前編


※軽くモブジャ要素含みます


廊下に出て、閉めた扉に背を預けると、苦行から解放された安堵感から自然息が落ちた。
あの男の手を握り締めた、自分の手のひらを見つめる。じっとりと汗ばんだ感触がすぐさま思い出され、顔を歪めた。気持悪くてたまらなかった。隙間なく体をくっつけるのも、鼻息が髪を揺らすのも嫌で嫌で仕方なかった。それでも表情は変えず、気を持たせる言葉を吐き出した。

男の目には警戒が窺え、体は緊張で強張っていた。その癖、目は妙に熱っぽく潤み、私を見つめる。目の中には、混じり乱れた様々な感情が渦巻き、そのせいか言葉はたどたどしく、怯えに似た震えを感じ取ることが出来た。なんらかの目論みがあると疑っているに違いなかった。同時に、本気である可能性も脳裡を掠めているようだった。そんな男の様子は、私の溜飲をすこしだけ下げた。

迷え、と、そう思った。迷い、悩み、苦悩しろ。そのためならば、媚びを売ることなど造作もない。それでもシンが味わった苦痛には到底及ばない。

深く息を吐き出し、男の姿を振り払う。今はもう近くにいないのだ。わざわざ思い出す必要はない。だが、振り払っても服や皮膚にあの男の匂いが染みついているようで、苛立ちのまま舌を打つ。部屋に戻ったら、すぐさま身を清め、着替えをしたい。ところが部屋に戻ると、寝台でシンが寛いでいた。身を清め、さっさと眠って忘れたいと願う私の希望は容易には叶えられそうにない。

「よお」

部屋に入ってきた私を見つけると、シンは持ち込んだ酒を飲みながら、呑気に手を上げた。

「なんで人の部屋で酒飲んでんですか。……酒癖でひどい目に合ったこと、もう忘れたのですか?」

歩み寄り、杯を取り上げると、拗ねたように唇を尖らせた。いいじゃないか、ジャーファルのケチ、と呟き、手の中の杯を取り戻そうと手を伸ばす。シンの手から逃げるように距離を取ると、わざとらしく頬を膨らませた。時折シンは子供っぽいそぶりで私を困らせる。

「お前たちが俺を信じていてくれさえすれば、あんな騒動にはならなかった」
「……あなたの酒癖が悪くなければ、皆、王を信じていましたとも」
「どうだかなあ。それに、酒を飲まない俺は物足りないぞお」
「酒を飲まないあなたで十分手一杯なんですけどね」
「何を言う。お前は忙しい方が好きだろう?仕事を増やしてやってるんじゃないか」
「そんな仕事いりません!」

酒瓶も取り上げ、寝台に寝そべるシンから離れた棚の上に置いた。手を伸ばしても到底届かない。酒好きの王にも困ったもの、と肩を落とすと、背後に気配を感じた。視線だけ振り返る。

「行っておきますが、もう飲ませませんからね」
「酒じゃない」

言うが早いか、私の腰に腕を回し、力強く引き寄せた。酒の匂いと、甘ったるい匂いが体中を包む込む。体がぴたりと隙間なく密着すると、呼吸が苦しくなった。心臓が早鐘を打ち始める。それは止めようと思っても、自分の意思ではどうしようもないことだった。シンは私の肩に顔を埋めながら、楽しそうに頬擦りをしたり、匂いを嗅いだりしている。

あたたかくて大きな手のひらは私の腰をゆっくりと撫で擦っている。その動きには確かに欲があった。それでも、シンは私を撫でるばかりで、決して腰帯を解こうとはしない。私はそのことに安堵と、改めてこの人の傍にいられて嬉しい、そう思う。

私はあの男に言った。シンはいつも美しい人ばかりを選んだ、と。それは確かに真実だった。シンが選ぶ相手はいつも美しく、男の欲をそそる体つきをしていた。けれど、それは一夜限りのこと。シンが、ずっと共に歩くことを選んだのは、私だ。そのことを思うと、胸が震え、これ以上の幸福はないと思えた。

シンがいつそれを決めたのか、私は知らない。問いかけてみたいと思う気持はあったが、金色の瞳を前にすると、どうでもいいこととすぐさま頭の片隅に追いやられた。私がそれをいつ自覚したのかすら、わからないくらいに、私たちは共に在ることが当たり前になっている。

