町外れの小高い場所に三階建ての古びた集合住宅がある。最上階の一番端にあるそのこじんまりとした部屋にしがない女の画家は身を寄せていた。然して広くもなければ年季ばかりが入り強い風に吹かれただけでも軋むような粗末なそこだが、けれど女は大層気に入っている。立て付けの悪くなった大きな窓がひとつ。そこから臨む景色を何よりも好んでいた。何処までも広く行き渡る空と遠くに見える海、その境界をのんびり走る鈍行列車。見晴らしのいい景観は四季折々に姿を変え女の心を捕らえて離さなかった。

ただ、この頃はそこに花が添えられる。美しい景色が霞み埋もれる程の鮮烈な華。窓の縁に腰掛けて遠くを眺める姿は宛ら名のある絵画のようで、おんぼろの窓枠さえ豪奢な額縁に見えた。その華が居るときばかりはどうしたって大好きな景色よりもそちらの方に余程夢中だった。

 

そういえば、と女は不意に先日のことを思い返す。結局あの熱烈だった記者は宣言通り自分の事を記事にはしなかったらしい。最後に目にした呆れた笑みを思い出し思わず苦笑を浮かべた。やはりのろけが過ぎたのだろうか。期待外れだったのやも。その後謝礼の文と菓子折が贈られてからはぱったりと何の音沙汰もなくなってしまっていた。

 

「おい、筆が止まっているぞ」

 

随分とわかりやすいものだと思い出し口許を緩めた所で鋭い声が響き女はハッと意識を戻した。キャンバスの向こうに視線をやると金緑の瞳が射殺さんばかりの強さでこちらを睨め付けていて、その威圧に反射的に息を呑んだ。

 

「ごめんなさい三成さん、少し考え事を…」

「何…?」

 

三成と呼ばれた男は柳眉を吊り上げ勢いよく立ち上がると、荒い足音を立てて絵筆を握る女へと詰め寄った。何事かと驚く間もなく三成は女の顎を乱暴に掬い上げ、鋭く光る双眸を間近に寄せる。

 

「考え事とは何だ」

「いえ、大したことでは…」

「今日、この日、私を描きたいと望み呼び出したのは貴様ではないのか」

「ええ、そうです」

「ならば何故私のことだけを考えない。私だけを見ろ、私の為だけに全てを注げ。今この場で下らん思考を巡らすことは許可しない」

 

ぎらりと虹彩を煌めかせ惜し気もなくその激情を露にする三成に、女はうっとりと目を細めてもう一度ごめんなさい、と微笑んだ。

 

この気性の激しい男こそが何を隠そう巷で騒がれている絵画の男の正体だった。確かにあの絵の様に実物も麗しく見目好い容貌ではあるが、しかし今の今までその正体を暴いたものはひとりとしていなかった。肌の生っ白さも、薄く淑やかな唇や艶かしい首筋を絵にし世間に見せびらかしたところで、彼をその人と特定出来るものは誰一人居やしなかった。

 

「嗚呼、綺麗な瞳。もっと近くで見せてくださいな」

「それは絵を仕上げる為に必要なことか?」

「勿論ですとも。対象をようく観察して作品をより写実的にしたいのです」

「フン、貴様の此処はこう言うときばかり達者に動く」

 

目を細め小馬鹿にしたように鼻を鳴らした三成は目の前で弧を描く小憎たらしい唇を親指の腹でゆったりと撫ぜた。感触を確かめるように何度も行き来する焦れったい動きに女がたまらず眉を顰めると、目の前でへの字に結ばれていた唇が機嫌良さげに吊り上がる。なんて艶やかなのだろう。色も厚みも薄い唇はけれど女の目にはなによりも色を持ち、どうしようもない情欲を掻き立てた。

 

「…先日、とある名家のご夫人から貴方のお顔をきちんと描いて見せろとのご依頼がありました」

「名家か。さぞかし高い金を積まれたのだろうな」

「ええ、それはもう、こんなおんぼろアパートが建て替えられそうなほど」

 

