あいの風が吹く

「恭弥、海に行こうぜ!」

それはある夏の晴れた日のことだ。
いつものように廊下から騒がしい音を立て、バタバタと応接室に駆け込んで来たディーノは言った。

「……」

あまりにも突然過ぎる提案に、恭弥は返事を返すことなくディーノを見つめたまま黙っている。口が動くよりも先に思考が働き、いつ? どこで? という基本的な質問が浮かぶ。日程が分からなければ返事の返しようがなかった。しかし黙っている恭弥に対し、ディーノは恭弥の手を引き応接室を後にした。
ディーノの言った「行こう」というのは今のことだったのだ。恭弥はぐいぐいと腕を引かれ、校舎を駆けるように出て行く。荷物は一切持っておらず、なんとか上履きをローファーに履き替えただけの状態だった。何処へ行くのかと思えばディーノは裏口に向かっていて、裏口を出たすぐの所には真っ赤なフェラーリが停まっていた。そのまま中へと押し込まれてディーノは運転席へと座る。
「ちょっと!」
何処に行くともディーノは告げず、ただ楽しそうに鼻歌を歌いながら車を発進させてしまった。発車してしまったことにより恭弥はバランスを崩し、訳の分からなささに眉間に皺を寄せた。鼻歌を奏でながら運転するご機嫌なディーノに対し、恭弥には分からないことだらけだった。海に行こうしかまだ聞いてないのに、もう車に乗っていて、多分車は海に向かっている。

「んー?」
「どこに行くの」
「うみー」

運転中のためディーノの視線は前を向いたまま。恭弥は運転席の座席に手を掛けて、少し乗り出す形で言葉を交わした。やっぱりディーノの目的地とは海だった。
いつも助手席に座っているはずのディーノの部下、ロマーリオの姿はそこにはなく、恭弥はロマーリオがいないことで事故に遭わないか不安になった。しかし恭弥の心配を知りもしないディーノは、楽しそうに運転を続けている。

「なんで急に?」

急と言えばなにもかもがそうだった。事前に海に行くとも告げてられていない上に、海に行きたいという話もしてない。そもそも今日来るということも、恭弥には知らされていなかった。全て突然のことなのだ。

「突然すぎるよ」

恭弥が話しかけるとディーノはちらりと恭弥に視線を向け、少しだけ笑ってすぐに視線を戻した。
間近で見たディーノに恭弥の心臓は少しだけどきりと跳ねた。格好いいと思わず思ってしまったのは仕方のないことだ、と恭弥は思って自分を落ち着かせる。整った顔立ちをした人に目の前でそんな顔をされたら、なんとも思わない方がおかしいと決めつけた。

(ずるい、)

 ディーノは明確な理由を口にしていないのに、恭弥はもうそんなのどうでもよくなっていた。ずるいと思うのは、笑顔一つで黙らせようとするディーノのこと。そしてもう一つは笑顔一つで、文句一つ言えなくなってしまう自分自身に対してだった。ディーノがそれを狙ってやってると知っているのに、それで負けてしまうのだ。
 惚れた弱み、というやつなのかもしれない。

「前に夏になったら行こうって言っただろ」
「…あれ本気だったの?」

ディーノの発言に恭弥は過去にあったことを振り返り、記憶の端にあったホテルでのことを思い出す。


***


その日、ディーノは夕飯に飲んだワインのせいでかなり酔いが回っていた。恭弥を突然呼び出し、ご飯に行こうと学生には似つかわしくないお洒落でちょっと高級そうなレストランへと入った。そこでいつもと変らぬ会話を交わしたが、ディーノの様子は少しだけいつもと違っていた。
元気のように見えて少し元気がなさそうで、顔に貼りついてしまったかの様に始終作り笑いを浮かべていた。ディーノの笑顔を散々見てきた恭弥からすれば、表情が本物か作り物かを見分けるのは容易い。ペースの早いワインは自然と飲む量を増した。ディーノの様子は話せば話す程に気になってしまい、食事をしていても会話を交わしていても恭弥の考えていることはそれで一杯になってしまう。

「恭弥?」

話と恭弥の思考が噛み合ってないことにディーノは気が付いて、恭弥の名前を呼んだ。そこで我に返って恭弥は目の前のディーノを見つめる。どう切り出して良いのかを悩んでいると、食事の手を止めて「大丈夫か、」と再び声を掛けられた。

