後編


「……ジャーファルを不幸にしたら殺す」

低く、地を這う声が静かに告げた。……怖い。とても怖い。私は首が千切れんほど頷き、必死に「必ず幸せにします!」と繰り返した。

「もう!飲み過ぎですったら!」

酒瓶を取り上げようとするジャーファル殿から守るようにして瓶を抱え込んだシンドバッド王は、いやだ、こんなにめでたい日なんだから心行くまで飲む、と駄々を捏ねるように呟いている。……目の前の男は、七海の覇王、のはずだが私の思い違いだろうか。ジャーファル殿は、だめですったら、めでたい日というのならば手を煩わせないでください、と小言を言い出し始めた。

シンドリア国の主従のやり取りを横目で見つめ、ふと姫君の様子が気になった。浮かれて酒を飲んでいなければ良いのだが、と視線を巡らせると、机に突っ伏している後ろ姿が視界に入る。酔い潰れてはいないようで、時折体が動く。近くには侍女が控えていて、私の出番は必要ないのだが、気に掛かる。

「すみません、あの、王を休ませたいのですが、席を外しても?」
「え、ええ、もちろんであります。……私もすこし」
「ほら、シン!部屋に帰りますよ」
「何を言う!俺は朝まで飲むつもりだ!」
「だめですったら!……マスルール!シンを運ぶの手伝ってくれる?」

シンドバッド王の部下であるマスルール殿が静かに素早く近寄り、シンドバッド王を支えた。立ち去る時、一瞬だけこちらを見て、軽く頭を下げた。釣られてこちらも頭を下げる。シンドバッド王以外のシンドリアの方々が、この結婚をどう思っているのかはわからない。噂によると、良い印象ではなかったようだが。

出来れば良い印象を持って欲しいものだ、そんなことを考えながら立ち上がる。姫君の近くに寄れば、気配に気づいたのか、振り返り立ち上がった。その頬は酒のせいか、ほんのりと赤く色づいている。

「良い結婚式だったわあ……。その花婿衣装、とても素敵よ」
「……姫君、私は確か酒を飲んではいけないと前もってお伝えしていたはずでは?」
「いいじゃないのよぉ。おめでたい席なんだもの!こんな日に堅苦しいこと言いっこなしよ」
「ですが」
「もう!わたくしのことはいいの!侍女もいるし、煌帝国の皇女としてふさわしい振る舞いを心がけているわ」

得意げに言い放つが、先ほどは机に突っ伏していた。シンドリア国王よりはマシであるが、変わらない部類であろう。

「それよりあなたのお嫁さんはどうしたの?放ってわたくしのところに来るなんてだめよ」
「……ジャーファル殿は、シンドバッド王を自室まで送り届けに」
「そう、……シンドバッド様、もうお部屋にお帰りになったの」

残念だわぁ、と呟いて肩を落とす。初恋は実らないもの、と諦めた姫君ではあるが、シンドバッド王への憧れは変わらないらしい。私としては諦めずにいて欲しいものだが。

「夏黄文」
「はい、なんでありましょう」
「わたくし、嬉しいの。幸せになってね。……今まで、あなたにはたくさん助けられたもの。わたくしに出来ることがあれば、なんでも言ってちょうだい」

姫君はにこにこと笑い、私の手を力強く握りしめた。出会った頃はちいさな手だったが、随分とあたたかく優しい手になられた。濃かった化粧は以前と比べて薄くなり、清楚な雰囲気がありながらも、芯の強さも備えていて欲目ではなく魅力的な女性となられた。シンドリアに武学を学びに来てからは日々が充実しているのか、頬は輝くばかり。友人と呼べる者も数人出来た。……後は良い嫁ぎ先である。

「いいえ、姫君が健やかにお過ごしくだされば、他に望むことはなにも」
「本当かしらぁ。良い嫁ぎ先があれば、なんて思っているのではなくて?」

成長したのは見た目ばかりではなく、多少賢くなられ、すこしばかり困っている。たまに扱いやすかった姫君が懐かしい。

「夏黄文、わたくしまだ結婚するつもりはなくてよ。まだまだ学びたいことあるもの。……好きな殿方が出来れば別だけれど」

ふふっ、と笑う姫君の顔を見ていると、なんだか気が緩んだ。

「あ、帰ってきたわよ。ほら、はやくお戻りなさいな!」
「そのように追い返さずとも。……酒を飲んではいけませんよ」

わかっているわよぉ、と言うがいまいち信用が出来ない。侍女に目配せし、頷いたのを確認してから、ジャーファル殿の元へ帰った。

「シンドバッド王はお休みになられましたか?」
「いいえ、まだ飲むんだと言って部屋で酒盛りです。……まあ他国の者の前で醜態を晒すよりは良いのですが」
「お疲れさまであります」

