第一夜


「さあさ、どうぞ」

無理矢理持たされた杯に、並々と酒が注がれた。揺れる酒の水面と、隣りに座る女を交互に見る。にっこりと笑う女はやわらかい空気を纏い、好意的な視線を私に投げている。だが、唾を吐き捨てられる、という先だっての出来事があるために、なんらかの思惑を感じてたまらなかった。胡散臭い、その一言に尽きた。

「飲まれないのですか?」
真意を読みとろうと、まじまじと顔を見すぎたか、女が不思議そうに首を傾ける。

「はあ……、あなたは」
「では私もすこし」

目の前の杯に酒を注ぎ、口を付けた。喉が動く。

「おいしい」

吐息と共にそう吐き出し、私を見て笑う。仕方なく私も酒に口を付けて、眉を顰めた。ひどく強い酒だった。喉が灼けるように熱い。味は悪くなかった。有り得ないと理解していながらも毒を盛られている可能性を考えながら、女に視線を送れば、やはり笑顔だけが返ってくる。

「夏黄文殿は」
「は、はい」
「…………」

緊張して声が上擦ってしまった。ぱちっ、と瞬きをした後、女は眉尻を下げて私を見つめ続ける。黒い目は、夜の闇より深く、底知れない沼を思い浮かばせた。何が潜んでいるのか、わからない。嫌な目だと思う。

「……ごめんなさい」

落ちた言葉に、今度はこちらが瞬きをした。女はうなだれ、手の中で杯を転がしている。ちゃぷん、と水音が鳴った。

「何が、でありますか……?」

考えられる事柄は、無理矢理に酒に誘ったこと、もしくは唾を吐き捨ててきたことだ。

「あなたが」
「はい」
「したことはやはり許せない。けれど、私がしたこともまた許されないことです」

私、幼い頃に王に拾われて、それからずっとあの方の傍にいたものですから、と言葉を続けた。我が主と認めた王が、他国の者に貶められ、罠に掛けられようとしたのだ。それは、唾も吐き捨てるというものか。わかっていながらも、やはり唾を吐き捨てるのはないだろう、と思う心がある。

「言い訳にもなりません。一国の政務官として、他国の方に唾を吐き捨てるなどあってはならないこと」

じっと杯を見つめながら呟く女の姿は、頼りなく、心から悔いているのだと見えた。

「あなたをお誘いしたのは、謝りたい気持もあったものですから」

顔を上げて微笑む。あまりにもあっさりした謝罪に、なんだか拍子抜けした。あの時の様子では、もっと根に持っているのだと思われたからだ。まさか本当に謝罪してくるなど思わなかった。

「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした……」
「本当に反省してらっしゃるんですか?あんな愛らしい姫君を泣かせて」

責めるような色合いが黒い目に浮かぶ。やっぱり許してはいないようだ。

「え、それは、もちろんであります……」

先ほどから語尾が弱い。唾を吐き捨てられたことがよっぽど堪えたのだろうか、自分に問う。あれはなかなかの衝撃だった。女があのような恐ろしい顔をする生き物だと知らなかったこともある。塵か屑を見る目だった。

「心から反省してらっしゃるなら、私のしたことも許してくださる?」

眉間の皺を緩ませたかと思えば、上目遣いに見つめてきた。許しを得る目ではない。悪戯を含んだ目で、先ほどの言葉はただのからかいであったと知る。

「……はい」
「嬉しい!」

どこか子供のようにはしゃいだ声で言ったかと思えば、ちいさく含み笑いをこぼした。

「また明日の晩にでもこうして酒を酌み交わしたい、そう願うのですが」
「…………」
「だって、すこししかお話していないじゃありませんか」

本当にそれだけ、と私を見つめてくる女の目を見つめながら、考える。この女はシンドリア国の政務官であり、常にシンドリア国王の傍に仕えている。国の中心に近い位置におり、持つ力もそれなりのものであろう、と。女が何を考えているのかはわからない。理由はなんであれ、向こうから近づいてくるのだから拒む理由は特にない。なんか怖くて嫌、という感情を除けば、であるが。