「なんでもない」
「そうか?」
「うん」

そう返して恭弥はもう考えるのをやめた。気になっていることはディーノのことだが、ディーノの部下が居て、他の客もいるようなこんな場所で理由を聞き出す気にはなれない。あなたのことを考えていた、というのはディーノの反応が分かっている以上口にすることも出来なかった。
大きな声を出せば静かな店内では更に目立ってしまう。ただでさえ見た目の派手なディーノは、レストランの中で店員と客の視線の両方を集めている。結局恭弥は思っていることを口に出来ないまま、気にならないふりをしながら食事を終えた。

「ほら」

 食事を終えてディーノのホテルへと移動すると、まるで入れとでも言うようにディーノはドアを開けて恭弥が入るのを待っている。

「泊まるなんて言ってないよ」
「好きにしていいから、とりあえず入ろうぜ」

ディーノが恭弥に確認を取らずに、二人分の部屋を取っているのはいつものことだった。それは今日も変わらない。自分が家に帰るのを面倒臭いと思っていることも分かっているからこそ、恭弥は促されるままに部屋に入った。ずっと頭を働かせていたせいか、恭弥は疲れを感じてすぐにベッドに腰掛けてそのまま倒れ込んだ。
お腹はいっぱいでベッドはふかふか。すぐに気持ち良さから睡魔が襲ってくる。食べた後すぐに寝るなんていけない、そう心で思っていても瞼は重みを増していく一方だった。

「今日はどうした?」

上着を脱いだディーノが恭弥の寝っ転がるベッドに腰掛けて言う。仰向けになった恭弥の頭はディーノによって優しく撫でられていて、重くなった瞼は少しだけ軽くなった気がした。

「あなたのこと」
「俺?」
「ずっとあなたの考えてた」

いつもと変らない表情でじっとディーノを見上げて恭弥は言った。ディーノはそんな恭弥の表情からは何を考えているのか予測できないのか、よく分からないといった表情をしている。しかしすぐに、恭弥の思考を占めていたのが自分と分かり嬉しそうに表情を緩める。

「そっかそっか。うんうん、それで?」
「それでって?」
「何考えてたのかなって」

先程から恭弥の頭に乗せられたままの手は今もそのままで、嬉しさからなのか優しく髪を梳くように様に続けられている。
素直にディーノの様子が変だったことを伝えていいのか、恭弥は少し悩んでしまう。ディーノに変化をもたらしたものは人には触れて欲しくない事情かも知れないし、ディーノがボスとして関わる内容かもしれなかった。そうなると、恭弥には知る権利がない上に、知る必要も関わる必要もないかもしれない。むしろ首を突っ込むなと言われてしまう可能性もあった。
それに本当にボスであるディーノに関わる内容であれば、それを恭弥に簡単に教えるはずがない。隠し事は無しにしようと言ったのはディーノ自身であるが、これはそれとは話が別だろう。

「恭弥?」

結局ディーノになんて言ったらいいのか分からなくて黙り込んでしまう。自分の名前をあげておきながら、それ以上何も言わない恭弥。ディーノは不思議に思い、恭弥の名前を呼んだのだ。
恭弥がこんなことを言うのは珍しく、ディーノは言われてすぐに喜んでしまった。しかし恭弥のその先を言おうとしない姿に、ディーノは不安に思う。一体何を考えていたのだろうか、言いにくいことなのだろうか。
例えばやっぱりあなたは好きになれない、この関係を終わらしたい、とかそんなことを考えていたのかもしれない。よくない考えばかりがディーノの思考を埋め尽くした。

「…怒らないでね」

名前を呼ばれて口を開いた恭弥はすこし不安そうに言った。恭弥がそんなことを言うなんて滅多にないことで、むしろ初めてかも知れなかった。それにディーノが恭弥の発言に怒ることがあっても、それは本気だったことは今までなかった上に、ディーノは恭弥に対して本気で怒ったことはない。そして怒るつもりもなかった。それなのに目の前にいる恭弥はそんなことを口にする。

