【水龍】の現るところ

明るい提灯の灯りは怪しく光り、誘う(いざなう)声は切なく響く。甘く苦い一夜の夢を彼女たちは売っている。一時も出ることの叶わぬ檻の向こうで、ただただその身を使い男を誘う。
そこは華の街。
忘れられた欲望が渦巻く街。
江戸の街にひっそりと存在する夜の街。
『吉原』、多くの人はその街をそう呼んだ。









今宵も吉原には多くの匂いが充満していた。
それは遊女から漂う甘い香り。
それは遊女や男が吸う煙管の香り。
それは酒や運ばれる飯の香り。
それはーー腐ることのない欲の香り。

外の怪しく輝く光を見ながら、男は窓の縁に腰掛けていた。ひどく整った顔付きの男は、微かな風でも揺れる真っ赤な提灯を見やっていた。暗い部屋から見る外の景色は色鮮やかで、夜ということも忘れさせる。

「何を見てありんす?」

投げかけられた言葉に、しかし、男は振り返らず声を放った。

「景色を」

簡単な答に、遊女は肩をすくめて肌けた着物を正した。敷かれた蒲団の皺を伸ばし、枕元に置かれた提灯に火を灯す。その一連の流れは優雅で、艶やかで、誰もが見とれるものだった。
遊女は吉原に存在する数多くの茶屋の一つ、『梅雨桜』の女だった。幼い頃に吉原へ売られ、何度身を投げようと思ったか。それでも遊女は生にしがみつき、今は遊女は吉原の最高位『太夫』となった。何人もの男が遊女に甘い言葉を囁いた。だが誰にも、彼女は振り向きはしなかった。皆が彼女に夢中になった。だが彼女は誰にも夢中にはならなかった。

部屋に仄かな明かりが灯る。
外界からと内側から照らされ、男の顔がより鮮明に見ることができた。彼が嫌う、額の傷でさえも愛おしく思える。そう、彼女は愛おしいのだ。目の前の男が。初めてだった。ひょっこりと現れたこの男が零す甘い言葉が、こんなにも嬉しいものだと感じたのは。初めてだった。こんなにも、誰かを求めたのは。
長い髪を垂らして、遊女はゆっくりと男に近寄った。

「昨日も今日も…ここは変わりんせん。何も、変わってなどありんせん」
「あぁ。何も変わらない」
「……見ていて楽しいでありんすか」
「楽しい、かと聞かれればそんなに、と答えるな」

漸次、彼の瞳が遊女を捉えた。優しく細められた目に微笑み。知らず、遊女はほうと小さな息をこぼした。

「なら…なんで外を眺めてありんす?」
「ーー目に焼き付けておきたかった」

いつもの会話だった。遊女の問に彼はこう答え、もう質問はなしだというように優しく遊女の髪を梳く。遊女は彼に髪を梳かれるのが好きだった。彼が好きと言ってくれたから、遊女は髪を切らずに伸ばしているのだ。
遊女の髪を一房取り、男は口を寄せた。髪への口付けに、遊女は魅入ってしまう。刹那、先程までの事を思い出しくすりと笑った。

「そいではなくて…ここにしてくんなまし」

ぴとりと、男の唇に指を寄せる。外からの明かりに灯された男の青い髪が優しげに輝いた。男はゆっくりと遊女に顔を近づける。この瞬間が好きだった。事の最中ではなく、ゆるりとしたこの時間にする触れるだけの接吻。まるで愛し合う恋人のように思えるのだ。
ふふ、と嬉しそうに微笑んだ遊女につられ、男も小さく笑った。

「ぬしとの接吻が一番好き」
「へぇ、そりゃ嬉しいことを言ってくれるな」
「心が温まる」

男の胸に手を当て、すっと微笑む。男は何も言わず、遊女の髪を触っていた。

「ぬしは…わっちの髪が好きでありんすか?」
「ああ、好きだ」

間髪入れずに答えてくれた男に、遊女は嬉しくなりその胸に顔を埋めた。それでもなお、男はその事に何も言わず、ただ遊女の髪をもて遊ぶ。再度、遊女の髪に口づけを落としてから、男は声を放った。

「髪、切らないのかい」
「ぬしが好きと言うから、伸ばしていんす」
「遊女が男の為に髪を伸ばせば、妖になっちまうぜ」

妖?と顔を上げた遊女に、そうと男は頷いた。

「遊郭の妖、毛娼妓(けじょうろう)に」
「ふふ、確かにこなたのまんまでは、わっちは毛娼妓になってしまうかもしれんせん。ぬしはわっちが毛娼妓になってしまいんしたら、わっちを嫌いになりんすか?」
「いいや、それくらいであんたを嫌いになんてならないさ」