しかし、人心掌握術に長けたこの身であれば、女のひとりやふたり手懐けるのもそう難しくはない。この女を手懐けることができれば、すくなくとも出世の役には立つ筈だ。シンドリア国王の好みを聞き出し、姫君にお伝えすることもできる。人の心を掴み、操るには情報は不可欠だった。姫君をシンドリアへ嫁がせることができずとも、この女から情報を引き出せば、煌帝国にとっても悪い話ではない。つまりは、煌帝国内での地位の向上も望める。
理想は、表舞台に立たず、裏で国政を牛耳ることであるが、上手く行かなかった場合の保険は必要だ。それなりの地位で満足できるのかという問題はあるが、無為に従者として一生を終えるよりは良いだろう。そう結論づけて、「あなたが望むならば」と言葉を返した。

ではまた明日の晩、と嬉しそうに頬を綻ばせ、席を後にした女は暗闇の中へと消えていった。自然と闇に溶け込んで消えた白い官服は、不気味な気持と後悔を抱かせるに十分だったが、頷いてしまったのだから仕方ない。

ため息ひとつ、姫君のところへ戻る。いつの間にか随分と酒を飲んでいたようだったから、ずっと気掛かりだったのだ。幸いにも酔い潰れてはいなくて、心から安堵した。何か良いことでもあったのか、頬を紅潮させ、夢見心地な姫君を寝所までお連れし、また宴の席へと戻る。歩きながら思考を巡らせた。脳裡に浮かぶのは、女の笑顔と、闇に消える後ろ姿だ。

――一体何を目論んでいるのか。
目の前で悔やんでみせたり、子供っぽいところを見せたり、あくまでも自然に見える範囲で表情を変えてみせたが、逆に不自然だった。唾を吐き捨てるぐらいだ。私への感情はそれなりに悪いはず。それなのにあの慣れ慣れしさは何か思惑があるとしか思えない。それは私も同じだ。静かに息を吐き出す。これは狸の化かし合い、腹の探り合い。気を緩めてはいけない。けれど、警戒を気づかせてはいけない。



昨晩は、宴の席に戻った後、騒動があった。朝からせわしなく、緊張感に包まれていたが、夜になる時刻には、穏やかな空気が戻ってきていた。

白龍皇子の落ちた右手は、眷属器の力を使ってもどうしようもなかった。私の眷属の力はあくまでも治癒であり、再生ではない。出血や激しい痛みがなかったことは幸いだった。とはいえ、右手を失ったことはまぎれもない事実で、なんと声を掛ければいいものかわからない。姫君への説明は簡単に済ませておいた。酒のせいか、目覚めたのは、大方のことが解決した後だったから助かった。

「昨晩は大変でしたね」

午前中のことだ。いつ痛み出すかわからないと白龍皇子に付き添っていたが、ひとりにして欲しいと懇願され、仕方なく王宮をぶらぶらと歩いていた時だった。自分の国としてこの王宮を歩くのはさぞや心地良いものだったろうに、と頓挫した己の計画を思い、ため息を吐き出した時だったから、心臓が止まるかと思った。振り返れば、笑みを浮かべる女が立っていた。

「紅玉姫君は?」
「昨晩、酒を飲んでしまわれて、まだ寝所の方で」
「そうでしたか。昨晩の騒動に巻き込まれず、本当に良かった」

その言葉に素直に頷き、口を閉じる。何を言えばいいのか、わからなかった。

「我が王も落ち着き、怪我人もあなたのおかげで重傷の者はいないようです。……感謝致します」

深々と頭を下げる女に慌てて「大したことではありません」と、肩を掴み、顔を上げさせた。この女に礼や、謝罪をされるのは、何故か恐怖の方が勝る。

「慎ましい方」

女が微笑む。勘違いされたようだが、都合が良いだろうと、曖昧に笑みを浮かべるに留めた。

「約束、覚えてらっしゃいますか?」
「は、はい」
「では、また今晩。……できれば、その、ふたりで、と思っているのですが、ご迷惑ではありませんか?」

白い頬にさっと朱が走る。黒い目は不安げな色を映していた。目の前に起こった変化に戸惑いながら、「いえ」と否定の言葉を出していた。安堵したのか、目から不安が消え、緩く細められる。