「怒らねぇから言ってみろって」

なにか我儘を言いたいのかも、そう思ってディーノはそう返した。先程考えていたよくないことを言いたいのだったら、恭弥が怒らないでというのも何となく分かってしまう。
でももしも本当に我儘を言いたいだけなら出来る限り聞いてあげたいと思った。恭弥は大人びていて、子供らしくない行動ばかりでもまだ中学生なのだ。ディーノに比べたら恭弥はまだ子供で、社会でもその存在は子供に変わりはないだろう。

「今日のあなたどうしたの」

恭弥は少しだけ言葉を選んでから声にする。ディーノが恭弥に対して本気では怒らないことを恭弥自身分かっていたが、今日はいつもと違うのだ。恭弥好き勝手言って、それにディーノが怒ったふりをするのとは違う。ディーノが本気で怒ったら敵わないのは、恭弥自身が誰よりも分かっていた。
怒られたことはないけれど、恭弥はすでにディーノの本質に触れるくらいに近い関係なのだ。

「どうって、」
「なんか変、だよ。僕の前で作り笑いなんて普段はしないでしょ」

恭弥が言うとディーノはすぐに思い当たる節があったのか、ぴくりと僅かに反応して動きを固めた。すぐに表情が暗くなって恭弥から視線が反らされる。恭弥を撫でていた手も止まり、今はディーノ自身の顔に当てられている。

「上手く隠してたつもりなんだけどなぁ、」

顔を覆う形で当てられた掌に、ディーノの表情が恭弥には見えなくなる。だけど少し震えたディーノの声から、なんとなく表情が予想できた。
恭弥は身体を起こしてベッドを降り、向かいにある同じそれに腰掛ける。向かい合わせに座って、さっきまで自分がされていた様にディーノの頭を撫でた。

「あなたはきっと僕よりも器用でなんでも隠せちゃうんだろうけど、僕にだけは素直でいたら」

ヒバードにするそれのように恭弥は手を動かした。あまりやらないそれは慣れていなくて、ましてやディーノにしたことなんてなくて少しぎこちなかった。
どうして自分がこんな行動に出たのか、恭弥は自分でもよく分かっていなかった。しかし何か大きな不安を抱えたディーノを安心させたかったのは確かだ。これをするとヒバードは嬉しそうにするのだ。もちろん目の前にいるのはヒバードと違って、人間であるということは分かっていたが。
同じ効果がもたらされなくても、少しでも効果があればと思ってしたことだった。

「恭弥、」
「うん」
「こっちおいで」

呼ばれるままに恭弥が近づくと手を引かれて抱き寄せられた。ベッドに座る体勢のディーノに抱きしめられるとそれは凄く微妙な体勢となってしまい、恭弥はかなり無理をする体勢になる。しかしそれをここで言うのもなんで、黙ってディーノにされるままにする。
ぎゅうぎゅう抱きしめられていて、恭弥にはディーノの顔が見えなかった。肩口にはディーノの顔が押しつけられていてそこから少しずつ熱が伝わってくる。しばらくするとそことじんわり濡れ始めて、それでディーノが泣いていると知った。それからディーノはぽつりぽつりと、何があったのかを話し始めた。
日本に来る前に部下が一人亡くなってしまったこと。それは突発的に起きたことで、ディーノはその部下が狙われたのに気が付いたのに、助けることができなかったそうだ。その人には家族がいてその奥さんと会った時、あなたのせいだとは言われなかったが、その悲しそうな顔が忘れられなくなってしまったらしい。泣きはらしたのか赤くなった目元が頭から離れない、とディーノは続けて言った。
恭弥はそんなディーノになんて言ってあげたらいいのか分からなくて、ただ「うん」と頷いてあげることしか出来なかった。あなたの話を聞いているよ、とでも言うかのように頷いてあげることしか出来なかった。

「っ、ごめん恭弥」

一通り話をし終わると、ディーノはゆっくりと恭弥を離して鼻を啜った。ごしごしと袖で顔を拭うと顔を上げる。

「落ち着いた?」
「おう」
「そう。よかった」

ディーノがやっと違う言葉を掛けられた、と思った時に出たのがこれだった。自分の無力さに恭弥は何とも言えない気持ちになってしまう。自分は聞いてあげることしかできなくて、それはディーノのためになったのか分からなかった。
それからディーノはわざと元気な声を出して気分直しに飲み直すと言って、部屋に置かれている高そうなワインを取りに行った。そして戻ってきた時には何故か片手にはグラスが二個あった。