不安げな瞳を見せた遊女に、安心させるかのごとく男は笑った。
嗚呼嬉しい、遊女は幸せそうに笑い、男に口づけを落とした。それを素直に受け止めて、男は腰を上げた。さぁ眠ろうかと遊女の手を取る。敷かれた蒲団に見を沈め、遊女は幸せな気持ちとともに目を閉じた。









寝入った遊女を蒲団に残し、蒼刃はゆっくりと窓の縁へと腰掛けた。流れる景色はあの日から変わることはない。あの日、あの時、蒼刃は彼女に恋をした。彼女は吉原の太夫で既に時の人だ。緑の髪を伸ばして緩く結び、気丈な態度と物言いで自分を怖がらず受け止めてくれた。彼女の面影を求め、ここに入り浸って何年経つか。はたまた何十年経つか。定かではない。
ただ彼女を求め、蒼刃はこの吉原へとやってくる。その日その日の変わらぬ景色を目に焼き付け、あの日を思い出す。
嗚呼、あの時の自分はとんだ青二才だったなと思い返した時だった。ざわりと部屋に何かが入ってきた。それはふすまを使わず、するりと部屋に入ってくる。蒼刃の近くまでやってきたかと思えば、それは静かに腰掛けた。

「どうしたんだい」

声をかけると、腰掛けた何かがはっきりと姿を表した。遊女の出で立ちだがしかし、長く地面にも付いている黒い艶やかな髪が美しい着物の殆どを隠してしまっている。長い髪に隠れて顔はほぼ見えなかった。醸し出される雰囲気に、子供だけでなく大人も恐れて裸足で逃げ出すだろう。だが蒼刃はただ、それの返答を待った。

「ぬしがわっち以外の女の髪を触ってありんすのを見て嫉妬しんした」

拗ねるような物言いに、蒼刃は苦笑を零す。女の長い髪を手に取り、口付けた。

「嫉妬してくれるのは嬉しいな、毛娼妓」
「…」

するすると手にした髪が手にまとわりついてきた。まるで意思を持っているかのようなその動きに、蒼刃は驚きもせず微笑むだけだ。
女ーー妖、毛娼妓は立ち上がり、蒼刃の首に腕を回した。抱きついてきた女の腰を抱きながら、蒼刃はクスクスと笑う。

「どうしたんだい、今日は随分と積極的だ」
「黙りなんし。わっちは怒ってありんす」
「悪かったよ」
「ぬしもジャック様も軽すぎんす。女を甘く見ていたら痛い目にあいんす」
「それは困るな。今度から気をつけよう」
「…その言葉を聞くのは百と五十回目でありんす」
「ははは」

端から見ればそれは異様な光景だった。異形とも言える女の腰を若く顔の整った男が抱いている。そしてそこから少し離れた場所では美しい遊女が寝息を立てている。
異様だった。だが、それは蒼刃にとっても毛娼妓にとっても普通の光景だった。
毛娼妓が蒼刃から離れ、無意識のうちに彼の体に絡ませていた髪をしゅるしゅると解いた。

「遊びはここまでで本題に入りんす。海鈴様が外で待っていんす」
「ああ、そう言えば約束していたな」

煙管を食わえた友人の顔を思い出し、頭を掻いた。今宵は友人達と晩酌の約束をしていたのだ。では早く行かなければ、自分のぶんの酒がなくなってしまう。腰を上げ、立ち上がった。
ぴちょんと水の滴る音が響いた。次いで、蒼刃の周りにどこからとも無く水が現れる。音も無く彼の周りで渦巻いたかと思えば、どこへともなく消えた。水が現れたのにも関わらず、床は濡れてはいない。
赤い瞳に所々に現れた龍の鱗。鋭い爪。これが、本来の彼の姿だった。
水龍ーー蒼刃。海の神とも言われる妖が、彼の真の姿だ。
蒼刃は一度蒲団に視線を向ける。が、それをすぐに逸らして毛娼妓へと向けた。

「酌をしてくれるかい」
「ぬしのご命令とあらば」
「頼み、なんだがな」
「頼みでも断る理由がありんせん」

髪の向こうでにこりと微笑んだ毛娼妓は、ひどく美しいと思った。まるで彼女のようだ、と蒼刃はすぐに百数年前の太夫を思い出し苦笑をこぼした。そんな彼に毛娼妓が片眉を上げた気配を感じ取り、なんでもないと笑った。
窓の縁に足をかけ、毛娼妓へ手を伸ばす。手をとった彼女を引き寄せ、抱き上げた。するすると彼女の髪が腕に絡みついてくる。気にする様子もない蒼刃は、たんっと軽く地面を蹴った。ふわりと浮かんで向かいの建物の屋根へ降り立つ。約束の場所へと軽々と屋根を飛び移りながら目指した。
遠ざかる遊郭は、深い夜の闇の中で輝き続けていた。






(吉原の水龍)




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