3これは不可抗力です


彼女の後ろに怪しげな男がそっと寄り添っていた。
今回は妄想じゃない。男は周りの気配を探りながら、目立たないようにこそこそしていたが、淀んだ雰囲気が漏れ出てる。妄想では幾度も痴漢の餌食になってあんなことやそんなことをされてしまう姿を思い浮かべて抜いたが、実際に痴漢に遭遇するかもしれないと思えば、落ち着きが悪くなった。嫌な気持がじわりと滲む。

電車が揺れるたびに、男の体がふらっと彼女の背中へと寄って、離れる。一旦離れはするが、じりじりとすこしずつ距離を縮めていた。人混みに紛れて見えないが、いまのところ触ってはいないようだ。目を細めて様子を窺う。彼女の体がぴくっと跳ねた。人混みの中を無理矢理進んで、見える位置へと移動する。男の手のひらがスカートの上から彼女のお尻を触っていた。

彼女は眉を顰めて、俺の時と同じように黙り込んで身を固めている。このまま放っておいても、彼女が降りる駅で痴漢は突き出される。突き出されてしまえ、と思う。土下座しても許されることなく捕まってしまえ、と。随分と勝手だが、そう思った。思いながら、人混みの中を進んで、彼女と痴漢の間に体を滑り込ませる。余計なことをしたかもしれないと考えながらも、痴漢を睨みつけると、慌てた様子で離れていった。近くにいた乗客が、何事かと、去っていく男に視線を送る。
彼女は、といえば、驚いたように目を見開き、それから視線を伏せた。

「……他の子にしなきゃいいけど」

ぽつり、と零された言葉にハッとする。そうだ。彼女に痴漢するのを失敗した男が、他の女の子に痴漢する可能性もあるのだ。彼女だけ助けて他の子は助けないのはどうなんだ、という気もして、男が去って行った方向へ顔を向けたが、姿はもうなく、どれが痴漢だったのか判別もつかない。

「なんて、さっきので注目されましたから、少なくとも今日はしないと思います」

くす、と空気が震えた。いま話しかけられたのは俺なんだろうか、と視線を戻すと、彼女はもういつもの知らん顔だった。そ、そうだね、とどもりながら答えるも反応はない。無視されているようなものなのに、何故か嬉しかった。さっきの言葉は俺に対してだろうし、なにより笑った気配があった。笑う顔は見れなかったけれど、それでも嬉しい。緩みそうになる唇を噛みしめ、表情を繕う。彼女は俺が近くにいても、離れる様子はなかった。込み合った電車の中で移動するのは大変だということもあるのだろうが、それも嬉しかった。

電車が大きく揺れ、俺の体が彼女の背中へと押しつけられる。苦しかったのか、彼女がちいさく息を飲む。手の甲がやわらかいものに触れた。お尻だ、と気づいて、青ざめる。今のは完全に不可抗力だが、以前痴漢してきた男がそんなことを言っても信じてもらえないだろう。言い訳を考えている間にも、人波にぐいぐい押されて、体が密着する。気力を振り絞り、両手を上げ、壁に付いた。俺の両手はここです!と示すために彼女の視界に入る位置に置く。わざとじゃなかったと信じてもらえると嬉しいけれど、難しいだろうか。なんかもう泣きたい。

「……ん」

彼女がやや無理矢理に体を反転させて、俺と向き合い、それから、素っ気ない口調で「わかってますから」と呟いた。なんかもう泣きそうだ。今度は嬉し涙で。ああ良かった。本当に良かった。突き出されないことよりも、彼女が俺のことをわかってくれたことが嬉しい。彼女はといえば、やっぱり俺のことなんか知らないという顔をしている。

彼女が体を反転させたことで、ほんのわずか空間ができていた。残念、と思い、すぐに振り払う。体が密着するとろくなことを考えない。両手を壁に付いたまま、ちらちらと彼女を見る。丸く黒い目は伏せられ、俺の胸ポケットの辺りを見ていた。低い鼻がちっちゃくて可愛い。肌は白くて、頬にそばかすが浮いている。唇もちっちゃい。身長は低い方ではないのに、何故だか全体的にちんまりとしていて、小動物みたいな可愛さがある。なにより俺の心をくすぐるのは、白銀の髪だ。これまた丸くて形良い頭と、銀色の髪。つむじもなんだか可愛い。それがすぐ目の下にあった。触りたいという欲が湧き出して慌てて揉み消す。電車の揺れに合わせて、髪がさらさらと揺れた。触りたい。撫で撫でしたい。手を突っ込んで、梳きたい。揺れがわずかに収まる。

一息ついて、ふと気づく。痴漢しませんという意志を伝えるために壁に両手を付いたはいいが、俺の目の前には彼女がいる訳で、つまりは腕で彼女を閉じこめているのではないか。気づくと、ぶわっと体温が上がった。心臓がバクバクし始める。だからといって、腕を下ろせば、先ほどのように彼女の体に触れてしまう可能性もある。今度こそどんな言い訳をしても信じてもらえないだろう。どうすればいいのか焦っていると、がたん、と電車が大きく揺れた。踏ん張る間もなく、またしても彼女と密着する。

「……っわ」

胸元でちいさく声が上がった。肩の辺りに彼女の顔があって、くっついている。くっついているのは顔だけではない。胴体に何か、やわらかいふたつの膨らみもくっついていた。ああこれ胸だ。おっぱいだ。それから、顎の辺りにさらっとしたものが触れた。触りたいと願っていた髪だと気づく。苦しげに吐き出す息が、肩に触れる。思考が固まる。やばいやばいやばい。必死で別なことを考えようと思考を巡らせる。やわらかい体の感触ではなく、さらさらした髪でもなく、もっと別なこと。突き出された時のことを考えろ。怖い目で睨まれた時のことを考えろ。そこまで考えたところで、昨晩の妄想が、きつく睨みつけてくる彼女の下着を剥ぎ取り、そのままの状態で一緒に電車に乗る、だったことを思い出した。なんで思い出したんだ。馬鹿か。俺は馬鹿なのか。もちろん、駅に着いた後に、男子トイレに連れ込み、最低です、軽蔑します、と気丈に振る舞う彼女を犯した。きつく睨みつける視線は変わらないのに、眦が赤く染まり、今にも涙が零れそう、という詳しい妄想まで再現される。貫き、中へ精子を注ぎ込めば、震えながら泣き出した。泣き顔が可愛くて二回、三回と犯し続けたのも思い出す。

それでも俺は頑張った。ここで勃起してみろ。確実に彼女に伝わり、今度こそ言い逃れできない。土下座しても許してはもらえない。脳みそがフル回転する。必死に別のことを考え、半勃ち状態になっていた性器を落ち着かせることに成功した。こんなにも必死に頑張ったのはいつ以来だろう。安堵の息ひとつ吐き出したところで、彼女も息を吐き出した。息苦しかったのだろう、顔を持ち上げ、俺の肩辺りに顎を突き出す。解放された緩みから、「……ぷはっ」と息を吐き出して。

俺の髪が、彼女の吐息で揺れた。俺は言いたかった。全力で言いたかった。君は馬鹿か、と。折角我慢したのに!これもう俺のせいじゃないもん!そう言いたかった。言いたかったけれど、勃起してしまった以上、俺の負けだ。むくむくと起きあがってしまった俺の物は、彼女の下腹部、おへそよりやや下の辺りに押しつけられている。ああもうなんでそんなやわらかいんだよ!だって女の子だもんね!これで俺の人生が終わったことを考えると、このままスリスリして、射精しちゃおっかなーという気になる。しないけど。すごくしたいけれど。電車が揺れるたびに性器がくいくいと彼女のやわらかい体に押しつけられて、先端を刺激する。せめてもと腰を引くと、俺の尻が邪魔だったのか、後ろの乗客に苛立たしげに突き戻された。

「……ッ!」

ぐいっ、と押しつける形になって冷や汗が吹き出す。わざとじゃない。本当にわざとじゃない。大体、ぷはっ、てなんだ。ぷはっ、て。そんな可愛い息の吐き出し方してただで済むと思っているのか、君は。そう訴えたい気持でいっぱいになった。同時に、ごめんなさいごめんなさい。許してもらえるのならば、この人目の多さも気にせずに土下座します、と許しを乞う気持も溢れ出る。