労いの言葉を掛ければ、軽く眉を顰めた。

「なんですか、急に、そんな言葉……」
「実は、私も先ほど酔った姫君に小言を」

ジャーファル殿が姫君の席に視線を送るが、もう部屋に戻ったようで姿はない。

「……では、あなたも、おつかれさまです」
「互いに主には振り回されてばかりでありますね」
「その主を利用しようとするあなたにそんなこと言われても、と言いたいところですが、……そうですね、お互い主には振り回されてばかり」

苦笑を浮かべる顔に、刺々しさはなかった。

「夏黄文殿」
「はい」
「先に言っておきたいことがあります」
「なんでしょう」
「私は、今までシンの役に立ちたくて、そのために時間を費やしてきました。これから先も変えるつもりはありません。色々あってこんなことになってしまいましたが、あなたに人生を預けることは出来ません。私の命はシンのために存在しています。仕事も今までのように続けるつもりです。……構いませんね?」

ジャーファル殿の目は真剣だった。

「私が否を返したところで意思は変わらないでしょうに。もちろん構いません」
「そちらの条件は」
「人前では仲睦まじい振りをしてくだされば」
「…………」

眉間に皺を寄せた後、「善処します」と答えた。不安である。気を取り直して口を開く。

「そろそろ宴もお開きのようでありますから、部屋の、方へ……」
「そう、ですね。部屋に……」

新居として充てがわれた部屋は、王宮内にある。紫獅塔と緑射塔の中間地点にシンドバッド王が用意してくださった。紫獅塔にはジャーファル殿の自室があり、緑射塔には与えられた私の部屋があり、また姫君の部屋もあった。どちらへも対処しやすいようにとの配慮なのだろう。私としてはジャーファル殿の部屋に転がり込んでも良かったのだが、難しいと断られた。それもそうであろう、紫獅塔は王と王に親しい者しか入ることが出来ないのだから。だからこそ転がり込みたかったのだが、残念である。

部屋に戻ると、ジャーファル殿は素早く寝室へと引っ込んだ。寝間着に着替えて出てきたジャーファル殿は「どうぞ」と寝室を指し示す。素直に寝室に行き、私も着替えた。煌帝国の衣服は基本的に重ね着だ。花婿衣装ともなると更に着込むことになる。花婿衣装から解放されると体が楽になった。

居間に戻ると、長椅子に腰を下ろし、落ち着き悪く視線を泳がせているジャーファル殿がいた。どこに座るべきか考えて、一応夫婦であるから……と隣に座った。ふたりの間には微妙な距離がある。机の上には酒瓶と杯がふたつ、それから果物が揃えられていた。手紙が添えてあり、「ふたりの時間を大切にするように」との言葉と共にシンドバッド王の名前が書き付けてある。

「……別々にして欲しいとあれほど言ったのに……」

ジャーファル殿が呟く。寝台のことであろう。寝室には、大人ふたりが悠に横たわれる大きな寝台が備えてあった。

「私はこの長椅子で構いませんから、あなたは寝台で寝てください。それでは、おやすみなさい」

そう言って、私を寝室へ追いやろうとする。

「ジャーファル殿、形式だけとはいえ夫婦は夫婦。それに、大切にすると誓ったばかりの女性を長椅子で眠らせては、シンドバッド王に合わせる顔が」
「では、あなたが長椅子」
「…………」
「あなたと、一緒に、眠るのは、絶対に、嫌、です。嫌」

可愛げのかけらもない。これが嫁だとはなんという不幸か。確かに私たちは利害の一致により、形式だけの夫婦となった。愛情も、恋慕もない。だから、ふたりきりの部屋で仲睦まじく振る舞う必要はない。だが、そんなことで良いのだろうか。綻びは可能な限りちいさくしたい。そのために人の目がなくとも、訓練の一環として、ふたりきりの時も仲睦まじくしていれば説得力も出ようというものではなかろうか。
ジャーファル殿から歩み寄る気配は一切ない。ならば、私が歩み寄らねばならないのだった。まったく手の掛かる話だ。