幼い私にはわからなかった。だから、証しが欲しくて欲しくて、泣きながらシンに縋りついた。どうか特別にして欲しい、全てをあなたのものにして欲しい、ぐずぐずと泣きながら必死に頼んだのに、返ってきたのはにべも無い拒否だった。やはり私ではだめなのだ。美しくもなく、こんな貧相な子供の体。あの時、生まれて初めて自分の容姿を呪った。

絶望でただ涙を零すしかなかった私を抱き寄せたシンは優しく言い聞かせた。

「お前が嫌だから、言うんじゃない」

頭を撫でる手はとても優しい。

「お前が幼いから言うんだ。……お前はまだ子供だ。体だけの話ではない。心が幼い。だから駄目だ。いくらお前の懇願だろうとも聞き入れることはできない」

私を思い遣っての拒否だった。その時の言葉を思い出すと、いつでも胸にあたたかさが満ちた。シンは時々、あの時お前の願い通りそうしていればよかった、と言う。けれど、時間を巻き戻せても、やはりシンは何もせず、私が成長するのを待っていたろう。

「ジャーファル」

名を呼ぶ声と頬への口づけで、思考が過去から現在へと戻る。

「……どうして私の部屋で?」
「きちんと帰ってくるか心配でな」
「子供じゃあるまいし」
「子供じゃないから、悩みの種が増えることもある」

肩口に顔を埋めたまま、シンは窺うような視線を向けた。安心させるように笑顔を向ける。腰を撫でる手のひらに手を重ね合わせた。

「この体はいまだ男を知らぬまま」
「……そうか」

表情を緩めたシンは更に強く私を抱き締める。

私が女であることを武器にし出したのは、まだ十代の頃だった。どこかの国の外交官が、一体どんな気まぐれか、私を異様に気に入ったのだった。猫撫で声で私を誉め、ことあるごとに体に触れようとした。言葉の端々に、私のためならば自国の王へ働きかけようといった意味の含みを持たせた。私はシンに相談し、シンは「ふたりきりになるな」と苦々しい顔で言った。

「商談を有利に進められるのではないかと思うのですが」
「駄目だ。ろくでもない」

私はシンの力になりたかった。シンのためにできることがあるのならば、どんな些細なことだって、どんな困難なことだって喜んでしたかった。だから、目の前に提示された自分にできることをこなしたかった。その時の私もまだ浅はかで子供だった。シンは首を縦に振らず、結局私は独断でその男に近づいた。

男は嬉しそうに私の手を握り、自分のことを話し、私の話を聞きたがった。特に、王と私の関係とを。ただの部下であると言えば、安堵したように頬を緩めた。そんな夜を幾日か過ごし、五日ほど経ったある日、男は言ったのだった。「私の妻となって欲しい」と。私は呆気に取られた。ただの興味本位であり、そのうちに飽きるのだろうな、と思っていた男がまさかそこまで考えていたなどと、私には予想もできなかった。男は呆然と顔を見つめる私の反応を、あまりの喜びに思考が停止したものだ、と解釈したようだった。手を握られ、抱きしめられた。唇が近づいてきたところで慌てて、体を引きはがそうとするも遅かった。男は歓喜に震え、私を押し倒し、手間も惜しいとばかりに服を裂いた。必死に押しとどめ、涙を見せれば、ようやくのこと動きが止まり、それでも男は体の上から退くことはなかった。

「婚前の娘に手をつけたとあれば、私の王が黙ってはおりません」
「黙っていればわかりませぬ」
「いいえ、いいえ。シンドバッド王は聡いお方。きっと気づかれてしまいます。……それに、体を繋げた喜びを押し隠せとおっしゃるなんて、あなたはひどい方」

そんなことを言い、押しとどめたのだったと思う。男は愛おしそうに私を抱きしめ、謝り、手を離した。部屋から逃げ出した私はすぐにシンのところへ戻り、事情を話した。

「……だから、言ったろう」

声には呆れと怒りが滲んでいた。

「ごめんなさい。……だって、シンの役に立ちたくて」
「それで俺に心配を掛けさせていては、意味がないな」
「……はい」
「幸いにも商談は丸く収まりそうだ。こちらに有利な条件で結べたのは、まあ、お前のおかげだろう」
「本当に?」
「ああ。……嬉しそうな顔をするな。許してはおらんぞ」

吐き出されたため息に身を竦める。

「お前はしばらく具合が悪いと言って、部屋に引きこもっていろ」
「あの男はどうしましょう……」
「そうだな、放っておけ。どうせもうすぐ国に帰る。なんなら去り際に俺の方から牽制しておこう。王に引き離された哀れな恋人たちの悲恋話の出来上がりだ」

フッとどこか嘲るようにシンは笑った。国に帰ってから、改めて「もう二度とするな」と言い渡された。私は素直に頷いた。私に隙はなかったと思う。けれども、シンは私の顔をじっと見つめた後、ため息を吐き出した。

「お前のことだ。俺のことになると後先を考えなくなる。……そうだな、こうしよう。もし、同じようなことをするのならば、俺に話を通してから行け。そして、きちんと帰って来い。それから、絶対に肌を許すな」

正直なところ、また同じような状況になったならば、今度こそは上手くやってみせると考えていた。シンがだめだと言うのならば、絶対に悟られないようにする。その自信はあった。シンを傷つける者は私自身であろうとも許せない。

こうして私は女という武器を使い、国のために役立てることを覚えたのだった。私は上手くやっていた方だと思う。気を引き、その気にさせるだけさせて、利用し、必要なくなるとそっと離れた。そうこうしている内に私は二十歳になっていた。

二十歳になった頃、私はシンに言った。「あなたとは体の繋がりを持ちたくない」と。それはもちろん、シンが嫌いだからとか、男としての魅力を感じないからではなかった。ただ嫌だったのだ。主従の枠を越えて、男女の仲になることが。清らかで崇高な関係を築けるのならば、どれだけ素晴らしいことだろう。そうなりたかった。体ではなく、精神で繋がっていたかった。実際のところ、女を武器にするようになってから、男の浅ましさを目の当たりにして、男に対して失望していたのだと思う。だからこそ、シンは違うと思いたかったし、信じていた。

告げられたシンは目を見開き、その後、深く息を吐き出した。

「抱いてくれと泣いて頼んだかと思えば、今度は嫌だと言う。次に意見が覆るのはいつの話だ」

折角待っていたのに、と心底残念がり、そうして私の上から体を退かした。押し倒されていた私を引っ張り上げたシンは、「口づけもなしか」と眉間に皺を寄せる。

「口づけならばいつでも」

笑って答えれば、すぐさま唇を塞がれた。口づけならば今までもしていたのに、と思うとおかしかった。シンの唇はやわらかく、舌は熱い。口づけも、触れられるのも、どちらも心地よかった。うっとりと酔いしれることができた。それでも、ふたりの間に肉体的な欲望を混ぜることを私は拒絶したかった。シンは素晴らしく清らかで美しい人だと信じ続けたかった。実際にシンはそう振る舞ってくれた。酒に酔い、女に手を出すことは幾度かあり、私の頭を悩ませたが、それでも、どれだけ酒に酔っても私に手を出そうとはしなかった。私を尊重し、約束を守ってくれた。だから、私も約束は守らなければならない。いままでも大丈夫だった。今回もきっと大丈夫だ。

脳裏に浮かぶのは男のひきつった笑顔だった。あの男の思惑通りになれば、シンは煌帝国の姫君を娶ることになっていただろう。相手はあの愛らしい姫君で、金属器の持ち主とあれば国の利にもなったろう。それでも、一国の主が、己の失態で政略結婚など苦々しい出来事だ。その方法もまた醜悪で、己が仕える姫君の貞操を利用するなど、人間としても男としてもクズだとしか思えない。従者としても失格だ。いまだ眷属の力が宿っているのが不思議でたまらなかった。人目がなければ息の根を止めていただろう。唾を吐き捨てられただけで済んで有り難いと思え。とはいえ、あれは失敗だった。つい頭に血が上って吐き捨ててしまった。おかげで警戒心も露わだ。

「ジャーファル」
「はい」
「何を考えている」
「……あなたのことを」
「可愛いことを言う。だが、嘘は吐くな」

声が低くなる。

「ジャーファル、男を侮るな」
「……私はあなたのもので、あなたを裏切るような真似は決して致しません」
「もちろんお前の忠誠心は信じている。疑ってなどいない。けれど、全てが上手くいくとは限らないだろう?」

シンは私の身を案じているのだった。

「あんな男、どうとでもなります」
「……ジャーファル、頼むから忘れるな。お前が女であることを。いくら強くとも腕力が違う。相手が本気になれば無理強いだって出来る」

抱き寄せる腕の力が強くなり、圧迫感に息が苦しくなった。

「でも、あなたはそんなことしません」

腕を撫でる。力強い腕は私の腰に巻き付いたまま、離れようとはしない。けれども、そこから動くこともないのだった。
シンが私に対して強い欲望を覚えていることは知っている。理解している。抱き寄せる腕はいつも強く、目は飢えて熱を持っていた。それでもシンは私に手を出すことはない。力づくで犯そうとすることもない。私との約束を守ってくれるのだ。自分の欲望を押し殺し、私との間にある絆を大切にしてくれる。それを思う度に、シンを愛おしい、恋しいと思い、誇りに感じた。

「……俺はな」

どこか呆れた声でシンが呟く。腕の力が緩んで、開放感に安堵と寂しさを覚えた。

「身の危険を感じたら、殴り飛ばしてでも逃げてきます」
「そうだな、股間を蹴り上げるといい。俺のジャーファルに手を出そうとする輩の性器などどうなってもかまわん」
「ひどい人」
「お前の方がひどいだろう。気を持たせるだけ持たせて、あとは逃げるのだから」

笑いながら、腕を放す。寂しくなって、シンを見上げるとすぐさま口づけされた。

「おやすみ、ジャーファル」
「はい、おやすみなさい、シン」

シンが自室へ戻ると、急に部屋が広く寒々しくなった。寝間着に着替え、寝台に潜り込む。寝台には酒の匂いとシンの匂いが残っていて、たまらない気持になった。己の中にある恋心を否応なく自覚させられる。どうにかしてシンのためになりたい、その気持が強くなった。
目を閉じ、今後のことを思う。酔い潰し、情事の跡を装う。そうして弱みを握り、つけ込む。よっぽど冷血な人間でなければ、体を重ねた相手のことは気に掛けるはずだ。ある程度言動を制御出来れば充分。敵愾心よりは好意の方がいい。そんなことを考えながら、眠りについた。あまり長々と関わり合いたくはないから、出来れば明日にでも終わらせてしまいたい、とも。



「すこし席を外しても?」

前を歩くシンに声を掛けると、すぐさま「駄目」と返答が返ってきた。振り向いた顔は笑っている。同時に手を差し出してくれるから、持っていた巻物を手渡した。

「すぐに帰って来い。そうでなければ、迎えに行く」
「ふふっ、本当にすぐです。仕事があるのですから、余計なことに費やす時間などちっともありません」
「では、すこしだけ許そう」
「寛大なお心に感謝します」

軽く頭を下げ、踵を返した。わざと髪を乱してから、小走りで寄っていけば、足音に気づいたのか、男が振り返った。昨晩と違い、余裕のある笑みを浮かべ、「ジャーファル殿」と私の名前を呼んだ。昨晩の私の言動は思惑のある色仕掛けだと判断し、こちらの言動に乗ることにしたのだろう。それならばいっそやりやすい。

「……夏黄文殿」
「走っておいでになったのですか?髪が乱れています」

笑みを浮かべ、私の髪に触れようとする。触るな。

「大丈夫です」

そう言い、触られる前に、自分で髪を直した。

「ジャーファル殿、昨晩のことは良い思い出に。今晩の約束もまた待ち遠しい」

昨晩のどもりはどこへ行ったのか、饒舌に話しかけてくる。

「……私も、同じ」

視線を中庭に向けて、口を噤む。午後の陽射しはあたたかく、緑の葉を照らしている。男の顔を見ながら話をするよりは、幾分か気が楽だ。

「…………あの」
「…………」

昨晩とは打って変わった私のつれない態度に、男も口を噤んだ。ふたりともしばらく無言のままで突っ立っていたが、十分に不安を与えたと判断して口を開く。

「夏黄文殿」

顔を上げて、真っ正面から見つめると、「は、はい」と背筋を伸ばした。そうやって戸惑っている方がお似合いだ。

「……私の言動を、何か思惑のあるものと、そう思ってらっしゃるのでしょう?」

眉尻を下げ、感情を込めて呟くと、男は言葉を詰まらせた。

「いえ、そのようなことは……!」

慌てた様子で必死に首を振るう。驚くべきわかりやすさだ。よくそれで策略を巡らせようと考えたものだと呆れる。それとも女の扱いは不得手なのか。

「あなたが思う通り、私は計算高い人間です。そうでなければ一国の政務官は務められない。けれど、だからと言って、私とて……」
「あの、そのようなつもりは……」

では一体どんなつもりだと言うのだろう。顔を伏せながら、男の挙動を窺う。慌てた様子は、思考を見抜かれたからなのか、それとも人の気持を疑ったことを知られ慌てているのか、どちらなのかを考えた。大方前者であろうが、どちらでもいいことだ。存分に悩み、悶々としてろ、とそれ以上何も言わず、その場を後にした。



昨日の同じ時間、私はあの男と酒を飲んでいた。明日もまたこの部屋で、と約束はしたが、昼間のことがある。もしかしたらすっぽかしているかもしれないと思いながら、部屋に向かった。いなければ、あの男に与えられた客室まで行くべきか、それとも放置しておくべきか。後者の方が楽だし、気持も楽だ。だが、追いつめるならば客室まで行くべきであろう。他国の政務官と一体どんな用か、と他の従者から視線を向けられ、居心地悪そうに縮こまる姿を見るのもまた楽しいに違いない。とはいえ、その選択は私自身への剣にもなる。出来ることならば避けた方がいい。思案はどれも無意味となった。扉を開けてみれば、男は椅子に座っておとなしく待っていた。

案外お人好しであるらしい。まったく都合が良い。この男に国権を掌握するのは無理だろうな、としみじみ思った。策略の手際がいくら優れていようとも、お人好しでは国に関わる決断を誤る。寸でのところでその情が足を引っ張る未来が易々と想像できた。なによりの問題は、そのお人好しな部分を最後の最後で切り捨てられないところだ。

一瞬シンの顔が頭に浮かんだ。あの人は切り捨てることができる。そうせざるを得なかった道を考えると、胸が痛くなった。あの人の力となれるのならば、どんな労力も厭わない、その気持がまた湧き上がる。無言のまま歩み寄り、距離を開けて隣に腰掛けた。自分から話しかけることはしない。弁明の言葉か、謝罪の言葉か、それとも問いつめる言葉か、わからないが、相手の出方を待つことにした。
男は散々視線を彷徨わせ、迷った後、おそるおそると言った風に、

「……酒は」

と、呟いた。視線を向ければ、こちらを窺うように見つめている。仕方なく無言のまま杯を差し出してやれば、ホッと息を吐き出し、酒を注いだ。注がれた酒を一気に飲み干し、卓上に杯を置く。何も言わずにいれば、男も次の句を継げることなく黙り込んだ。空気はどんどん重くなってゆく。私にはどうとでもない空気だが、男は針のむしろだろう。数分間、黙りこくってやった後、

「……あなたは?」
「は、はい!」

話し掛ければ、食いつき気味に返事をされた。

「…………」

軽く笑みを浮かべてやれば、顔面に安堵が滲む。男の杯に酒を注ぎながら、なんだかこちらが不安になった。こんなにもわかりやすく引っかかってくれるなんて、実はこちらの思惑を理解した上でそう振る舞っているのではないか。

「あなたは、私のような女に迫られて、心が揺らぎますか?例えば、国の機密を話してしまうぐらいに」
「それは、その」
「ないでしょう?そりゃあ、私の見目が麗しければ、そういうこともしたでしょうけど」

実際、もうすこし見目が良ければもっと楽に事を運べるのに、と考えたことは何度かあった。だが、この地味な容姿こそが、私の武器だ。どこにでもいそうな目立たない地味な顔立ち。おそらくは、幼い昔、どこかで見たことがあると錯覚させる顔。そして、そのうっすらとした記憶に残る誰かは、決して対象者を傷つけなかったろう。一言で言えば、無害な印象を与える顔なのだ。だから、色仕掛けで懐へ入り込み、密偵の役割を担っているなどありえない、と思わせることが出来た。この男に関して言えば、唾を吐き捨ててしまったが為に、多少手こずっているが。

「分は弁えているつもりです」
「はあ」
「でも」

一旦口を閉じ、黙り込む。

「……もし、あなたが、私に心を揺らしてくださるのならば、色仕掛けぐらい造作もないこと」

男は困った色を浮かべている。もっと困れ。迷え。神経をすり減らし、胃に穴でも開けろ。そんなことはおくびにも出さず、じっと切なげに男を見つめた。

「夏黄文殿……」

感情を滲ませ、名前を呼ぶ。腕に手を置けば、ビクッと体を跳ねさせた。その勢いで酒が零れ、私の膝から下が濡れてしまった。鈍くさい。

「も、申し訳ありません」
「いえ」

懐から布を取り出すより先に、男が床へ膝をつき、私の濡れた足を拭いた。その手つきは慣れたものだ。振り払い、自分で拭くべきかどうか考え、おとなしく任せることにした。男は、膝を拭い、次に足首に向けて酒を拭き取った。そうして足首のところで動きを止めた。
不思議に思い、視線を向ければ、足の傷を見つめていた。足を引き、腰布で覆うようにして隠す。

「お見苦しいものを」
「いいえ、……あの、大丈夫、なのでありますか?」
「古傷です。もう痛みもありません」
「おいたわしい……」

そう呟き、手を伸ばして、私の足首を掴んだ。指先が傷跡をなぞる。ぞわぞわと体を震わせる嫌悪に、唇を噛みしめた。幸いにも男は足の傷だけを見ている。

「……そんなに気になりますか?」

我に返った男は、照れ笑いのような気持悪い笑みを浮かべながら、手を離した。

「申し訳ありません。あまりに見事なもので……」
「……」
「……いえ、あの、おかしなことを、……その、すみません」
「いいえ……」

誉められたのか、それとも馬鹿にされたのか。意図がつかめず、反応に困った。表情を窺う限り、少なくとも嫌悪を抱いている様子はない。この世の中には様々な趣味の人間がいる。もしかしたらこの男は、傷跡に劣情を抱く質なのかもしれない。すこし場が気まずくなった。相手も同じようで、足を拭き終わった後は椅子に戻り、残っていた酒を飲み干している。飲み干した後、口を開いた。

「昼間の件なのですが」
「はい」

一体、なんと言うつもりだろうか。

「私は決して、裏を疑った訳ではなく……」
「では、何故。昨晩は私に言い寄られて戸惑ってらっしゃったのに」
「お、男とは単純なものです!」
「はあ」
「女から好かれているとわかった瞬間から、調子に乗り、得意になるものであります。つまり、私は、浮かれて、それで」

確かにそういう男はいる。何人も見てきた。例え好みの女でなかろうと、好かれているだけで喜び、調子に乗り、隙を作るのだ。だが、残念ながらこの男はそういう質ではない。少なくとも私はそう思っている。大体、唾を吐き捨ててきた女が、酒を酌み交わしただけでそうあっさりと惚れると信じられるほどおめでたい頭はしていないだろう、多分。
いい加減なことを、と思ったが、ここは素直に信じてやる振りをすることにした。

「私のことが嫌ではない、と思ってもよろしい?」
「……はい」

本人は気づいていないだろう。言ってしまった……という感情が滲んでいる。もちろんそんな感情は無視して、浮かれた体を装い、酒を注ぎ足した。

「どうぞ!あなたのために用意したお酒ですから、いっぱい飲んでくださいね!食べ物はどうなされますか?」

男は「はあ」だとか「まあ」だとか曖昧な返事で、覇気が薄い。私は気にせず、酒を飲ませた。食べ物は時折与えるぐらいで、酒だけを飲ませ続ける。こうやって酒を飲ませ、酔い潰し、寝台に運ぶ。やわらかい寝台は、男を眠りへと誘う。目覚める前に服を脱がせ、また私も薄着になり、隣に横たわればいい。髪を乱し、敷布をぐちゃぐちゃにして情事の跡を装うのだ。なんだったら、朝目覚めたこの男の隣でさめざめ泣いてみせ、無理矢理犯された風を装ってもいい。そこで、利益のためではなく、仕返しをしたかったのだと気づいた。

私が怒りを抱えるのは仕方ないことと思えた。我が主と認めた王が、危うく意に添わない結婚をする羽目になりそうだった。下手をすれば戦になっていたかもしれない。シンの酒癖が悪くなければだとか、もっと信じていればだとか、そういうことはあるにはあるが、元はといえば全てこのクズが悪い。

「今宵はまた良い飲みっぷり。惚れ惚れしてしまいます」

にっこりと笑みを浮かべ、また酒を注ぐ。大分、酔いが回ってきたのか、顔が赤くなってきた。目はとろんとし、熱のこもった息を吐き出す。男が酒を呷る度に、心の奥から愉悦が浮かんできた。一口飲むたびに、地獄へと降りる階段を自ら一歩一歩進んでゆくのだから、おかしくてたまらない。この時の私は作り物でない笑みを浮かべていたと思う。

空になった杯に酒を注ぎ足そうとして、動きを制された。ちら、と私を見遣り、すぐに視線を落とす。何か言いたいことがあるのか、と言葉を待つ。

「あなたは、私と、王を重ねている……?」

唐突な問いに目を見開き、次に軽く眉を寄せた。男はじっと握り締めた杯を見つめていて、私の表情に気づくことはない。誰が一緒か。一緒にするな。たかだか、背丈が似通っているだけの話じゃないか。シンの体は鍛えられて美しいし、経験が逞しい腕や体を作っている。手は固く節くれ立って苦労を忍ばせている。どうせそこそこしか鍛えてもいないお前と一緒にするな。

「そんなこと」
「ですが、あなたは言った。私の背丈は王と同じ、私の手は、王と同じように大きくてあたたかい、と」

ばかばかしい。たったそれだけのことで私が、王と王以外の男を同一視するものか。だがそんなこと、この男は知らないのだ。私は困ったように眉を寄せて、男を見上げる。

「もしかしたら、そうなの、でしょうか?」
「あなたにわからないなら、私にも、わかりはしません」
「そうですね。……確かに私の初恋は王で、その初恋は実らなかった。けれど、だからといって、誰かを身代わりにしようなどとは思いません」
「ですが」
「夏黄文殿」
「はい」
「誰も、私の王の身代わりなど出来ません」

真実の言葉だからこそ、きちんと伝わる。そして、真実の言葉を吐き出す者は、真実しか語らないのだ。

「……あなたは、あなたです」

顔を伏せる。戸惑いと迷いが伝わってくる。

「そりゃ、多少は好みに影響を与えてるでしょうけど」

顔を上げて、笑って見せれば、安堵したように笑みを浮かべた。単純な。

「夏黄文殿の初恋は?」
「私も同じ、初恋は実りませんでした。何も言えず、ただ見ていただけで、いなくなってしまいましたから」
「どんな方?」
「物静かで聡明で、どのような境遇に置いても、いつも笑顔を浮かべていました」
「……美しい方だったんでしょうね」
「ええ、肌は白く、黒髪は艶やかで、涼やかな目元」
「今でもそのような方がお好き?」
「どう、でしょう。今は、女より己の方が大事……」

そう呟くと、自嘲気味に笑いを零した。

「本当はまだ怒ってらっしゃるのでしょう」
「そう思いますか?」
「何せ人の顔面に唾を吐き捨てるぐらいです。いや、私のしたことは、殺されても仕方ないことと自覚はしているのですが、それにしたって」

その時のことを思い出したのか、苦笑を零す。

「あなたは見かけによらず気性が激しいご様子」
「気性の激しい女は嫌?」
「さあ、どうでしょう」

男は咽で笑い、私の顔をじっと見つめた。その目には何故か好意的な色が混じっている。

「……あなたは、人間……」

当たり前のことを、と思いはしたが、面倒になって返事はせずにいた。男は気にした様子もなく、酒を一口飲み、それからちいさく笑う。すっかり酔いが回って、自分が何を言っているのかも判断が付かないのだろう。そろそろ寝室へ誘導する頃合いか、と飲みもしないのに持っていた杯を卓上へ置く。

明日の朝、目覚めた時、この男はどんな顔をするだろう。酒に酔い、理性を失った行動をしたのだと青ざめ、必死に弁解し、私に頭を下げる。どうかこのことは内密に、と。懇願された私は、快く了承する。了承し、利用できるだけ利用してやるのだ。不利益の分は必ず償ってもらう。

