しろいはな(学パロ)


試験が終わったのはつい先日だ。返された答案用紙の、名前欄の横にくっきりと赤ペンで刻まれた数字を思い返し、マスルールは目を細める。ため息を吐き出したい心境ではあったが、表情はさして変わらない。元より出来の良い方ではないが、今回は特にひどかった。赤点でないだけマシという有様だ。前回、今回と着実に下がっていく点数を押し止める方法はひとつ、勉強をすることだ。表情が変わらないので、外見上は判別できないが、マスルールはいま落ち込んでいる。

マスルールは体を動かすのは好きだが、勉強は苦手だった。教師の言葉は耳をすり抜けて、頭の中には入ってこないし、びっちりと文字が詰まった教科書を眺めていると眠くなる。肝心の試験はといえば、わかる設問を埋めるだけ埋めて、あとは諦める。眠る。それで赤点を取らないのは感嘆してもいいだろう。実際、飲み込みは悪くないのだ。しかし、やる気がない。今年入学したというのに、幾度か教師に呼び出され、せめて寝るな、と注意を促されていた。

それらは大した問題ではない。大した問題ではあるのだが、マスルールにとってはどうでもいいことだった。赤点を取ったとしても同じだ。点数も、教師に呼び出されることもどうでもいいのだ。ただ点数が悪いことで起こるかもしれない出来事を避けたい。

両親は、マスルールの体が丈夫で健康であり、家の手伝いをし、無事に卒業出来ればそれでいいと思っているらしく、もう少し成績が上がるといい、と言うものの、勉強をしろとは一切言わない。口うるさく言わない両親の存在を有り難いと思いながらも、赤点だけは避けたい理由があった。

マスルールには十四になる従姉妹がいる。幼い頃から付き合いがあり、顔や雰囲気が似ているため、兄妹と間違われることがよくあった。兄妹と間違われる度に、兄妹ではありません、と生真面目に返す従姉妹の言葉を遮り、そうです、と答える。驚いたようにマスルールの顔を見、それから訂正しようと口を開く前に、「妹です」と言い切れば、大概の人間は納得し、疑わない。そうやって年下の従姉妹をからかうのは数少ないマスルールの楽しみなのだった。

従姉妹は真面目な性格も手伝って、それなりに成績が良い。マスルールと同じように体を動かす方が好きなのだが、違う点はそこだった。

いつもからかってくる年上の従兄弟が、成績が悪いと、端的にいえば馬鹿だと知ったらどうだろう。つまりは、年上としての威厳を保つために勉強をしようと思い至ったのだ。

行き慣れていない図書室の扉を開け、日当りの良い席に着き、教科書とノートを広げ、シャープペンシルを握り締めたはいいが、それから先が進まない。がりがりと頭を掻き、教科書に向き合うが内容が上滑りして、頭に入ってこない。時間だけが無闇に過ぎてゆく。

数十分そうしていた後、図書室を見回す。意味のない行動だ。立ち上がり、勉強に役立つ本はないかと、本棚を見るが、なにが役立つのかすらわからない。そんな時だ。目の端に銀色の髪が見えた。キラキラと光るその色に釣られて視線が動く。

本棚をひとつ挟んだ通路に、ひとりの女生徒が背を向けて立っていた。手を伸ばし、上の方にある本を取ろうとしている。

この学園の図書室は充実している。限りあるスペースに膨大な本を納めるため、やたら高い本棚を設置してあり、一番上の本を手に取るには脚立が必要なほどだ。きょろきょろと周りを見渡しているが、近くに脚立はなく、再度つま先立ちをし、思いきり手を伸ばしている。それでも手が届かないようで、ぴょんぴょんと軽く跳ねていた。

「……」

無言のまま歩み寄り、女生徒の後ろに立つと、手を伸ばす。

「これっすか」

えんじ色の背表紙に指を掛けて問えば、それです、と静かな声が答えた。落ち着きのある心地良い声だった。本を引き抜き、差し出す。

「ありがとう」

白く細い指が本を受け取り、嬉しそうな笑顔とぶつかった。身長はマスルールの胸の辺りだ。上履きの色から三年生であると知れた。清潔な白いシャツ、紺色のスカートは膝丈で、黒いハイソックスを穿いている。顔の辺りを見ていられなくて、襟元を見つめながら、マスルールは何か言わなければと必死に考えていた。理由はわからない。けれど、何か言わなければ、繋がりはあっという間に消えてしまう。だが、言葉が浮かばない。不器用な自分を呪いながら、マスルールは焦っていた。表情に、変わりはない。心臓が早鐘を打ち、初めての感覚に戸惑う。

「大きいねえ」

しみじみと感心したように、女生徒が言った。声に弾かれ、視線を上げる。真っ向から視線がぶつかり、慌てて逸らそうとしたが、どうしてかできなかった。

「……怖いっすか」

怖い、という言葉が出てきたのには理由がある。二メートル近い身長のマスルールは怖がられることが多かった。体の作りが大きく、無表情で、かつ無口なマスルールは取っ付きにくく、見た目だけで敬遠される経験は一度や二度ではない。特に女子から怯えた態度を取られることは多い。だから、思わず問いかけていた。

女生徒はきょとんと目を見開き、それから首を振るった。

「怖くないよ。どちらかといえば、大きくてかっこいいなあって」

思いました、と目を細めて微笑む。マスルールはぎゅっと目を閉じ、開き、また閉じた。目がおかしくなったのかと目蓋を擦り、もう一度見つめる。目がおかしくなっていなければ、頭がおかしくなったのだと思った。

「どうしたの?」

不思議そうに首を傾げる女生徒の問いに、咽を押し開く。

「……花、が」
「はな?」

花だ。花が浮いている。女生徒の横の辺りに手を伸ばし、宙を掴む。握り締めた手のひらを目の前で開いてみても、何もない。けれど、幾度見ても、女生徒の周りに花が浮いている。白くてちいさな花が、ふわふわと女生徒を飾るようにして浮いている。

「虫でも飛んでたの」
「……いえ」

あなたの周りに花が浮いています、と言おうものなら頭がおかしい男と思われるに違いない。口を噤み、首を振るう。ふぅん、とそれ以上は追求せず、女生徒が言葉を紡ぐ。

「きみは本を探しに来たんですか。それとも、勉強?」

本を探しているなら大体の場所はわかるよ、という女生徒に、「勉強」とだけ答える。

「試験終わったばかりなのに、真面目なんだね。それとも、ひどい点数だったのかな」
「……どうして」

わかったのか問いかければ、ふふっ、と肩を揺らして笑った。

「だって、図書室できみを見るの初めてだから。きみみたいに大きな子、いたらすぐに覚えちゃうだろうし。試験の後に、滅多に来ない子が勉強しに図書室に来るならひどい点数だったのかなあって」
「…………」

否定する余地はなかった。

「それで、勉強は進んでいますか」

取り繕っても無駄だろうと、首を振る。しばらく考えた後、じゃあ、と口を開いた。

「勉強、教えてあげようか?」

覗き込むように見上げ、答えを待っている。待っているのはわかるが、何を提示されたのか理解できず、無言で女生徒の顔を見つめた。丸っこい黒目がちな瞳がじっと見つめ返している。吸い込まれそうだ。花は変わらず女生徒の周りに浮かんでいる。そればかりではない。女生徒自身がやわらかい光を纏っているように見えた。これは一体なんなんだろう。

「本を、取ってくれたお礼。いやなら、諦めるけど」
「いえ」
「ずっと黙ってるからいやなのかと思いました」

にこにこと笑い、マスルールが坐っていた席を指差す。

「あそこで勉強してたの」
「はい」
「今日から教えた方がいいですか」
「……いえ、今日は」
「じゃあ、明日から」
「……はい」

頷いた後に、会話を思い返し、何を約束したのか確かめる。勉強を教えてくれるという。明日から、ずっと。体が浮き上がった気がして足下を見るが、足はしっかりと図書室の床にくっつき、体を支えている。背に羽根が生えたかと思えるほど、体が軽いのに、見回しても変化はない。そのことを不思議に思った。

「名前」

我に返り、視線を向ける。

「名前、教えてくれますか」
「……マスルール」

名前を口に出すと、確かめるように、マスルール、と繰り返した。その響きに、今度は心臓が痛くなる。心臓を鷲掴みにされ、目一杯握りつぶされているようだ。病院に行った方がいいのかもしれない。

「私は、ジャーファルです。これから、よろしくお願いしますね」

本を片手に抱え直し、空いた手を差し出す。握手を求めているのはわかっているが、はたして本当に握り締めていいのかわからず躊躇っていると、えいっ、とマスルールの手のひらを掴み、軽く上下に揺らした。折れてしまいそうな指がしっかりと手のひらを握り締めている。頭の中が酸欠になり、思考が固まった。

「じゃあ、また明日」

ジャーファルはあっさりと手を離すと、本の貸し出しを済ませるためだろう、カウンターに向かった。その場に取り残されたマスルールは座り込みたくなるのを堪え、ようやくのこと席に戻る。椅子に腰掛けると、全身の力が抜けた。心臓がどくどくと滾った血を全身に巡らせ、呼吸さえままならないほど息苦しい。手のひらを見つめる。いつもとなにも変わらないというのに、白い指の感触が色濃く残っていた。細い指と、人好きのする控えめな笑顔、耳に心地良い声、丸っこい目、ちいさな鼻、頬に散らばったそばかす、名を呼んだ唇、ひとつひとつの部品を何度も何度も思い浮かべる。いや、思い浮かべるという努力は必要なかった。目蓋の裏にくっきりと刻まれて、消し去ることができない。

ジャーファルが、知らぬ間になにか魔法をかけたとしか思えなかった。それ以外にどんな理由があるというのだろう。きっとそうに違いない。ジャーファルは魔法使いであり、あの周りに浮かんでいた花も魔術の類いに違いない。滑稽な考えであると承知しているのに、どうしてもそうとしか思えず、そうしてそれは、マスルールが恋という単語を知るまで続いた。


:初恋マスルールくん

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