるところで、俺の見える場所で呼べばいいのに。さっきだってそれが出来たはずだ。
もしかして、泣かせてる理由は俺なのか。
途端に先ほどまで俺の隣にいた、昔から付き合いのある女が邪魔だと感じてしまった。いなければ、彼女さえいなければ恭弥は俺を呼んだかもしれないのに。
「ごめん」
俺が何をしてしまったのか、恭弥をこんなにさせてしまった理由が自分だとはっきり分かったわけではない。それでも俺は謝罪の言葉を口にした。
きっと俺に理由があると感じたからだ。あの日、あの時、ごめんと言った日から溝が生まれたんだ。
泣き止んで欲しくて小さな頭をそっと撫でた。するとビクリと反応があって、すぐに恭弥の「だれ」と言う声が上がる。顔をあげないのは上げられない状況にあるということだろう。
「ディーノだよ、お前の先生の」
そう答えると恭弥の動きが止まる。元々動いてはなかったから、固まったという方が正しいのかもしれない。誰もいないと思って来た場所に顔見知りがいる、それに驚いているのだろう。しかも事の原因かも知れない俺だ。
「…なんでいるの」
恭弥は何時もより冷たく言い放った。この状況に苛々しているのは声だけで分かる。どうやら俺は相当嫌われているらしいく、そんな態度を取られたことで胸に痛みが走る。
ちくん、と何か痛いとも痛くないとも言えない短くて小さな痛みだ。
でもこれ以上嫌いになって欲しくなかった。好きなんだ、俺はただこの目の前の彼女が好きなだけなんだ。
「ずっと好きだった女の子がいたんだ」
どう言い出せばいいのか分からなくて、俺は突然そんなことを口にする。恭弥は思った通り何も返して来なかった。ただ、その対象の名前を濁したことに空気はより一層重くなっていた。
「初めて会った時は顔は可愛いくせに生意気でさぁ…」
それから俺は恭弥に抱いていた想いを、誰かに思い出を語るかの様に少しずつ伝えていく。
印象は最悪、心の中では異性ということも忘れて餓鬼と罵っていた。小さいときに親にも周りにもレディーには優しくする様に、そう言われてたことなんてすっかり忘れていた。
今思えば俺は俺自身を見てもらえないことに腹を立てていたのかもしれない。そして異性に会えば騒がれていた俺が、彼女の前ではただの人間、他の人間と変わらない扱いを受けたのが気に入らなかったのかもしれない。
誰、とは言わずに俺はただその相手のことが好きだった、それだけを伝える。その間に恭弥は何も言って来なかった。でもより一層苛々している様に見えた。これは恭弥のことなのに。
「だからさ、恭弥」
すべてを伝え終わって俺は最後の一言にたどり着く。何度も何度も言いたかったのに言えなかった言葉、どんな誤解をされてもどう想われてもこれだけが伝わればいいのにと思った言葉。
「好きだよ、恭弥のことが。ずっとずっと好きだった」
ずっと言いたかった一言はたった一言なのに、口に出すのは容易ではなかった。緊張してか言葉はいつもみたいに滑らかに出てこない。馬鹿みたいに跳ねる心臓の音は身体の外に漏れて、恭弥に聞こえてしまわないか不安になった。
「それ、ほんとなの」
ぴくり、ずっとぴったりと膝にくっついていた恭弥の顔があがる。まだその表情は見れない。震える声、それも消えてしまいそうな程小さい声で恭弥は言った。
そんなことを言われるとは思っていなくて、俺は少し驚いた。
「嘘をつくために追いかけて来たんじゃない」
「どうして、」
どうして、そんなの分からない。でも俺はただ恭弥のことが好きで好きでたまらなかったのだ。嫌われたいなんて思ってない。ずっと好きになって欲しかった。