「夏黄文殿、あまり飲み過ぎると明日に響きますから」

男の手から杯を取り上げる。はい、と素直に頷く男からは、こちらまで酔いそうなほどに酒の匂いがした。

「大丈夫ですか?飲み過ぎましたね」
「はい……」

男は立ち上がろうとした。けれど、立ち上がれず、また椅子へ腰を落とした。脇の下に頭をくぐらせ、支えるようにして立ち上がらせる。足下はふらふらとして覚束なかった。

「……今晩は、ここでお休みになられては?」
「しかし」
「安心なさってください。夜が明ける前に起こしますから」
「……」

何か言おうと口を開くが、結局何も言わなかった。酒のせいで眠気が強いのだろう。何を言いたいのかはわかった。

「……今夜一晩お傍にいては、いけませんか?」

つまりは私とそういうことになるのを警戒しているのだ。

「今晩だけ。何も致しません」

笑って見上げると、困ったように眉を寄せている。

「……何も」
「ええ、何も」

男は躊躇いを見せ、迷っているようだった。私は気にせず、「こちらへ」と寝室へ誘導した。
扉を開けると、寝室は薄暗かった。扉を開け放したままにして、隣の部屋から差し込む明かりを頼りに寝台へと近寄る。と、男が立ち止まった。

「どうなさいました?」
「……あなたは」
「はい」
「私を、好いて、いる?」

瞬きをし、男の顔を見つめる。その後、笑顔を浮かべた。言葉はいらない。男は息を吐き出し、顔を反らした。私の肩に回された手のひらに力が籠もるのを感じる。

私は何も言っていない。否定も肯定もしていない。勝手に答えを出したのはこの男。無言のまま寝台まで歩き、手を離す。横たわった男は深く息を吐き、寝台に身を委ねている。瞼は今にもくっついてしまいそうだ。

「お水を持ってきます。……それとも酒の方がよろしいですか?」

からかいを含めて問いかければ、苦笑を浮かべた。

「いえ、水で」
「かしこまりました」

頷き、男の傍を離れる。寝室の扉を背にして、短く息を吐く。あの男の匂いから、わずかとはいえ離れることができ、安堵したのだった。部屋に用意してあった水差しを乗せた盆を持ち、寝室へ戻る。
眠っていてくれることを願っていたが、残念ながらまだ眠ってはいなかった。だが、男が眠るのも時間の問題だろう。

「大丈夫ですか?」
「……ええ、はい、だいじょうぶ……」

寝台の横に備え付けてある机に水差しを置いた。置いた後、気づかれぬように袖を探り、薬包紙があることを確かめる。不要かとも思ったが、用心に越しておくことはない。問題はいつこの眠り薬を飲ませるかだった。

水を注いだ杯を口元に持ってゆく。眠気のために億劫なのか、おとなしく飲まされていた。こく、こく、と二口ほど飲んだ時、杯を傾けすぎて、水を零してしまった。

「ごめんなさい」

懐から布を取り出し、口元と、濡れた胸元を拭く。水は服に染み込み、布の色を変えた。拭きながら、不自然でない程度に手を滑り込ませた。指先でそろりと肌を撫でる。その気にさせておけば、情事の工作に信憑性を与えられるだろうと考えてのことだった。

「…………」

どうせ大して鍛えていないと侮っていたが、認識を改めなければならなくなった。指先で感触を確かめるようにして、胸板を探る。シンほどでない。けれど、ごく普通に鍛えられている。姫君に付き添い、迷宮攻略にも行ったのだろうから、ある程度武術の心得があるのは当たり前のことだった。そのことを考えていなかった訳ではないし、想定はしていた。ただ思っていたより、体つきがしっかりしている。相手が本気になれば無理強いだって出来る、と不安げに呟いたシンの言葉が思い返される。万が一のことを考え、早々に眠らせた方がいいだろう。

「あの……?」
「すみません、はしたないことを」

慌てて手を引っ込める。

「いえ……」
「……」

沈黙が気まずい。空気を変えるように明るい声で、

「もう少し飲みますよね?」

杯に手を掛け、気づかれぬように薬を混ぜる。

「いえ」
「……そうですか」

なんとか水を飲ませなければならない。会話の糸口を探す。男は黙り込んだままだ。眠りに落ちる様子はなかった。男が口を開き、私の名前を呼んだ。ジャーファル殿、と熱を含んだ声で。


  
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テーマ「人外ファンタジー」
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