「はやと、いいこ」

彼女のきれいな唇からやさしく紡がれるその言葉はオレを動けなくする呪文だった。それは触れたくて、抱きしめたくて、キスしたくて、もうどうしようもないってときたまらず手を伸ばすといつも寸でのところで唱えられていた。
「はーちゃん、いいこ」昔、オレがまだ幼い頃に、彼女が言った。「はーちゃんはとってもいいこだから、わたしが嫌がることはしないよね?」「いいこなはーちゃんが、だぁいすきだよ」そのあまい言葉は幼いオレの脳みそに毒のようにじくじくと染み渡って、呪いをかけた。彼女に好かれたい、好かれたい、嫌われたくない。幼すぎる恋心のあまりにもシンプルな想いは強烈で、それ故に支配されるのは簡単だった。

「なあ、オレ、もうすぐ卒業なんだ」
「ええ、もうそんなになるの?早いなぁ。大学には?」
「ああ、行くよ。もう決まってる」

のんびりとソファに座る彼女の前に膝をつくとそれまで読んでいた雑誌を閉じてこちらに手を伸ばす。彼女の白い手が頭を撫で、頬を撫で、首を、肩を順に伝っていく。

「でもほんと、大きくなったねぇ。昔はお人形さんみたいに小さくて可愛かったのに、こーんなに逞しくなっちゃって」
「名前の方が、ずっとかわいくてキレイだった。今もだけど」
「やだ、そんな上手いことまで言えるようになったの?」

お世辞なんかじゃない、本心だ。ころころと愉快そうに笑う彼女の手を取って甘えるように頬を寄せる。わかってるくせにそうやってからかう彼女が憎い。でも、嫌いになれない。

「ふふ、からかいすぎた?」
「ん、ほんとひでーよ、オレ、泣いちまうかも」
「大袈裟だなあ。ま、卒業祝いに何かお願い聞いてあげるから、許して?」

ね?とかわいく首をかしげる彼女。してほしいことはと口にした。なにがしたい?なにがほしい?形の良い唇がやけにゆったりと動いてみえて、引き寄せられるようにオレはそこに手を伸ばす。

「名前が、名前がほしい」

もう何度頭のなかで彼女をぐちゃぐちゃにしただろう。呪文を吐くその憎い唇に貪りついてやさしい声を枯らせて白い肌に噛みついて、何度、なんてもう覚えちゃいない。彼女が好きで好きでたまらなくてオレだけのものにしたいのに。彼女に求めてるものなんてそれ以外なくて、喉から手が出るほど欲してる。のに。

「わたしはモノじゃないからあげられないなあ」

切実な想いはいつもこうやって呆気なく砕かれる。全部知っててからかってるんだ。期待させられて、裏切られて、オレもいい加減学習すればいいのに。それでも、期待せずにはいられない。

「…じゃあ、なにもいらない」
「うーん、ねぇ隼人、もっと頭を使ってごらんよ」
「え…?」

拗ねたオレを見兼ね呆れたようにため息を吐いて彼女がオレの額を突いた。意味がわからず呆けているともう一度降ってくる、ため息。

「わたしは欲しいものとも言ったけど、してほしいこととも言ったでしょう?わたしを貰えないなら、じゃあ他にはなにもないの?」
「そりゃ、でも、名前が」
「わたしが、なあに?」

オレを見下ろす視線はいつもみたいにやさしくなくて、少しつめたい。なんで、オレ、いいこにしてるのに、そんな目すんだ。頭のなかがぐるぐるどろどろ混乱していく。きらわれたくない、呪いがかかってうまく働かない脳みそにまた彼女がのんびりと、気だるげに呪文を吐いて。

「はやとはいいこね。ほんと、いいこすぎて、つまらない」

オレはまた呪われて、深みへと突き落とされる。
×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -