01


「……大丈夫。すぐにシンが終わらせてくれる」

生暖かい液体が垂れ落ち、マスルールの頬を濡らした。岩肌に叩きつけられて痛むはずの背中に痛みはない。背中に感じるのはあたたかい二本の腕だった。抱き締められた腕の中、ジャーファルを見上げる。痛みのせいか、わずかに眉根が寄り汗が浮いていたが、唇の端は確かに持ち上がっていた。笑みを作る唇がもう一度「大丈夫」と囁く。ジャーファルの肩越しに見えるは、シンドバッドの後ろ姿。ジンの名を呼ぶ声が耳に届く。シンドバッドの姿形が変わり、激しい雷の音が響いたかと思えば、対峙していた魔物は跡形もなく消え失せた。ジャーファルの言葉通り、戦いはすぐに終わった。

それはマスルールが幼い頃の出来事だった。あの時マスルールを庇い、大きな怪我をしたジャーファルはしばらく寝込むことになった。魔物の爪で切り裂かれた皮膚は赤く爛れ、膿んだ。高い熱に魘され、四六時中目蓋を閉じたままで、時折目を覚ましてはすぐに気絶するように眠りに落ちた。それでも目を覚ました時には、寝台の傍らに佇んでいるマスルールに笑いかけ、「大丈夫だから」と繰り返した。五日目の朝にようやく熱が引いて、ジャーファルは起き上がることが出来た。起き上がって最初にしたことは、マスルールの心配だった。ちゃんと寝たか、ご飯は食べたか、怪我の手当てはしたのか、そんなことを問いかけて、マスルールが頷くと安堵したように笑った。

「心配掛けてごめんね」

起きるといつも傍にいるんだもの、と嬉しげなジャーファルの笑顔に、マスルールも安堵した。寝台の上に置かれていた細い手のひらを握り締める。白い皮膚には、岩肌で打ちつけたのか青痣があったが大分薄くなっていた。すぐに消える。だが、肩から背中に走った傷は、消えることなくジャーファルの体に残った。

その傷を目にする機会はないが、思い浮かべると苦々しい気持になった。あの出来事で、自分には力が足りないのだと知った。

シンドバッドに出会い、拾われ、マスルールは自由を得た。希望もなにもなかった日々から解放され、正反対の自由で明るい日々を過ごすうちに考えるようになった。自分が何をしたいのか。静かに自分の胸に問いかけると、浮かぶ答えがあった。シンドバッド、それからジャーファルの傍にずっといたい。そのために何をすべきなのか。ファナリスである自分は、普通の人間より力が強く、体格に恵まれている。大事なのはその力をどう使うかだ。もっと強くなりたい。強くなって、大事な人を守りたい。強くなれば、力になれる。自分自身を守れて、守りたい人を守れるようになる。それが、幼いマスルールが出した結論だった。

実際、そうすべく努めてきた。力を制御する術を身に付け、大きな体躯を生かせる戦闘方法を自分なりに考え、シンドバッドの力になった。それから、ジャーファルの力にも。

ジャーファルは自分が傷付くことに無頓着なところがあった。その無頓着さが守りたいという気持を強くしたのは確かだ。――この人を守りたい、それは与えられたものを返したいという気持から生まれた。だが、傍にいると、無頓着さや自分を二の次にするところ、そんな頼りない部分が気に掛かって仕方がなくなった。この人はシンさんのことばかりで、自分を大切にしない、だから俺がこの人を大切にしたい。そう考えるのはマスルールにとってごく自然な流れであり、その気持が恋心に変わるのに時間は掛からなかった。

はっきりと自覚したのは十五の頃だった。その夜、マスルールはシンドバッドに連れられて酒場にいた。もうお前も年頃だ、とシンドバッドは笑いながら、マスルールの膝の上に着飾った女を乗せた。乗せられた女は鈴のような声で笑い、体を寄せてきた。甘い匂いは、香か化粧か、それとも酒か。くらくらするような匂いに酔いそうになる。女の体はやわらかかった。甘い匂いと、やわらかい女の重みは、体の奥にある何かをくすぐった。

膝の上の女が笑って、マスルールの頬に唇を押しつける。可愛い子、そんなことを言って頭を撫でた。その仕草はジャーファルを思い起こさせた。ジャーファルは、いま、宿屋でひとり帰りを待っている。服を繕い、ぶつぶつと愚痴をこぼし、それでも寝ずにふたりを待っているのだろう。途端胸が苦しくなり、帰りたくなった。

シンドバッドを見遣れば、酔いのせいで顔が真っ赤だ。数人の女を侍らせ、ひとりひとりに甘ったるい言葉を囁いている。囁かれた女は蕩けそうな笑みを浮かべ、潤んだ目でシンドバッドを見つめている。