「……後で、案内の者を用意させますから」

耳元で囁かれた言葉の甘さは恐ろしかった。

夕飯を終え、シンドリア国の女官に案内されたのは、客室用の部屋からそう離れていない部屋だった。使っていない客室で酒を飲もうというのだろう。あまり姫君の部屋から遠く離れるのも落ち着きが悪いから、都合は良かった。長く続く廊下の奥まった場所にあるその部屋はそう広くはなく、扉を開ければ、机と長椅子、他には植物が飾ってあった。それから、寝室に続くのだろう扉もある。

「しばらくお待ちください」

女官は頭を下げると、扉を閉めて、私を置き去りにした。一人取り残された部屋で、落ち着き悪くうろうろと歩き回る。どのくらい待てば良いのだろうか。いっそこのまますっぽかしてくれないか、それが不可能ならばさっさと終わらせたい。ふたりきりか……、ぽつり呟くと胃の辺りが重くなった。締めつけるような痛みも感じた。

扉を叩く音がして、跳ねるように背筋が伸びる。脳裏に沼のような黒い目が浮かんだ。ううやだなあ……、ため息を吐き出す。気を引き締め、扉を開けると、当たり前だが女が立っていた。

「お邪魔しても?」

腕には酒瓶を抱えていた。昨晩のように強い酒でなければ良いのだが。多少なりとも着飾ってくるかと思えば、普段通りなのだろう官服だった。昼間話をした時に、仕事で遅くなるかもしれないと言っていたから、終わり次第すぐこちらへ向かったのかもしれない。違いといえば、深い緑色の被り布がなく、銀色の髪が露わになっているぐらいだ。煌帝国では見ることのない銀色の髪に、思わず目が奪われる。見慣れないものに対する好奇心と、冷たい月の光を思い出させる美しい色にしばらくぼんやりと見つめてしまった。

「何かおかしなことでも」
「いえ、……髪の色が」
「この国ではそうめずらしくもない色です」

ふふっ、と笑う女はどこか嬉しそうだった。確かにこの国ではめずらしい色ではなさそうだった。褐色の肌と銀色の髪、そんな男や女をこの国の市場で何人も見かけた。しかし、白い肌に銀色の髪、黒い目の人種はこの女以外には見かけなかった。それでも、奇異な目を向けられないことは女を喜ばせるのだろう、そう思った。

「他の方は」
「すこしばかり街の方へ」
「あなたと私がこうやってふたりきりで会っていることは、誰も知らない?」
「そう、でありますね」
「……その方が好都合」

互いに、と言葉を落とした後、媚びる目が私を見上げる。確かに言葉通り好都合であった。もしかしたら敵国になるかもしれない立場だ。痛くもない腹を探られるのは勘弁して欲しい。出世にも響く。内情を探るためと言えば、なんとか繕えるだろうが、そのためにはどうしてもこの女を手懐ければならなかった。もしくは、いますぐ逃げ出すか、だ。