「僕飲まないけど…?」

恭弥は未成年で自ら法律を犯す気はないのでディーノに言う。するとディーノはにか、と笑って続けた。

「恭弥も飲みたかったら! と思って」
「飲まないよ」
「ちょっとくらいいいじゃん」
「…あなた僕にどれだけ法を破らせるつもりなの。言っておくけど悪いのは全部あなたになるんだよ?」

恭弥はディーノが腰掛けた小さいテーブルを挟んだソファーの向かいに移動する。もちろん一緒に飲んであげる気はなかったが、飲んでいる間だけは付き合ってあげようかと思いそこへ移動した。
呆れた視線をディーノに送れば、内緒にしろよなんて言われて口許に人差し指を当てられてしまった。なんとなくそれが気に入らなかったので、恭弥はそのまま噛みついた。

「いっだ! なに?」
「別に」

ふん、と音を立てるように顔を背けた。行動にもちろん意味なんてなくて、ただ気にくわなくて噛みついたのだ。
それからディーノは元気を取り戻したのか、夕飯時にもかなり飲んでいたというのにさらに飲み続けた。気が付けばへろへろになっていてその視界は虚ろになっている。呂律の回っていない舌で先程から何度も恭弥とだけ名前を繰り返している。

「きょーやー」
「なに」
「呼んだだけー」
「そう」

「…きょうや!」
「なに?」
「なんでもない! へへー」
「あっそ」

始終にこにこしていて何が言いたいのかよく分からなかった。ただ確実に言えることはディーノは酔っていて、機嫌がいいと言うことだけだった。そのまま寝てしまいそうなので恭弥はディーノを引っ張るように立ち上がらせてベッドへ移動させる。
抱きついてもたれようとして来たので、そのままベッドに放り投げた。きっとこのままもたれかけられたらそのまま立っているのは不可能だと思った上に、その後立ち上がるのも大変だと感じたからだ。投げると酷いと言われたけれど、恭弥はもう相手にしないことにした。

「……」

無視をしてシャワーを浴びてさっさと眠ることに決めて、恭弥はバスルームへ行こうと扉に手を掛けた。すると後ろから何度も何度も自分を呼ぶ声が聞こえて、そのまま放置してもよかったけれど煩くてしょうがなくて、しかたなくディーノの元へ戻ることにする。

「恭弥恭弥恭弥恭弥!」
「あぁもう、うるさいな! なに!」
「あ、いた。なんだよー心配したじゃんかー」
「シャワー浴びようとしてただけだよ」

ディーノの視界に恭弥が再び入るとディーノはふにゃりと笑う。俯せの状態で顔だけ恭弥に向けた姿で笑う姿は笑顔以上にだらしがなかった。恭弥はディーノが煩いのでシャワーを浴びるのを諦めてしまった。仕方なくディーノの見える位置に腰掛けて、なにが言いたいのか聞くことにする。

「夏になったら海行こうな」
「うん。そうだね」

きっと酔いすぎてディーノは次の日にはなにも覚えていないのだろうから、すぐにそう返した。実際行くかも分からないので適当に同意しておく。その後幾つか言いたいことがあるのかと思えば、ディーノはそれだけを口にした後は何も言うことはなかった。
恭弥がそれだけなの? と返す頃には規則正しい寝息が聞こえていた。次の日になってそれがどんな意味を持つのか、少しだけ気になっていた恭弥だったが、ディーノは何も言ってくる様子がないので忘れていたのだ。だから恭弥はディーノが昨日言ったことを覚えてないのだと思ったのだった。

***


そんなことがあったのは数ヶ月も前のことだ。あれから結構な時間が経っていて、ディーノはあれからも恭弥に海に行こうなんて言ったことはなかった。だから恭弥はディーノがすっかり忘れていると思っていたし、恭弥自身そんなことがあったのを先ほどまで忘ていた。ディーノに前に言っただろ、と言われて思い出したくらいである。

