夜、そいつはいきなり俺の部屋に現れた。いつものことだった。こいつがいきなり俺の部屋――船長室にやってくることは。ただ、こいつは所謂『人魚』と言う奴で、どうやったら海の中からこの船に登ってきてこの部屋に痕跡を残さずたどり着くのだろうか。すっかり乾いてしまったそいつに、後ろから抱きつかれながらそう思案していた。


「なぁ」


また呼びかけられる。俺はあえて返事はなしない。こうゆうときに限って、こいつはふざけることが多いから。
なのに今回のこいつは至極寂しそうに声を出すのだから、弱ってしまう。まわされた腕に、力が入った。

「なぁなぁなぁなぁ」
「どうしたんだよ」

明らかに様子のおかしいそいつに、俺はしびれを切らして問いかけた。だが返事は帰ってくることはない。その代わりに、小さいながらも背後から嗚咽が聞こえてきたのだからたまったものじゃない。


「どうしたんだ」


先程よりなるべく、なるべく優しく問いかける。視界にそいつの綺麗な海色の髪が入った。長いそれを指で弄びながら、首筋に顔を埋めるそいつの頭を撫でてやる。
海の、波の音が響く。揺れる度に軋んだ音を立てる船に当たって砕けた波の音。静かで、穏やかだった。それに耳を傾けていると、波とは違う音が聞こえた。



「俺も、人間がよかったな」



震える声を出したそいつの言葉に、こいつはまるで『人魚姫』だな、と頭の片隅で考えた。

「どうして?」
「だって、人間ならずっと地上で暮らせるし、技術も医術も発達しているし、何時でも酒が飲めるし」


何より、とそいつは続けた。


「アントとずっと一緒にいられる」


だから、人間になりたい。


そいつは震える声ではっきりと告げた。確かに地上は海中より危険も少なく、無駄に技術や医術は発達していて、美味い酒は何時でも飲める。それ地上にいれば海中にいるときより俺との時間は増えるだろう。だが――


「――人間なんて、ただの欲深い生き物だ」


何でも欲しがる、欲深な生き物、それが人間だと俺は言い聞かせるようにそいつに言った。


「ひっきりなしに新しい物を生みだそうとするし、それを手に入れようともする。物だけなら人魚もその欲は変わらないかもしれない。だが人間は物だけでなく、目に見えない物も手に入れようとする。富、名声、地位に力。それを欲するあまり、命を奪う奴もいる。
俺はそんな馬鹿で哀れな奴らをこの眼でたくさん見てきた。だから、わかる気がする。人間は人魚より欲深く、醜い生き物だって」


俺の話を、そいつは俺の首筋に顔を埋めてただ静かに聞いていた。


「同じ『人』でも、こうも違うんだよ俺達は」

だから人間みたいな醜い生き物になるべきじゃない、静かに言ってやると、そいつは首筋から顔をあげ、どこか穏やかな雰囲気を出した。


「でも、アントは醜くない。寧ろ綺麗だ。俺はアントみたいな人間になりたい」
「馬鹿言うな。俺だってそこらの人間と変わらない。自分の呪いを解くために他人を傷つけてるんだ、下手すれば俺は普通の人間より醜くて哀れなな生き物だよ」


自嘲気味に笑ってやると、そいつはまた俺の首筋に顔を埋めた。広がる沈黙。夜が遅いためか、だんだんと瞼が重くなってきた。ゆっくりと揺れる船がまるで揺りかごのようで、俺は余計に眠気に襲われる。


完全に寝入ってしまう前、そいつは小さな声を出していた。











「それでも俺は人間になりたい」
                      



(それは人になることを願った人魚のお話)




人になりたかった人魚の話




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