後ろで波が砕ける音がする。雨で肌に張り付いた髪が気持ち悪い。今すぐ自分の部屋に戻ってそれから温かい風呂に入って、ふかふかのベッドで寝てしまいたかった。そんな叶うわけのない甘い願いを振り切って、アイリーンは剣を鞘からぬいた。
悲しげな微笑みを向ける軍人の男を見つめる。嗚呼、その微笑みが心底腹立たしい。同時に愛しいと思えた。

「構えなさい」

腹の立つ愛しいその男の笑みを見てアイリーンは低い声を出す。剣の切っ先を真っ直ぐに流紋へと向けると彼は静かに首を振った。
その意図を汲み取り今度は先程より声を荒げた。

「構えなさいよ!」

それは悲痛な叫びだった。心の奥から何かが溢れてくるのがわかる。決してかなわないこの想いを叶えるにはこの方法しかないと彼女は思ったのだ。
自分にはこれしかないのだと。
だって、今のあたしとあんたじゃ決して一緒にはなれないから。

「あんたは…あたしが殺してあげる。だからーー」

ーーあたしのことはあんたが殺してよ

ちゃんと言葉にできていなかったかもしれない。波の音で聞こえなかったかもしれない。頬から伝ってくるそれはきっと雨の雫だろう。漏れそうになる嗚咽は緊張しすぎてなのだろう。
なんて、嘘ばっかり重ねて自分の気持ちに壁を作ってきた。
その壁を壊すには自分に正直になるには、彼の力が必要なのだ。
流紋に斬りかかる。彼はそれを黙ってみていた。剣が、切っ先が、流紋の胸を切り裂く。流紋はぐっと歯を食いしばってから、目の前で涙を流しながら斬りかかってきた少女を抱き締めた。胸がズキズキと痛むがそんなものこの少女の痛みに比べたら小さなものだろう。

「なんで…、なんで、戦わないのよ…」

アイリーンの手から剣がカランと音を立てて落ちる。抱きしめる腕に力が入った。

「俺は君と、戦えないよ」
「だからなんで…!」
「君が好きだから」

君の髪が好きだから。君の声が好きだから。君の瞳が好きだから。

「君の笑顔が好きだから」
「っ…!」

だから流紋は彼女と戦う事などできないのだ。彼女が好きだから、彼女の傷つく姿を見たくないから。
アイリーンの頬から雫が伝っていく。今度こそこれは涙なのだと、わかった。嬉し涙なのか、はたまた哀しみの涙なのか。それは多分、わからないのだろう。今も、これからも。

「!?」

何かの気配を感じ取り、ばっと流紋から離れた。途端、彼女の胸から剣が現れる。その剣はまるで彼女の中から現れたかのようだった。

「ぁ、…」
「アイリーンちゃんッ!!」

倒れるアイリーンを流紋が抱きしめ受け止めた。胸から現れた剣はまるで塵のように姿を消している。

「おいおい、なんの真似だよ流紋さん」

声が飛んできた。酷く冷たい男の声だ。ついで足音が多数。流紋はゆっくりと声のする方を振り返った。
見覚えのある顔がそこには揃っていた。そのうちの一人、ターバンのような物を頭に巻いた男が片眉を上げる。

「そいつは敵だろ?なんであんたは今、そいつを抱いてんだ」

睨みつけるかのような視線だった。彼の瞳には疑問と怒りが湧き上がっていた。
先程、アイリーンの腹から現れた剣も彼の仕業だろう。少佐、ジン。彼はどこからでも自在に武器を出す事ができるのだ。その力によって消された者は数しれない。
その横からクスクスと笑いながら女が歩み寄ってくる。片手に持った薙刀は雨に濡れて怪しく光り輝いていた。

「いややわぁ、ジン。そない無粋な事聞いたらあかんよ」

口元を上品に袖で隠してくすくす笑う女はゆっくりとその鋭い瞳を流紋へと向けた。
女ーー葛桜少佐はにこりと微笑んだ。しかし、彼女から発せられる殺気は確かに流紋を貫いていた。