「お酒を持ってきたんです。一緒に味わおうと思いまして。……シンドリア国王秘蔵の物です」

悪戯を含ませて、共犯であることを示す笑みが浮かぶ。

「よろしいのでありますか?」

国王秘蔵の酒を持ち出すなど、煌帝国では考えられないことだ。

「いいんです。あの方の酒癖はひどい。……そう考えると、あなたばかりを責められませんね」

ため息を吐き出す様は自然だ。確か騒動の際に、シンドリア国王は散々酒癖を責められていた。

「さあ、飲みましょう。夏黄文殿は、お強い方ですか?」
「弱くは、ありませんが」
「私も」

得意げに笑う女は客室に備え付けられた長椅子に腰を下ろす。目の前の卓には杯がふたつ置かれていた。ふたつの杯は寄り添うように並んでいる。隣に座れということか、と気づかれぬように息を吐き出して、椅子へ腰掛けた。

「どうぞ」

女が酒を注ぐ。並々と注がれた酒は金色をしていた。昨晩の、咽が灼ける感覚を思い返しながら一口含めば、口腔に豊かな酒の味が広がり、思わず息を吐き出す。これは確かに国王秘蔵の酒といっておかしくなかった。この酒を飲めぬ王にわずかな同情を抱きながら、もう一口飲む。

「おいしい」

同じように酒を飲んだ女が呟く。声に釣られるように視線を向ければ「ね?」と笑いかけられた。どんな顔で笑えばいいのかわからず、曖昧に「はあ」と返す。主導権は私と女の間をふらふらするばかりに思えた。……いや、主導権は女が握っている。

主導権を握る機会を掴めぬまま、しばらくは他愛のない話をした。女は姫君の話を聞きたがった。幼い頃からの思い出話をぽつりぽつりと呟けば、愛らしいお方、と賞賛した。その言葉だけは真実に思えた。にっこりと嬉しそうに慈しむ目に、首を傾げたくなる。他国の姫君、数回しか会ったことのない姫君をそう思えるのはなぜだろう。確かに幼少の頃から仕えている姫君は、愛らしい方といって差し支えなかった。不器用なために友人はいないが、努力家であり、多少のわがままに振り回されはすれど、見切りをつけようと思ったことなど一度もない。……出世のために利用しようとはするが。

「私の話ばかりでなく、あなたの話も」

そう切り出してみれば、

「私の話など酒の肴にもなりませんよ。私は、つまらない人間ですから」
「いや、しかし、私ばかり話すのはずるい」
「ずるい、そう言われては困ってしまいます。……そうですねえ、これは誰にも言ったことはないのですが、私の初恋は王なんですよ」
「はあ」
「興味ないでしょう?私の色恋沙汰など」

確かに興味がない。女の初恋はシンドリア国王だという。それならば、我が姫君も初恋はシンドバッド王だ。脳裏に王の姿を思い浮かべ、それはそうだろう、と頷く。あの顔立ちならば大概の女は惚れる。さらには物腰はやわらかく、権力も実力もあった。男ならば大半は羨む。容姿は特別欲しいとは思わないが、あの権力は欲しい。

「よろしければお聞かせ願えますか」
「……私に興味が?」

細められた目は、試すような色を滲ませている。

「すこしだけ」

言ってやれば、肩を揺らして笑う。

「素面では到底無理」

そう呟き、私の杯に酒を継ぎ足した後、自分の杯にも継ぎ足した。女は舌を伸ばし、揺れる水面に押しつける。ぺちゃ、と舌が水面を掬い取り、口の中に引っ込んだ。ひどく赤い舌だ。それでいて細い。ちろちろと舌を出しながら酒を嘗める女の頬は白い。酒による赤みなどない。酒に弱くはないと言っていたが、大分強いと見えた。

赤く細い舌はなにか生き物のようで薄気味悪い。肌の異様な白さも不気味さを煽る。頭の隅に白い蛇が浮かんだ。煌帝国では、白い蛇は吉兆の証だ。良いことが起こる前触れだと言われ、見た者は幸運に恵まれると言われる。けれど、私の隣に座る白い蛇はとても吉兆を示す存在だとは思えなかった。

「……本当に、ちっぽけな恋心でした」

言葉の意味が理解できず、ただぼんやりと女の唇と舌を見つめる。唇は赤く塗れ、舌は、女が喋る度にちらちらと姿を表した。

「十四の頃です。私を拾い上げた大きな手のひらはあたたかくて優しくて、人肌の温もりも、優しさも知らない私にはそれだけで充分だった。この人から離されたら、私は死んでしまうと思っていた。だから私を見て欲しかった。私を特別にして欲しかった。けれど、あの方はいつも美しい人ばかりを選んだ」

女はただ握り締めた杯をじっと見つめている。

「あの頃、私、本当に貧相でちいさくて、なにより身も心も子供でした。そのせいもあると思うんですけどね」

顔を上げた女は、寂しげな笑みを浮かべ、杯に口をつけた。
私は十四の頃を思い出す。必死に勉学に励み、出世の糸口を探していた頃だ。勉学だけでなく、武術の訓練もしていた。抱えられるものは全て抱え、己の血肉にしようとただ必死だった。手の皮は擦り切れ、血豆が出来て、潰れてはまた出来た。それでも歯を食いしばり、将来の自分のためにと日々を送っていた。

次に初恋を思い出す。同じ村に住む、いくつか上の人だった。控えめな、けれど整った顔立ちで、恋心を伝えることなくいなくなってしまった。大きな街の娼館に売られたのだと聞いた。姫君の従者として取り立ててもらえ、生活も安定した頃、ひっそりとその人を探した。どこにも見つからなかった。初恋とは得てしてそういうものなのであろう。

「でも」

女は言葉を続ける。

「美しい人を選んでも、私を捨てなかった。それはそうです。私は、拾われた時から王の物で、あの方は折角拾った物をそう易々と捨てたりはなさらない方ですから」

嬉しげな声が綴る。傍に居られればそれで良い、と表情が物語っていた。

「いまは?」
「いま、とは」
「男として好いておられないのでありますか」
「王として好いております」

女の顔は誇らしげだ。何か国王に対する賛美の言葉を、と思考を巡らせるが、上手い言葉が浮かばない。真実の言葉でなければ、この女の機嫌を損なう可能性もあった。だから、口を噤む。噤んだ後、思い浮かんだ言葉を吐き出す。

「それほどまでに好かれる男は幸福でありましょう」

言った後、もちろん王として、と付け加えた。男女の話から、主従の話になったのだから、私の言葉はずれていた。

「それほどまでに惚れ込める主がいることも幸福なことです」

なんだか居心地が悪かった。遠回しに、お前はどうなんだと問いつめられているような気がする。あの私が起こした騒動の後では何を言ったところで、私の言葉に説得力はない。

「夏黄文殿は?」
「私も、同意見であります……」

言える言葉はこのくらいであろう。しかし、私の返事を聞いた女は、きょとん、と目を見開いた。

「国に好いた方はいらっしゃらないのですか?」

そちらの問いだったか、と安堵し、口を開く。

「そのような暇はありませんので」
「私も同じ」

もう一度、同じ、と笑う女は何か秘密を含ませている。秘密の共有は距離を縮めるのに最適だ。なんだか特別な関係であると錯覚させる。やはりあなどれないな、と胸のうちで呟いて、酒を嘗めた。

「どんな方が好み?」
「さあ、私もそれほど色恋沙汰に縁がある訳ではないので」
「あなたのような方が」
「…………」
「第八皇女のお付きともなれば、なかなかに良いご身分。それとも、地位に寄ってくる女はお嫌い?」

そう良いご身分でもない。姫君の母上は遊女だ。そのせいもあって、姫君を取り巻く空気は決して良いものではない。脳裏に浮かぶのは、爪弾きにされ、公の場では居心地悪そうにしている姫君の姿だ。浮かない色を見つけたのか、女はそれ以上のことを言わない。

「今宵は良い月夜。折角の美酒、飲み干してしまいましょう」

新たに注がれた酒を飲む。いまの身分では到底口にすることはないだろう酒だ。この国は良い国なのだろうな、そんなことを思った。この国に生まれれば、姫君も心を許せる友人が出来、ひとり寂しく食事を取ることもない。己の出世が優先とはいえ、今回の計画が失敗したのは心惜しかった。

「……姫君のことを考えてらっしゃる?」

女が問う。なんと答えたものかわからず、もごもごと口を動かすだけに留めた。

「私も同じ。王のことを考えていました。……従者としての性分、でしょうか」
「そう、かもしれませんね」
「では、我らが主に乾杯を」
「あなたの王の酒で?」
「ええ、私の王から頂戴した酒で」

うふふ、と楽しげに笑い、女は酒を一口飲んだ。ふう、と静かに息を吐き出す。卓の上に杯を置いたかと思えば、じっと私を見つめた。その目は潤んでいる。頬はまだ冴え冴えと白いのに、瞳だけが熱を持っていた。

「……すこし息苦しい」

そう呟くと、視線を落として服の釦をひとつふたつ緩めた。きっちりと合わさって肌を隠していた服から、鎖骨が覗く。見てはいけないものを見た気がして視線を逸らす。色仕掛けの可能性を考え、気を引き締める。

「夏黄文殿は」
「はい」
「私の王と、背丈が同じよう」

確かに目線が同じくらいだった。そんなことを思い出していると、開いていた左手にするりと何かが絡んできた。

「手の、大きさも、同じくらい」

視線を落とせば、女の白い手が私の手のひらに重なっていた。指の間に指が入り込み、手のひらがぴったりとくっついている。女の手はひんやりと冷たい。手のひらに、親指で円を描きながら、女が口を開く。

「あたたかくて、大きい」

この白いひんやりとした手と比べれば、誰だってあたたかいに違いない。女の頭が肩に乗る。

「ごめんなさい。私、すこし酔ったみたいで」

舌が縺れたような、たどたどしい喋り方だった。女は飽きることなく、手のひらを握り込め、ぎゅっぎゅっと幾度か感触を確かめるように力を込める。手のひらをもてあそばれているだけだ、と言い聞かすが、女が触れた部分が震え、得体の知れない感情が吹き出しそうになる。無理矢理に欲を引きずり出そうとしている、そう思われた。引き剥がしたくてたまらないのに、声は喉に張り付いて、拒絶の言葉は音にならない。

「……男の手」

女が顔を上げ、私を見つめた。思わず体が引きつった。細められた目は、蛇の目だ。瞳孔が細まり、人間とは思われない。脳裏に浮かぶのは蛇だ。白い蛇が私の腕に絡みつき、縛り付けようとしている。手のひらが汗ばみ、背中に冷や汗が流れた。蛇の目に射すくめられ、私は身動きがとれない。やはり、許してなどいなかったのだ。唾を吐き捨てたことも本当は悔いていないに違いない。

「あなたは」

女が言葉を吐き出せば、薄い唇が開き、赤く細い舌が見えた。ちろちろと酒を嘗めていた舌。その舌が私の頬に嘗め上げるのではないか、そんな予感に震える。だが、私の頬を嘗める舌はなく、ただ唇が開閉するだけだ。声は、聞こえなかった。

「聞いていらっしゃる?」

さらに細められた目に、素直に頷きを返す。私にはそうするしか手段がない。はやく逃げ出したい。はやく離してくれないものか。願うのはそればかり。この女の懐に入り込もうとすれば、逆に喰われるに違いない。命は惜しい。