でもそれを今口にできたのは恭弥に久しぶりに会えた嬉しさからかもしれないし、最後に伝えたいと思っていたからかもしれない。それか、頭では諦めらめると言いながらも心はそれを拒絶していたのかもしれない。
「好きなんだよ、恭弥が。誰よりも嫌われたくなくて、誰よりも大切にしたい程愛しいんだ」
「そん、なっ」
俺はどうか少しでも愛しさが伝わりますように、そうな願いを込めて口にする。今恭弥に伝える言葉はどれも大切な言葉だ。
驚く恭弥の言葉は嗚咽に混じりすぐに切れてしまう。俺はこんなに傍にいるのにまた泣かせることしか出来ないのか。
「――すきになってもいいの…?」
ふいに聞こえた小さな小さな声。遠慮する様に、聞こえてたらいいなと言う願いが込められていそうに、それは小さかった。それでも俺はその言葉を一文字漏らさず聞いていた。それは恭弥の言葉であり、俺を期待させる言葉だったからだ。
すき、になって欲しい。
「そうだったら嬉しい」
恭弥は何も言わない。俺の聞き間違いだったのだろうか。俺は好きになってもらう資格がもう無いのか。
「恭弥のことが俺は好きだから、だから恭弥がそうだったら俺は嬉しいよ」
「うそじゃない?」
恭弥はもう泣いていなかった。顔は見せてくれないが、声は小さいながらも、はっきりしている。今度は俺の方が泣きそうだった。何年その気持ちを願ったのか分からない。始めからそれしか欲しくなかったんだ。
嘘じゃない、嘘なわけがない。俺はずっとずっと好きだったんだ。恭弥が少女の時から、大人になった今も、出会ってすぐから俺の気持ちは変わっていない。いつまでも大好きで愛しい。
「もう10年も想ってるよ」
だからその顔をあげて、涙で濡れた頬を拭かせて。今まで誰もその頬を拭くことがなかったのなら、それはこれから俺がやるから。
どんな時も泣くなら傍にいて、俺にも涙の理由を教えて、俺は泣かないで欲しいから。恭弥が泣くのは胸が苦しくなるから、だから泣かないで。
優しく、震えそうな声で俺は言った。触れたくてのばした手は震えている。触れるのはまだ怖かった。
まだ恭弥の気持ちを俺は一つも知らないのだ。
「わっ」
驚いたのは俺が触れるよりも先に恭弥が俺に触れたからだ。ぐっと引かれた吹くの裾から引き寄せられると同時に、体重を預けられる。俺はそのまま後ろに倒れ、俺の上には恭弥が乗るような形となっている。
「もっと、はやくいってよっ…」
とん、とさほど強くない拳が俺の胸に落とされた。少しの怒りを込めた声と馬鹿と罵るかの様な涙声。それに込められた恭弥の気持ちが何故か分かった気がして、少し心が温かくなる。
「…ごめん」
「ずっと、僕だってずっとすきだったんだらね…っ」
それには耳を疑った。恭弥も俺と同じだったなんて、そんな、まさか。
それこそなんで早く言ってくれなかったんだろうか。俺が苦しかった様に恭弥も苦しかったのだろうか。
「もう絶対離してあげないからっ」
ぎゅうと握られたYシャツとジャケットに皺が寄っていく。俺も恭弥を離す気なんてない。
「絶対離さねぇよ、絶対離さない。もう恭弥しかいらない、ずっと一緒にいて」
言葉と同時に恭弥を抱きしめた。
恭弥が苦しい時も悲しい時も傍にいさせて。俺は絶対離さないから絶対傍にいるから。
…ずっと好きと言えなくてごめん。
でも一度だって恭弥を想わなかった日はない。
いつだって想ってた。いつだって愛しかった。
もう寂しい思いなんてしないで、そんなときは俺が抱きしめてやるから。
だから、ずっと一緒にいよう。守りたかったその小さな手をこの先ずっと、俺に守らせて欲しい。
[ 114/115 ]
[←] [→]