それから程なくしてあの女と再開した。今日は部下を引き連れていないのだろう、僅かに気が緩んでいるように見えた。
「…何故あんなことを」
「忍に仕事のことを聞くもんじゃない」
分かっているくせに。そうやってまた心のない笑みを浮かべる女にぐらぐらと腹が煮えた。言い様のない怒りを拳に込めて胸ぐらに掴みかかる。本気で殴ってやろうと思った。それなのにどうしても寸での所で勢いが薄れてしまって、女々しい平手打ちしかくれてやることが出来なかった。
「ふふ、文次郎は変わらないね」
「なに笑ってやがる。おれは本気で腹立ててんだ」
「わかってる。怒ってくれると思ったから文次郎に会いに来たんだ」
それでもきっかけを与えるには十分だったのか、女は瞳をゆらゆらと揺らして漸く化けの皮を剥き始めた。
「もう、わからなくなってしまったよ」
「いつだってみんなが幸せであって欲しいと思っていたんだ」
「だけどね、その内欲に囚われてしまったのさ、わたしは」
「隣のご夫婦、とても仲がよくて素敵だったよ。近所の団子屋はそれはもう美味しかったし店主は気前がよくていつもおまけしてくれた。うどん屋のおじさんはちょっと頑固で。魚屋の兄ちゃんと八百屋の兄ちゃんは喧嘩ばっかりで、そう、文次郎と留三郎みたいだったんだ」
「それから…それからさ、」
胸ぐらを掴んだ手に生温さが落ちた。ぼたぼたと溢れては止まらない。まるで奥底に埋もれていたあいつがこぼれ出ているように思えた。
「父さまも母さまもきっとわたしを恨んでる。みんなわたしを恨んでるに違いない」
「それでおまえは後悔してるのか」
「…後悔はしていない。だけど、もう、だめだよ。わたしは所詮ただの人間なんだ」
諦めたように笑った女の顔がひどく憂いでいたことに、何故だか胸がいたんだ。
掴んだ胸ぐらを強く引き寄せて濡れた唇に噛み付いた。なんてしょっぱい、苦しい、いたい。未だ大人には成りきれていないのだと、思い知った。
「ありがとう、文次郎。やっぱりおまえはわたしの憧れだ」
「…なんだそりゃあ、初めて聞いたぞ」
「当たり前だよ、初めて言ったもの」
こっ恥ずかしくて言えなかったんだ。ふにゃりと照れ臭そうに締まりのない顔で女は笑った。そうか、お前は変わらないままでいたんだな。それが合図だというように女の体をきつくきつく抱き締めて身体の熱を伝えた。おれの背には甘えるように腕が回わる。
「こんなに贅沢な土産ったらないよなあ」
手にした苦無を薄い背に突き立てれば女は漸く幸せそうに笑って、ゆっくりと瞼を閉じた。
結局お前は忍にも成りきれず皆に崇め称えられる英雄にも成れず、ひたすらに自己満足の正義を掲げて挙げ句その重みに潰れたんだ。
いくつかの村では流行り病が猛威を奮っていた。原因も掴めぬまま成す術もなく広まり続ける悪疾に誰もが希望を手放そうとしていた。神は我らを見捨てたのだと。しかしその悪疾はある日を境に勢いをぴたりととめた。人々は言った。神が救ってくれたのだと。
流行り病に苦しむ人々のため近隣諸国を飛び回っていた伊作と偶然出会した時、嬉しそうに語っていたのを聞いてはその滑稽さに笑いすら溢れた。