「……シンさん」

声を掛ければ「なんだ、眠いのか」と、問いかけてきた。眠くはなかったが、眠いと言った方が帰れると判断し、頷く。

「それは、仕方ないなあ」

また明日だ、とシンドバッドが女たちに微笑めば、残念がる声と、約束をねだる声が上がった。それらにひとつひとつ頷きながら、シンドバッドが立ち上がる。酔いのせいで足元が覚束ないシンドバッドをすぐに支える。お前は良い子だ、と機嫌の良い声で笑う。

シンドバッドを支え、宿屋まで帰り着くと、呆れた顔のジャーファルが出迎えた。小言を繰り返しながら、シンドバッドを受け取り、寝台へと放り投げる。寝台に放り投げられたシンドバッドはそのまま眠ってしまったようで、身動きひとつしなかった。

「お疲れさま」

シンドバッドからマスルールへと視線を移動させたジャーファルがちいさく笑い出す。

「ほっぺたに紅がついているよ」

酒場で女に唇を押しつけられた時に付いたのだろう。腕で拭い取ろうとしたところを止められた。

「ちょっと待ってて」

濡らした布を手に戻ってきたジャーファルが、頬を拭く。

「きみ可愛いからモテたでしょう」

にこにこと笑いながら、そんなことを言う。他の誰かならばからかいの言葉かと思うが、ジャーファルは本気だ。

「でも、悪い遊び覚えちゃだめだよ。……はい、取れた。何か飲むかい?」
「……水」
「冷やしたのがあるよ。はい、どうぞ」

水を注がれた杯を受け取り、一気に飲み干す。冷たい水が咽を通り、胃に落ちた。体の隅々まで染み渡るようだった。ジャーファルさんみたいだ、と思う。

「きみも寝なさい」
「ジャーファルさんは」
「私も、もう寝ます」

そう言いながらも片付けを始めるジャーファルを手伝おうとした時、足が縺れてよろめいてしまった。転びそうになるマスルールを、ジャーファルが慌てて支える。ジャーファルの手のひらはマスルールの胸元を押さえ、全身で支えるようにして寄り添っていた。

「大丈夫?もしかしてお酒飲んだの」
「…………」

酒はすこしだけ飲まされた。飲み慣れない酒のせいで足が縺れてしまったのだろう。だが、そんなことに思考を巡らせる余裕はなかった。マスルールを支える体は細い。けれど、しっかりとした感触を持ち、寄り添っている。胸元に置かれた手は白く、細い。腕の中にやわらかい女の体があった。ぶわっと全身が震え、心臓が高鳴り始める。酒場の女たちが脳裡に浮かんだ。着飾った、やわらかい肉体を持った女。彼女たちからは性的な匂いがした。その匂いが、体の奥にある何かをくすぐったのだと今更ながら理解する。そして、それが欲望であることも。

「マスルール?」
「大丈夫、です」

声を搾り出し、それだけを伝える。ジャーファルは心配そうな顔で、マスルールをじっと見上げていた。その顔に、普段と違う感情は見つけられない。

「手伝いなんていいから、もう寝なさい」
「……はい」

素直に頷き、自分の寝台に潜り込んだ。しばらく物音がしていたが、やがて静かになった。ジャーファルも寝台に入ったのだろう。寝台の上に踞りながら、マスルールはきつく目蓋を閉じる。さきほど覚えた感触をどうにかして振り払いたかった。

着飾ってもいなければ、甘い匂いもしないジャーファルに、どうしてあんなにも欲望を刺激されたのか。そのことに困惑し、戸惑っていた。ジャーファルのことは、守りたい対象であり、保護者のような存在だと思っている。けれど、それだけではないのだと気づいてしまった。酒場の女たちと同じく女であり、男を受け入れる肉体を持っている。肉欲の対象となり、また恋愛の対象となりうる存在である、と突きつけられたのだ。簡単な話だった。どうしてあれほどまでに欲望を刺激されたのか、それはジャーファルのことを好きだからだ。

その夜は上手く眠れず、ようやくのこと眠りに就けたかと思えば、ジャーファルと性交する夢を見た。服を裂き、白い乳房に噛みつき、奥深くに性器を穿ち、欲望のままに細い体を揺さぶった。夢の中、犯されるジャーファルは泣きながら、嫌だ、やめて、と訴えていた。それを聞き入れることなく、ひたすらに体を貪り、ジャーファルを傷つけた。目覚めは最悪で、翌朝はジャーファルの顔を見るのが怖くてたまらなかった。抱いた欲望を見透かされ、嫌悪に満ちた視線が向けられたら、そう考えるだけで呼吸が苦しくなる。

けれど、それはただの杞憂であり、マスルールに笑いかける顔はいつもと同じだ。安堵と共に浮かんだのは、この欲望は隠し通さなければならない、と思う気持だった。ジャーファルが傾けてくれる情を失うのは怖かった。


その決意通り、マスルールは良き後輩であり続け、それに応えるようにジャーファルの、マスルールへ向ける慈しみの感情も強くなった。望み通りふたりの関係は変わることなく、月日は過ぎていった。歯車が噛み合なくなったのはジャーファルが恋をしたからだった。


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