「わかりました。私は長椅子で構いません。……ですが、眠る前にお付き合いくださいませんか」
「お付き合い?」
「ええ、折角酒を用意してくださったのですから。飲まねば心遣いを無駄にしてしまいます」
「私は結構です。疲れましたし、早く休みたいんです」
「そうおっしゃらずに」
「……何を企んでる」

視線がきつくなる。私は、引きつりそうになる頬を無理矢理に笑顔の形にし、「企みなんてとんでもない!」と答えてみせた。眉間に皺が寄り、胡散臭い者を見る目つきへと変化した。

「いえ、私、強くないので」

それは好都合ではないか。ふたつの杯に酒を注ぎ、ひとつを差し出す。

「すこしぐらい良いではありませんか。……大体、飲まねばやってられないでしょう?」
「それは、そうですが……」
「嫌なことは酒で忘れ、快適な安眠です、ジャーファル殿!」

笑顔で言えば言うだけ、ジャーファル殿の顔には猜疑の色が濃くなった。どういうことだ。

「……何を考えているのか、素直に吐けば、飲んでやらないこともありません」
「そのような態度で、人前で仲睦まじい振りを出来るか不安になりましたので、多少は仲を深めておきたい、と思った次第であります」
「本当にそれだけですか」
「それ以外に何があると」

ジャーファル殿はしばらく疑り深い目で私の顔を見ていたが、やがて酒の入った杯を受け取り、一気に飲み干した。

「……これで満足ですか」
「では、もう一杯」

杯に酒を注ぐ。はあ、とため息を吐き出した後、それも飲み干した。強くないという割に強いではないか、と思っていると、「あなたは飲まないんですか」と問われた。

「では、私も」

そう言って酒を呷る。すると、空になった杯にすぐさま酒が注がれた。それも飲む。と、またすぐに追加される。

「ジャーファル殿も……」
「大丈夫ですー!ちゃんと飲みますから!でも、あなただって飲み足りないですよねっ!」
「…………」

酔っている。ちょっと目を離した隙に頬は真っ赤で、上機嫌ににこにこ笑っている。数分の間に一体何があったのか疑う程に酒が回っていた。

「ほらほら、手が止まっていますよ。どうぞー」

半分程になった杯の中に、酒が注がれた。溢れ出そうになった酒を慌てて飲む。溢れずに済んで安堵していたところに、また酒が注がれた。

「お、落ち着いてください、ジャーファル殿!」
「何がですか?……飲まないんですか、お酒。おいしいですよ、飲むでしょう?」
「わ、私ばかりが飲むのはもったいない。ジャーファル殿もどうぞ!」
「わかりましたー」

空になっていた杯に酒を注ぐと、またしても一気に飲んだ。……大丈夫なのだろうか。

「では、次は夏黄文殿の番ですね!ふふっ、ちまちま杯で飲むなんてまどろっこしい。どうぞ男らしく瓶で!瓶でどうぞ!」

何言ってるんだ、この女。戸惑っていると、酒瓶を掴み、こちらへじりじりと寄って来た。その目は酔いにより据わっている。どうやら酒を飲ませてはいけない質だったようだ。時既に遅し。

「……飲め」
「飲みます、から、落ち着いてください……」
「私は落ち着いています、ふふっ、飲め」

笑顔が怖い。怒った顔を怖い怖いと思っていたが、今の笑顔に比べればずっと可愛かった。

「私が飲ませてあげます!お任せください!」

酒瓶を口元へと無理矢理押し付けてくる。口の中に酒が満ちて、飲み込めなかった分が溢れて、寝間着を濡らした。

「もー、だらしない人ですね」

そう言いながら酒瓶を押し付けてくるジャーファル殿の手首を掴んで制するも、人に酒を飲ませようとする意思だか力だかが無駄に強く、負けそうになる。

「飲みますっ!あなたが飲めと言うのならば、気が済むまで!ですから、一旦酒瓶を置きましょう!ね?!」
「ええー……飲むんでしたら、置く必要なんてないじゃないですかあ……」
「置かないならば、飲みません!」