ぎゅっ、と力強く手を握り込められた。息が止まる。

「私の名前を、呼んでくださいませんか?」

甘ったるい声が耳に入り込む。罠だ、と思う。ひんやりとした甘い声は耳から脳に忍び込み、本能をくすぐる。その声は男の本能を引きずりだす声をしていた。

「……私の名前は、ジャーファルと申します」

知っている。そのことは女も理解しているのだろう、蛇の目には愉快そうな色が浮かんでいた。

「ジャーファル、殿」
「ええ、幾度でもお呼びになってくださいませ。あなたの声は心地よい」

そう囁くと女は、私の肩に頬を寄せた。視線が外れ、安堵の息がこぼれる。女の体は私の体にぴたりと寄り添い、隙間はなかった。腕にやわらかな膨らみが当たっていることに気づいたのはその時だ。やはりこれは色仕掛けなのだろうと結論づけて、動揺を消そうと努める。

もしこれが、見目麗しい女であれば、今頃はこの長椅子の上で睦み合っていたかもしれない。欲望をくすぐられ、本能を引きずり出され、たまらず女を押し倒す。服を剥ぎ、体をまさぐっていると、女が叫ぶのだ。誰か、この人が、と悲痛な声で助けを求め、その声を聞き止めた誰かが部屋に飛び込んでくる。部屋にいるのは、押し倒され震える女と、覆い被さっている男だ。浮かんだ想像に心臓が冷える。

私の理性を留めているのは、女への警戒心と、それから見目だった。女の容姿は十人並みで、たくさんの女たちに紛れ込めば、馴染み、すぐに見つけだすのは難しいだろう。また、男の欲望をそそる顔立ちでもなかった。

そういえば、幼い頃、隣に住んでいた子はこのような容姿だったな、と考えた。銀色の髪以外は、同じような容姿であった。黒目がちな目に、頬にはそばかすが浮かび、いつも物悲しげに笑っていた。私の器量がよかったら、きれいな衣装着て、たらふくご飯食べて、お金だって、と呟いていた。男に体を売り、糧を得る仕事が果たして本当に幸福なのか、その疑問はあったが、少なくとも彼女は飢えるよりはそのことを望んでいた。

する、と女の左手が太股の上に置かれた。白い腕は白い蛇を彷彿とさせる。手のひらがゆっくりと太股を撫でる。女は何を言うでもなく、手を絡ませ、足を撫でた。単調な動きであったが、ぞくぞくと背筋が震える。恐怖か、それとも別の何かか。私には判断が付かない。わかっていることといえば、今すぐにこの場から逃げ出したい、そう願う気持だけだ。その癖、いつまでもこうしていたかった。不思議なことだった。心惹かれる要素はかけらもなく、好意が膨らむでもない。ただ欲望だけを撫でられ、重く冷たい空気に支配されている、そんな気がした。

――蛇に睨まれた蛙。
今の私はまさしくその通りであった。蛇を前にした蛙を見たことがある。固まっている内に何故逃げぬのか疑問に思っていたが、なるほどこれは逃げられるものではない。動けば最後、すぐさま呑み込まれ、腹の中かもしれぬ。だが、動かなくとも呑み込まれ、腹の中だ。蛇に喰われぬ方法は、蛇と出会わぬことだ。もう遅い。あの時の蛙は、私が掴み、池へと放り投げた。だが、この場には私を掴み上げ、安全な場所へ投げ出してくれる手はない。

女が何事か呟く度に、赤い舌でちろちろと嘗められているような気分になった。果たしてこの蛙は美味いものか、確かめるように蛇は何度も何度も舌を出す。

一体どれほどの時間が過ぎただろう。いい加減、止めを刺してくれぬものか、と思っていた時に、体を離された。するりと解かれた腕は、やはり蛇のようなしなやかさで離れ、肩に押しつけられてた頬も、腕に触れていた膨らみの感触も一瞬で消え失せた。

「ご迷惑ならば、そう言ってくだされば良いのに」
「……申し訳、ありません」
「やっぱりお嫌だったのですね」

気分を害した様子もなく女は笑っている。笑いながら、再度腕を絡ませてきた。

「あなたが振りほどかねば、私、ずっとこのままにしておきます」
「酒、を、飲めないのでは?」
「では、あなたが飲ませてくださいますか」

女の左手が、私の、杯を持った右手を引き寄せた。すこし傾けると、舌を伸ばし、酒を嘗めた。

「私、たまに行儀の悪いことしたくなるんです」
「はあ」
「誰かに叱ってもらいたくて」
「そんな行儀の悪い、と?」
「だって、私のことを見ていてくれるから、叱ってくれる訳でしょう?ですから」