「…あれ覚えてたの?」

ディーノがあの日にあったことを覚えているとは思えなくて、恭弥はそう言った。あんなに酔っていたのだ。それならディーノがあのことを覚えていないのは不自然ではない。今まで聞いて来なかったことこそが証拠だと言えるだろう。
「覚えてたというかさ、意識なかった訳じゃねぇから記憶にあったんだよ。でも思い出すと色々恥ずかしかったから言わなかった」
どうやらディーノの中ではあの日のことは恥ずかしかったに入るらしい。恭弥はこの人でもそんなこと思うんだ、と思って乗り出した身を引いた。でもすぐに座ることはしないで後部座席に横になって眠る体勢にはいる。そんなにすぐに海に着く訳がないのは分かっていることなので、着いたら起こしてとも言わずに瞼を閉じた。

「恭弥、起きろよ」

ぺちぺちと頬を軽く叩かれて沈みっぱなしだった意識を浮き上がらせる。薄く目を開くと鼻を潮の香りで刺激される。後部座席のドアは開かれていてディーノが覗き込むような形で恭弥を起こしていた。
車から降り立つと目の前には綺麗な海岸が広がっていた。凄く綺麗なビーチであるのに人は全然いなくて、恭弥のためにプライベートだ! と横から言われて嬉しくなった。
群れが嫌いな恭弥にとってその静かな海岸はすごく魅力的だった。横を見るとディーノはいつの間にか着替えていて、ラフな格好は変わらずとも足元はズボンが折り曲げられてビーチサンダルを履いている。

「あなた着替えたの?」
「恭弥の分もあるぜ」
「じゃあ着替えるから先行っててよ」

海岸にはすぐ近くの階段から降りられるようになっていて、大した距離はない上に迷子になるほどの遠さでもない。ましてや恭弥が迷子になるはずもないのでディーノにはそう言ったのだ。それなのにディーノは一人先に海岸に向かうどころか、なんで? とでも言うように首を傾げている。

「着替えるからだよ」
「うん、ならどうぞ」
「…見られてると着替えにくいに決まってるでしょ!」

着替えるからと言えば少し嬉しそうに返事を返したディーノに苛っとして恭弥は、トンファーを出してディーノを無理矢理先に海岸へ向かわせた。あげく見たいと文句を言ったディーノには、一撃をプレゼントした。
着替えと言ってディーノに渡された服とビーチサンダルに履き替えて、海岸へ続く階段に向かう。よく見てみると自分の着ている服とディーノの服は同じデザインで、ペアルックという恥ずかしい事実に呆れて溜息が出た。遅れて海岸に降りると柔らかな砂浜に足が埋まる。さっそく砂が足とサンダルの間に入ってきて少し歩きづらかった。
ディーノは恭弥から離れた所にいてすでにその足は海の中に入っていて、そのままどこか遠くを見つめていた。そんな後ろ姿ですらも格好よくて恭弥の心臓は勝手に速度を増した。何をしても一々ディーノは変わらず格好がよくて、そんなディーノに恭弥は何度腹を立てたか分からない。
ただディーノを視界に入れただけなのに、心臓は大きく跳ねて速度を増してしまうのだ。納まって欲しくてもそれは一度起きたらしばらくは納まることがない。本当はディーノに腹を立てているのではなくて、そんなディーノに反応してしまう自分自身に腹を立てていることは、恭弥自身気が付いていた。
今日もやっぱり格好よくて腹が立った。

「わっ!」

だから黙って駆け寄って水面を足で蹴って水を後ろから掛けてやった。するとそれは思っていたよりも量が多くてディーノの背中には大きく水を染みこんだ跡が出来る。

「冷てーよ恭弥!」

そこからは水の掛け合いだった。すぐさまディーノは足元の水を手ですくって恭弥に掛ける。でもそれは後ろにちょっとさがれば避けられるものだった。何度か掛けられて何度も避けて。それが何度か繰り返されるとディーノは飽きたのか、水を掛けるよりも恭弥を掴まえようと駆け出す。
追いかけられるので恭弥は逃げることにした。水の中に浸かった足はとても走りにくくて、同時にビーチサンダルは脱げそうになって更に動きづらかった。数メートルもいかないうちにディーノは恭弥の後ろで大きく音を立てて転んだ。
振り向けば水面の中に尻餅をつくディーノ。前髪からも水滴が滴るほどに濡れていた。

