※シン様が過保護
「俺ね、先輩のこと好きなんですよォ」
にっこにこと笑いそう伝えれば、首を傾げて「そうなの?」と言葉を返した。
ここは学校の図書室で、放課後、ジャーファルさんは大体ここにいる。試験期間中で部活が休みなのをいいことに真っすぐ図書室へ向かった。勉強しろという話になるが、勉強など知ったことではない。ある一定の成績さえ保っていればいいのだ。悪くなったらなったで、勉強を教えてもらう良い口実が出来る。
「きみは誰にでもそう言ってる、って聞いたけど」
本棚に納められた本の背表紙を指先でなぞりながら、ジャーファルさんが呟く。誰がそんなひどいこと言ったんですか、と聞けば、返ってきたのは予想通りの答えだった。
「シン」
白くて細い指先を本の背表紙に置いたまま、視線だけ俺に向ける。口角がゆるやかに持ち上がって、黒目がちな瞳にからかうような色が浮かんでいる。くすぐったくなって、その感覚を誤摩化すように、
「シン先輩と俺、どっちを信じるんですかー」
なんて言ってみる。ジャーファルさんは、本へ視線を戻しながら、ちいさく咽を唸らせた。
「そうだねぇ。シン、かな」
「先輩、ひどい」
「どっちの先輩?」
「シン先輩も、ジャーファル先輩も、です。俺、こう見えて純情なんですから、そう簡単に好きだなんて言いませんよ」
本当のことだけれど、まず信じてもらえない。髪を黒く染め、制服をきちんと着て、見た目を変えれば信じてもらえる確率は高くなるだろうが、いまのところ変えようとは思わない。言葉だって信じてもらえなくていい。そりゃいつかは好きだって気持を受け止めて欲しいけれど、いまはいい。いまはただ一緒に話していて楽しいと思ってもらえればそれだけで十分だ。
「うん、分かってるよ」
「…………」
駄目だ、頬が緩む。
「じゃあ、俺の気持も?」
声が上擦りそうになる。どきどきする心臓を押さえながら、ジャーファルさんの顔を覗き込む。変わらない笑顔がそこにあって、覗き込まれたことでわずかに目を見開いたがそれだけだった。唇が開く。
「うん。後輩に慕われて嬉しいなぁって」
「……」
うん、違う。俺の好きだという気持は、後輩としての好きに変換されてしまったようだ。
「そうじゃなくて」
と、言った後、固まる。どう言葉を続ければいいのだろう。後輩としてじゃなくて、ひとりの男として。頬がじわじわと熱くなっていく。本当に先輩のことが好きなんです。言葉が咽で引っかかって、しゃべれない。
「どうしたの?」
「いえ、なんでも、ないです」
がっくりと項垂れ、自分の不甲斐なさに愕然とする。そういえばそうだった。交際経験は多いが、そのいずれも向こうから告白され、そのまま付き合うという形だった。自分から好きになった子には、告白なんて出来なくて、そうしている間に他の誰かとくっついた。
「顔、赤い。熱でもあるの」
「……少し」
過去の傷を思い出している場合ではない。今度こそきちんと自分から告白して、好きになってもらって、恋人になりたい。呼吸を整え、ジャーファルさんを見つめる。
「ほんとだ。少し熱っぽい」
白い手のひらが額に押し当てられた。俺の手よりちっちゃくてやわらかい手のひらが額に触れている。体温が低いのか、ひんやりとして心地良かった。息が詰まる。こんなの不意打ちだ。
「はやく帰って休んだ方がいいよ」
手のひらの感触に雑音が消える。目の前のこの人しか目に入らなくなる。額から手のひらの感触が消えて、淋しい気持で胸がいっぱいになった。どこでもいいから触れたい。触れて欲しい。皮膚と皮膚をくっつけたい。やわらかそうな唇に目が止まる。淡く色づいた桃色の唇。その唇がゆっくりと開いた。ちらりと白い歯が覗いて、赤い舌が見えた。指を突っ込んでみたい。
「あのね」
「……はい」
「きみ、顔が近いよ」
体を引き気味にして、ジャーファルさんが言う。そうですか?と首を傾げながら、一歩、近づいた。本棚に隠されて、唇をくっつけても誰にも見られないだろう。
「あとね」
押し止めるように胸元に置かれた手のひらを握り締めて、更に一歩。
「後ろにシンがいる」
「……ッ!」
一瞬にして現実に引き戻された。慌てて手を離し、振り返る。いた。じっとこちらを見据えるようにして背後に立っていた。超怖ェ。
「す、すみませんっ!いやでもまだなんにも、なんにもしてませんからッ」
「シャルルカン」
「はいッ」
「静かにしないと追い出されるぞ」
「……はい」
責める言葉がないのが逆に怖い。怒るなら怒って欲しいし、許してくれるなら笑って欲しい。怒ることも笑うこともなく、無表情なのが異様に怖い。出来ることならいますぐにこの場で土下座したいくらいだ。背筋をまっすぐ伸ばして向き合う俺に何を言うでもなく、背後のジャーファルさんに「帰るぞ」と声を掛けて背を向ける。背中から怒りのオーラが立ち上って見えるのは気のせいだと思いたい。ジャーファルさんは、といえば、
「じゃあ、またね」
と、何事もなかったかのようにひらひらと手のひらを振り、シン先輩の後に付いて行く。ジャーファルさんはもっと何か意識するべきです。そう思ってはみても、口には出せない。図書室から出てゆくふたりの後ろ姿を見つめながら、肩を落とす。ため息だって吐き出す。
ジャーファルさんは俺のことを嫌いではないと思う。好きか、嫌いかで言えば絶対に好きだ。ただし、可愛い後輩としての好きであり、異性としての好きではない。一度、先輩と付き合ったら楽しそう!と冗談混じり、しかし目だけは真剣に言ったのだが、見事にスルーされた。確か、気のせいだよ、とにべも無いひとことだった。照れも恥じらいもなんにもなかった。真顔だった。普通に返された。幾らなんでも、気のせいだよ、はない。付き合ってみる?と冗談で返すなり、年上をからかうんじゃないと呆れるなりしてくれれば、言葉の返しようもあったのに、気のせいだよ、と言われては何を言えばいいのか分からない。気のせいじゃなくて、と言ってはみたが、ふぅん、と鼻を鳴らしただけだった。
以前、シン先輩とジャーファルさんについて話したことがある。俺がジャーファルさんをシン先輩の幼馴染みとしてしか見ていなかった頃だ。ジャーファルには恋愛経験がほとんどない、とシン先輩は言った。誰かに淡い恋心を抱く程度のことはあったかもしれないが、誰かと付き合うだとか、誰かから告白されるだとかは一切ない、と。真面目なんですねェ、と感想を漏らせば、違うと否定された。
「あいつの頭の中には、誰かと付き合うだとか、誰かが自分を好いているだとか、そういう思考がない」
なにより男が自分を好きになる訳がないと思い込んでいるんだ!あんなに可愛いのに!と握り拳で悶えていたことを思い出す。シン先輩はちょっと幼馴染みに対して過保護であると思うんだけど、いろいろな事情もあるのだろう。
ジャーファルさんは一目惚れをされるタイプではない。見た目で女の子をあれこれ言うのはどうかと思うけど、どちらかといえば地味で、目立つ容姿はしていない。胸は普通だし、特別スタイルがいいという訳でもない。けれど、物腰のやわらかさや、話し方、意外と気が強いところ、控えめな笑顔、それらに触れてしまえば心を奪われることなんて簡単に有り得る。気付くきっかけは本当に些細なことだ。例えば、ひとつ下の後輩をからかうことを咎めた後に、まったくもう、とちいさく笑った顔が妙に可愛かった、とその程度で、そこからは仕草だとか表情だとか物言いだとかの中に潜む可愛らしさの鱗片のようなものが目に付くようになる。目が離せなくなる。一緒にいると浮かれた気持になる。幼馴染みの先輩とやたら仲が良いのが気になってくる。そうして、好きだと気付く。
もっとも俺の場合は「お前、ジャーファルのことが好きだろう」と指摘されて自覚した。反論の余地も与えないくらい強く言い切られて、面食らった。もし、俺の前にも同じような指摘をしていたのなら、ジャーファルさんに恋愛経験がないのはこの人のせいだと思った。実際そうだった。最近になって知ったのだけれど、シン先輩は黙っている時の威圧感が半端ない。並大抵の男はあれで逃げ出すだろう。そもそも常に一緒にいるのが、なんでも出来て人望もあって、その上強くて男前な幼馴染みだなんて誰もが最初から諦める。シン先輩との付き合いがあれば、この人ならジャーファルさんを幸せにしてくれるだろう、と思わず身を引いてしまいたくもなる。
シン先輩がジャーファルさんのことをどう思っているのかは知らない。大事な幼馴染みであることは間違いないけれど、異性として大切に思っているのかは掴みかねた。俺は自分にとって都合良く、シン先輩は幼馴染みとして大事なジャーファルさんに悪い虫がくっつかないように見守っている、と解釈している。きっとそう。絶対そう。威嚇は怖いけれど、あれも俺がジャーファルさんに相応しい男かどうかを確かめる試練なのだ。こんなことぐらいで諦めるような男が幸せに出来る筈がないという、そういう心で威嚇しているに違いない。まるでお父さんみたいだ。よし、今度シン先輩のことを「お父さん」と呼んでみよう。
:フルボッコにはされないまでも、ピキッとなる
←|