それどころか土地ごと買い付けて豪邸を構えることが出来ただろう。こちらの言い値によってはともすれば山すら手に入っていた。夫人の血走った眼が思い出され女は堪らず表情を苦くする。

 

「よく断れたものだな。それほどともなれば脅しすらけしかけて来そうなものを」

「勿論、タダでとはいきませんでしたから、お断りする代わりにとっておきの作品をお贈りしたんですよ」

 

顰めた顔をさらに忌々しげに歪めて女は拗ねるように言った。どこにも出していない気に入りの一枚だったのに、自身が楽しむ為だけのものだったのに、と唇を尖らせる。

 

「ならば承けていればよかっただろう。金も入る。こんな襤褸家を離れ贅の限りも尽くせたものを」

 

疑わしげに目を眇めた三成に女は静かに首を振った。そうして怪訝の色を浮かべた端整なかんばせにとろけるような笑みを向ける。

 

「どれほどの金子を積まれたってきっとわたしは貴方のその瞳を描くことはないでしょう。絵描きの道を閉ざされたって構わない。貴方のその瞳がわたし以外を見詰めるくらいなら、いっそ仕事も失い餓え死んだ方がずっと幸せですから」

 

そう微笑む女に三成は向けた視線を逸らすことなく馬鹿な奴だと吐き捨てた。辛辣な言葉を紡ぐ唇は反して穏やかな弧を描いている。女はその表情にもまた、優越を感じ喜びに打ち震えた。

 

いつも真一文字に引き結ばれたあの唇に笑みを象らせることが出来るのは自分だけだ。他者への関心を持たない彼に悋気の焔を灯すのも、全て自分だけが目にすることを許された唯一なのだ。そうしてそれらは冷えた金緑の眼に熱情を孕ませることで女への愛を雄弁に語っていた。それを易易と他の誰かに見せてくれる気など毛頭なかった。女は胸の内に渦巻く激情を甘ったるい笑みで隠して、三成の胸にしなだれかかる。

 

「何と罵られようと構いません。それでわたしが貴方の、貴方がわたしの唯一で在れるなら」

「貴様は熟強欲な女だ。その内に私はこの紙切れに閉じ込められてしまいそうだな」

「まぁ!それが出来たとしてそうはさせてくれないくせに、非道い人」

 

女は態とらしく頬を膨らませてみせた。それが出来たらどんなに幸せなことか。させる気もない絵空事をあの真面目一辺倒な三成が珍しくも呟いたものだから、悪趣味な冗談だと内心悪態吐いた。

 

「フン、言うまでもない。私には成すべき事がある。例え貴様であろうと私を縛することは許さない」

「…分かっていますとも。いいのです、こうして時折お顔を見せてくださるだけで、わたしはー…」

 

言い終えるより早く言葉ごと奪い取るように、噛み付くように唇を奪われた。断続的に角度を変えては唇を食まれ、口付けは徐々に深まってゆく。舌先から脳へずくずくと痺れが広がり思考が靄に包まれ始める。次第に体の力も抜け崩れてしまいそうになった頃、ぐっと腰を引き寄せられ漸くゆるりと唇が離された。

 

「囚われるのは貴様の方だ。手枷を与え足の腱を断ってやる。そうして私の注ぐ愛に溺れろ。私の愛でのみ呼吸を許可する」

 

互いを繋ぐ銀糸は途切れる前に唇ごと舐め取られた。そんな脆い糸でさえも、解くことは許さないとでもいうように。

湖面の如く深く澄みきった翡翠色の瞳にこの上なく幸せそうに笑む自分が映る。途端ごぽりと、吐き出した吐息が水泡となって弾けたような錯覚に陥った。

 

「ならばいっそ、水底まで沈めてくださいませ。重い枷を巻き付けて深く深く奥の底まで突き落として。この身が朽ちるその日まで」

 

それまで握っていた筆を放り投げて、女は縋るように三成の首にしがみついた。それからふたりは見つめ合い、堰を切ったように互いの唇を貪ると布団も敷いていない畳の上へなだれ込んだ。




題:mjolnir


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