不服そうに唇を尖らせながら、酒瓶を机の上に置く。と、同時に「置いたから飲みますよね」とまた持ち上げようとした。酒瓶を手に取る前に手首を掴み、押さえつける。ジャーファル殿は、きょとんとした顔で私を見上げ、なんで?とでも言いたげに首を傾げた。そのどこか無防備な顔は、この状況でなければ心になんらかの変化をもたらしたかもしれない。だが、この状況では難しい。

「……寝ましょう。お疲れでしょう、ジャーファル殿。今晩はもう酒を止め、体を休めるためにゆっくり眠りましょう」
「嫌です。私、折角楽しい気分なのに、眠るだなんてもったいないです。もっと飲みたい」
「駄目です!」
「……けち」
「そういう問題ではありませんっ!大体、飲みたいと言いながら、私に飲酒を強要するばかりではありませんか!」
「飲みますもん。ちゃんと私も飲みます」

私の手を振りほどくと、酒瓶を持ち上げ、ごくごくと飲んだ。唇の端から酒が溢れて、胸元を濡らす。乱暴な酒の飲み方をするものだ、と慌てて取り上げた。今度は文句もなければ、抵抗もなかった。見れば、顔を真っ赤にして、ぼんやりとした目で宙を見つめながら、ゆらゆらと揺れている。瞬きが多い。どうやら眠くなってきたらしい。そのうち糸が切れたように、こてんと横になった。……私の膝に頭を乗せて、である。

思わずため息を吐き出した。酔っぱらいから解放された安堵と、想像もしていなかったジャーファル殿の一面を見てしまった疲れからのため息だ。持っていた酒瓶を置き、さてどうしようか、と思案に耽る。ジャーファル殿は酔い潰れてしまったようで、軽く揺すっても目覚める様子はなかった。寝間着は酒でびしゃびしゃに濡れて、肌に張りついている。ジャーファル殿も着替えさせた方が良いだろう。

起こさないように膝の上からそろりと頭を退かして立ち上がると、長椅子に横たわるジャーファル殿を抱き上げ、寝室へと移動した。抱き上げた体はやわらかく、頼りなかった。女の体だ、とそんな当たり前のことに動揺する。彼女を女性として意識したのはその時だ。それまでの私にとって、ジャーファル殿はただただ怖い存在だったのだ。人に唾を吐き捨て、蛇のような目で睨みつけ、ちくちくと毒に溢れた言葉を投げつける。だが、私の腕に抱き上げられ、おとなしく寝ている姿は保護欲をくすぐるか弱い女の姿だった。……これほどまでか弱いという言葉が似合わない女も中々いないとわかっていて、それでもその時は思ってしまった。

誤摩化すように咳払いをし、寝台に横たえる。ジャーファル殿は暢気に眠っている。よくよく考えれば、今宵は初夜だ。好き合って夫婦となった間柄ならば、初めての夜を緊張と期待と共に体温を分かち合っている筈である。私たちは形式だけの夫婦であり、性行為を必要としていない。していないのではあるが、形式だけとはいえ夫婦なのだ。何かの折に初夜について聞かれたらどう答えるべきだろうか。適当に返事をするにしろ、ある程度の情報は必要だ。そう、ジャーファル殿の体についての情報が。

そう言い聞かせて、そろそろとジャーファル殿に覆い被さる。着替えのついででもある。帯を解き、前を寛げた。白い肌が露になると、知らずごくりと咽が鳴る。鎖骨から下へと視線を移動させると、ささやかな膨らみがあった。実に小ぶりである。もうすこし大きい方が良いが、悪くはない。触り心地は……、と触れようとした時、寝返りを打った。起きたか?!と心臓が跳ねて、慌てて距離を取った。寝込みを襲ったと知れれば、恐ろしい目に合うに違いない。今日のところは乳房を確認するだけにして、さっさと着替えさせ、私も寝てしまおう。手早く着替えさせると、自分の着替えも済ませ、横に寝転んだ。疲れていたせいか、眠りに落ちるのは早かった。

翌朝、私を叩き起こしたのは「なんで隣に寝てるんですか!」というジャーファル殿の叫び声だった。朝から元気な嫁である。私はまだ眠い。


:夏ジャちゃん、結婚しました

  
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