私を見て欲しかった、特別にして欲しかった、と呟いた女の言葉が浮かぶ。この女は誰かの特別になりたいのだろうか。

「馬鹿馬鹿しいと笑いますか」
「いえ、笑うなど」
「……お優しい方」

細められた女の目には好意が浮かび、先ほどのように恐ろしい蛇の目はしていなかった。それだけで安堵し、気が緩む。

「私、思い違いをして、しまいそうです」

手を握り締める力がわずかに強くなった。逃がすまいとする強さではなく、縋るような強さだった。女は顔を伏せ、じっと身を竦めている。その姿は頼りなく、抱きとめなければならないと思わせる儚さを備えていた。空気に流されそうになりながらも、身動きが取れず、私は黙り込む。

目の前の姿と、先ほどまでの恐ろしい蛇の姿が交互に浮かび、思考を迷わせていた。もし、本当に素直な好意を抱いているのだとすれば、同情心から抱きとめるぐらいはするだろう。だが、それを信じるのは難しかった。唾を吐き捨てられ、憎まれるぐらいのことをしたのだという自覚はある。だからこそ、目の前の姿を信じることができない。

色仕掛けのつもりならば、蛇の姿であのまま飲み込んでしまえば良かったのだ。でも、そうはしなかった。そもそも色仕掛けをしてなんになる。復讐のつもりか。無理矢理犯されたのだと訴えれば、誰も女の言葉を疑わず、私の信頼は地の底だ。そのことくらい自分でもわかっている。

女の真意がまったく掴めない。探ろうにもどうやって探ればいいのか皆目見当もつかなかった。

「……何も、お答えにならないで」

か細い声が懇願する。こうしていられればいい、そんな言葉が聞こえてくる気がした。気のせいだ。しばらくの間そうしていたが、やがてあっさりと手のひらは離された。

「また明日も、この部屋で会ってくださいますか?」
「はい……」

答えたのは無意識だった。潤みを湛えた黒い目は、愛らしさより哀れさを誘った。断るのは非人道的なことであると思わせる目を前に、あなたが怖いから無理だとは到底言えない。

女は嬉しそうに笑った後、「それでは明日も早いのでお先に」と酒瓶と杯を片付け、部屋を後にした。


足を引きずるようにして部屋に帰れば、同室の者は既に寝ていた。街は楽しかったのか、満足そうな顔をしている。確か賭博場や娼館があるという話だったな、と思い出す。ここ最近女を抱いていない、そんなことを考えながら、寝間着へと着替え、寝台へ身を投げ出した。話をし、酒を飲んだだけなのに、ひどく消耗していた。また明日も同じ目に合わなければならないのかと思えば、ため息を吐き出したくなる。

寝台に横たわり、女の言動を脳裡に浮かべた。女から離れて考えれば、やはりあれは演技であろうと思えた。動揺させるために様々な顔を覗かせただけだ。動揺させ、つけ込み、弱みを握る。目的は、復讐か、もしくは私と同じように国の情報を得たいのだろう。そう結論付けると、心が軽くなった。そのことが、少なからず振り回され、手中へと落ちかけてたことの証しのように思えて、眉を顰める。だが、大体の思惑は掴めたのだ。目的が判明すれば、出方も考えられようというものだ。しばらくは相手に主導権を握らせ、綻びを見つけるためにじっくりと観察すればいい。

方向性も決まり、安堵から欠伸が零れた。目を閉じれば、すぐさま睡魔が覆い被さり、深い闇へと落ちた。


第一夜 終

  
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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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