「冷てー…」

呟くディーノを余所に恭弥はその状況が可笑しくて笑ってしまう。

「笑うなよ!」
「だって、あなた自分で濡れるなんて! 、っは、おかし、もう駄目っ」

恭弥に水を掛けられて掛け返すはずがディーノの方がすでにびしょ濡れだった。下半身は水に浸かっていて、水面についたTシャツはどんどん水分を吸収している。恭弥はディーノのそんな姿とこの結果があまりにもおかしくて、お腹を抱えながら笑ってしまった。
この人は一体何をしてるんだろう、そう思うと可笑しくてたまらなかった。目の前で怒るディーノはこれまたたまらないほど愛しくて怒っていても全然怖くなかった。
一方恭弥に笑われたディーノはそんなに機嫌がよくなく、少しむっとした表情をして眉間に皺を寄せていた。恭弥に仕返ししようと思っていたのに、自分の方が被害を受けてしまったのだ。しかも目の前の恭弥は普段みせることのない笑顔で笑っている。
一瞬可愛いと思ったが、そんなの気にならないほどに恭弥が笑うので腹が立ってしまった。

「わーらーうーなー」
「無理、ほんともう、あなたなにっ」

あまりにも恭弥が笑うので思いっ切り腕を掴んで引いてやれば、恭弥は大きな水音と共に海面に転ぶ。手と膝をついたせいで恭弥のズボンは思い切り濡れていて、さらにTシャツはディーノよりも濡れていた。
そこからは超接近戦だった。すでに互いにびしょ濡れだというのに恭弥は黙って手を引いたディーノに水を掛けて、ディーノは初めに水を掛けた恭弥が悪いと恭弥に水を掛ける手を休めなかった。
気が付く頃には二人とも頭からびしょびしょで、砂浜に手をついたせいで砂もかなり付いていた。海水でそれらを一度流して砂浜にあがった。お互いにサンダルを履いていても砂が入って歩きにくく、脱いで片手にまとめる。二人して服から水を滴らせた姿はとても情けなかった。その酷い姿にお互いに笑ってしまう。

「ひでぇ格好」
「あなたもだよ」
「いい男で惚れ直した?」
「ばっかじゃないの」

予測できなかった返事に恭弥はものすごく呆れてしまった。この人は自分で何を言っているのだろうか。でもやっぱり言われなくても心臓は早鐘を打つのが本当に情けなかった。惚れ直さない訳がないのだ。これ以上惚れ直すところなんてないくらいだというのに。
顔を見られると考えていることが分かってしまいそうだったので、恭弥は来ていたTシャツを脱いで固く絞ってまた着た。その間じっとディーノが凝視していたことは着直すまで気が付かなかった。

「なに見てるの、」
「ん? 恭弥」

素直に言い返せるディーノに驚いてしまった。不覚にも照れてしまうとへへ、と幸せに笑う声が聞こえた。

「きょーや」
「なに」
「すき」

うん、そう答えたかったけれどそれよりも早く口を塞がれて何も返せなかった。重ねられたディーノの唇が離れるとすぐにしょっぱいと言われ、二人して顔を合わせてまた笑ってしまった。
海水を頭からかぶってしまったからそれは当然のことだった。わざわざ口に出さなくても恭弥にも分かることだ。服が乾かないと車に戻れないので二人で乾くまで海岸を歩くことにする。砂浜には足跡が残るのに波が来るとそれはすぐに消えてしまう。
ディーノと恭弥でその歩幅も違ければ足跡のサイズも違う。振り返って足跡が消えてしまうのを見ると、恭弥の胸は少し苦しかった。それはまるでここでの思い出まで消してしまうように見え、きゅうと胸が締め付けられる思いだ。

「また来ような」
「群れがいないならね」

素直じゃないなと恭弥自身思いながら言うと、ディーノは恭弥のためなら! と笑顔で言った。海岸をまた二人で歩き出す。服はなかなか乾かなさそうで、長いこと散歩をしていなければならなさそうだった。

(それもいいかな)

恭弥はディーノの隣でそんなことを思っていた。すると心地良いかぜが吹き抜ける。

二人の間をあいの風が吹き抜けたのだ。



*あいの風
日本海沿岸で、沖から吹く夏のそよ風


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