「なぁ、流紋大佐。うちがこの状況、分かりやすう説明して差し上げましょか?それとも…ご自分で弁解でもなさります?」
「弁解なんて今更必要ないだろ」

拳をきつく握って彰月少佐が流紋を睨みつけた。その視線を真っ向から受けて流紋は静かに目をそらす。
弁解などなかった。今、彼は軍の仲間達よりもこの海賊の少女を助けようとしたのだから。弁解など、できる訳がなかった。
沈黙が広がる。ざぁざぁと振り続ける雨音が響く。誰も口を開かなかった。妙な緊張感がその場を包んでいく。

「流…も…ん」

沈黙を破ったのは流紋の腕の中にいた少女だった。少女は流紋の腕を掴んだ。まるで縋るように助けを乞うように離れないようにーー


********

今まさにこの現状を表す言葉があった気がする。
もう後戻りはできない、引き返せない。
あたし達は、もう戻れないところまで来たのだ。
涙はとうに枯れ果てた。口から溢れる赤も腹を刺す熱も、すべて忘れて…海の泡に返そう。

「流紋、一緒に消えよう」


“賽は投げられた”

そう、そうだ、この言葉だ。
まさにぴったり。終わりを表しながらこれからを表す言葉。
流紋が驚いた顔をした。情けない顔、変な顔。笑ってやりたいのにあたしにはもうそんな気力もない。
霞んだ視界の先、流紋が微笑んだ気がした。そしてあたしの唇に何か柔らかいものが触れる。

「いいよ、これからはずっと一緒だ」

嗚呼、やっと…やっとあたしの想いが願いが叶うのね。
ごめんなさい、蒼兄…フィー兄。あたしはとんだ兄不孝者よ。でも大好きだった。あなた達が本当に大好きだったの。
ごめんね、レオ。あんたとの約束守れそうにないわ。でも忘れないで。あたしはいつもあんたこと思っててあげるから。
体が重くなる。息が出来なくなる。これで終わりなのだと、あたしは静かに目を閉じた。

*******

例えば、俺が普通の人間だったなら。
例えば、俺が彼女に出会わなければ。
全てうまく行ったのかもしれない。こんな醜い争いを起こさなかったのかもしれない。
俺が普通なら。彼女に出会わなければ。
そんなこと何度も何度も考えた。けど、それはただの夢物語。とうの昔にわかっていたことなのに。


『あんたはあたしが殺す!』


泣き叫ぶ君の顔が、頭から離れなかった。
腕の中で静かに眠りに落ちた君をしっかりと抱きしめる。もう離れないように。離さないように。

「大佐、馬鹿なことを考えてるわけじゃないよな」

彰月が沈黙を破って声を出す。彼の言う馬鹿なことが、これから俺がしようとしていることなら、それは肯定しよう。俺は今から、その“馬鹿なこと”をしようとしている。
無言を肯定と汲み取ったのか、ジンが動き出そうとした気配を感じる。彼がナイフを投げるよりも先に俺はそれを実行しよう。

「待ちなはれ、ジン」

葛桜が静かに声を出した。静止するその声にジンが動きを止める。

「うちらは何も見なかった。軍人流紋大佐はとうの昔に殉職してはった」
「葛桜…!!」
「それでええな。彰月、ジン」

葛桜に穏やかにを振られ、二人はため息をついた。
仕方ないとジンが踵を返し始める。そんな三人の様子に俺は頭を下げる。
彼らはこんな俺を最後までたてようとしてくれたのだろう。軍人の流紋として、最後を飾らせてくれたのだろう。
これからは違う。
俺はもう“軍人の流紋”ではない。“ただの流紋”なのだ。
冷たい彼女を抱きかかえて波止場の端に立つ。これからはこの子と共に。これからはこの子の為に。

「愛してるよ、アイリーン」

一際大きな波が、俺たちを海へと連れ去った。


(海賊と軍人)

血戦戦争19




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