彼女の腕が抵抗を示すように、俺の胸を押す。とりあえずやわらかい胸の膨らみからは逃れられた。胸を押す白い手は細くて、強く力を込めたら折れてしまいそうだ。この手を掴んで、壁に押しつけてみたい。……じゃなくて。勃起した性器を落ち着かせたいのに、頭を巡るのは妄想ばかりだ。俺は反省する。妄想しすぎた罰がこんな形で与えられようとは。今の俺は、彼女の白くて細い首に顔を埋めることもできたし、壁に付く手を動かせば慎ましい胸を撫で回すこともできる。更にいうならば、スカートを捲り上げ、勃ち上がった性器を下着の上から擦り付けることもできた。壁に追い詰められて、身動きの取れない状況でそんな目に合う彼女の姿を思えば、余計に硬く張りつめてゆく。射精したい。できることならば彼女の中で射精したい。無理だけど。そんなことは無理なんだけど。短く息を吐き出し続けて、なんとか耐える。と、密着していた腰の辺りに何か差し込まれた。どうやら彼女の鞄のようだ。やわらかい肉体の感触が、固くて冷たい物体に変わる。固さと冷たさにちょっと萎えた。ありがたい。その上、金具の部分に擦れて痛い。勃ち上がってはいるが、射精への欲は確実に薄れた。

そろそろ彼女が降りる駅だった。心から安堵したが、問題は全然解決していない。腕を掴まれて、また突き出されるのかなあ。今度はもう許してはくれないよなあ。覚悟を決めて、諦めの境地で審判の時を待つ。電車が止まる。扉が開く。彼女が身を捩り、俺の胸から抜け出す。彼女の手は、俺の腕を掴まない。

降りようと先を進む彼女の腕を咄嗟に掴む。振り返った彼女は目を見開いて、それから眉を顰めて怪訝そうに俺を見る。何か用でも?と言いたげに。

「……さっきの、あれが、だから」

何を言いたいのか自分でもわからない。さっきの俺は痴漢ではないのか、突き出さないのか、そう聞きたかったんだと思う。彼女は素っ気なく呟く。

「わざとかそうじゃないかぐらいわかります」

降りそびれるのを心配しているのか、彼女は扉の方を見て、そっと俺の手を振りほどいた。手が宙に浮く。胸の中がいろんな感情でいっぱいになって、どうしようもない。最初に言いたいのは、君は天使か、だった。勃起した性器を擦り付けられても、わざとじゃないから許してくれるなんて、君は天使か。しかも、以前痴漢してきた男だ。その男が勃起した性器を擦り付けてきたら、絶対にわざとだと思う。それなのに、彼女はちゃんとわかってくれたのだ。よし、結婚しよう。十歳ほど離れているとか、そんなのは関係ない。幸いにも趣味もなく、人付き合いの範囲も広い方じゃないので、貯金はそこそこある。だから、結婚しよう。もちろん思っただけで口には出さなかった。代わりに、

「名前、を」

と、口に出していた。彼女は振り返ることなく、駅のホームに降り立つ。そりゃ無視するよな、とがっくりした俺の耳に言葉が飛び込んできた。

「やです」

そう言った彼女は、べ、と軽く舌を出してさっさと改札口へと向かっていく。電車の扉が閉まる。俺はその場に膝をつく。周りの乗客の、大丈夫ですか?と体調を気遣ってくれる言葉に、大丈夫ですと返し、ふらふらと立ち上がり、壁に寄りかかった。なんか心臓の辺りにぶっといのが突き刺さった。胸に刺さるのは矢だと聞いていたのに、これ、槍だよね?槍が刺さったよね?誰にともなく問いかける。答えはもちろんない。さっきのやり取りを何度も思い出し、俺は決意する。

よし、恋人を作ろう。十歳近く離れている女の子にどきどきして、ひどい妄想をするのは、欲求不満だからだ。恋人さえできれば、ひどい妄想はしなくなるし、振り回されもしないだろう。痴漢だってしない。電車の中で勃起もしない。だから恋人を作ろう。白銀の髪した、地味だけど可愛い子。見た目とは裏腹に気が強くて、でもちゃんと俺のことを見てくれる、そんな可愛い子。怒るとすごく怖くて、それでも心から謝れば許してくれる子。そんな可愛い女の子を恋人にすれば、俺の欲求不満は解消される。問題といえば、そんな子が彼女以外にいるのかどうか、だった。


:それでも、妄想はする。

  
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