先輩と後輩
※痴漢ネタ
「ねえねえ、先輩」
何をするでもなく、図書室の机にだらりとした姿勢で頬をくっつけていたひとつ下の後輩がどこか甘ったれた声で呼ぶ。視線をノートに落としたまま、なんだい、と問い返すと同じ調子で問いかけてきた。
「こないだ痴漢にあったって聞いたんですけど」
ぱき、とシャープペンシルの芯が折れて飛んだ。
「……シン?」
ノートに視線を固定したまま、問う。筆はちっとも進まない。
「はい、この間の日曜日にひとりで出掛けたらって」
「……」
同じクラスで幼馴染みといってよいほどに付き合いの長いシンは少しばかり口が軽い。気を許した相手にならばあっさりとなんだって話してしまう。そういうところを好んではいたけれど、たまに配慮に欠けるのが瑕だ。絶対に誰にも言わないでください、と言っておいた筈なのだが。息を吐き出し、目の前の後輩を睨みつける。
「忘れなさい」
「よく合うんですか」
痴漢、と人の言葉は無視して続けた。
「あれは、私服だったから」
自分の顔立ちが女性的であることは理解している。身長はそう低くないが、体つきが逞しくないことも理解している。余裕のある私服を好むものだから、体格が分からなくなってしまう。それらの要因が重なってのことだと暗に伝えた。意図は伝わったのか、ふぅん、と鼻を鳴らす。
「じゃあ、制服だったら大丈夫なんですか」
質問に口を噤む。
「……先輩」
どこか哀れむような視線で人の顔を見つめてくる。
「きみには関係ない」
にべなく言ってみせるが、頬が赤らんでくるのが分かった。恥ずかしさと情けなさが同時に襲ってきて、後輩に話してしまったシンへの愚痴が零れそうになる。もう一度、きつく釘を刺しておかなければ。
「いやいや、関係ありますよ!大切な先輩が大変な目に合っていたら助けるのが後輩ってもんでしょう」
何をそんな必死になることがあるのか、だらしない姿勢から一転、身を乗り出して人の両手を握り締めて訴える。急に大きな声を出したものだから、カウンター席に坐っている図書委員が咳払いで注意を促した。委員の子にへらりと笑みを向けた後も両手は握り締めたままだ。手を引っ込めながら、
「ありがたいけど、ひとりで対処出来ますから」
そう言えば、対処、と単語を繰り返す。
「あんなもの突き出せば済む話です」
「じゃ、この前の痴漢も突き出したんですか」
「それは……」
言い淀めば勘付かれてしまうだろうに、口は思うように嘘を吐かなかった。最初は突き出すつもりだった。込み合った電車の中で、臀部に触れる手のひらの意図に気付くのにそう時間は掛からない。頻繁というほどではなかったけれど、悲しいことに慣れてはいた。学校が終わってから隣街まで足を伸ばす際に電車を利用するのだが、その電車内で体に触れてくる奴がいるせいだ。シンと一緒の時は不思議とそういうことはなかった。大抵、ひとりの時に狙われる。そんなにもつけ込みやすいような顔をしているのだろうか、と険しい顔立ちを作ってみたこともあるが効果はなかった。
思い違いにしろなんにしろ、男子高校生の体など触ってなにが楽しいのか。溜息を吐き出し、眉間に皺を作る。駅に着くまで耐え、逃げる前に手首を掴み、駅員に突き出す。一連の動作を頭の中で繰り返し、時が過ぎるのを待つ。大きな手のひらは円を描くように臀部を撫で上げ、時々、尻たぶを持ち上げるように動いた。腹の底からふつふつと怒りが沸き上がり、舌打ちしたくなる。出来るならばここで殴りつけ、思いきり罵倒したい。だが、そうすれば周りの注意を引くだろうし、なにより男に痴漢されている事実を知られるのは避けたかった。唇を噛み締め、駅員に突き出す瞬間を思い浮かべ、溜飲を下げようと努めるがなかなかに難しい。男の指は臀部の割れ目をなぞるように動く。嫌悪に粟立つ肌を擦り、息を殺す。突き出すだけではなく何発か殴らなければ気が済みそうになかった。
不意に指が離れた。安堵と同時に、焦る。いまのうちに誰が触っていたのか確認しなければ、殴ることも突き出すことも出来ない。振り返ろうとした瞬間、電車が大きく揺れ、人の固まりが押しつけられる。これでは特定するのは難しい、とちいさく舌を打った。人の体温がぺったりとくっつく。決して心地良いとは言えない体温の塊に溜息が零れた。込み合っている電車では仕方ないとはいえ、不快なものは不快だ。はやく外に出たい、と視線を窓へ向ける。大きな揺れは収まり、一定の揺れが戻って来る。隙間なくくっついている体温からは逃れられるな、と今度は安堵の息を吐いた。しかし、不快な体温はいまだくっついたままで、離れる気配がない。理解よりはやく血の気が引いた。すぐ耳元で粗い呼吸が繰り返されている。時折、匂いを吸い込むような気配に怖気が走った。なにより逃げぬようにと背後から掴まれた腕と、臀部の辺りに押しつけられる塊に頭が真っ白になる。それが何かわかってはいるが、理解したくなかった。小刻みに揺れながら擦り付けられる塊から逃げようにも思考は固まったままだ。自分らしくもないと叱咤しようが、体は動かない。ちいさく呻く声が耳元で響き、しばらくしてから体温は離れていった。その後すぐに電車は目的の駅に付き、扉が開くと同時にふらつく足を必死に押さえ、トイレの個室へ駆け込んだ。見たくはないが、確かめなければならないことがあった。恐る恐る背後の、臀部の辺りを見てみるが特に変わったところはなく、安心のあまり座り込みそうになる。擦り付けられた上に、なにか染みだとか液体だとかそんなものがくっついていたら立ち直れない。
忌まわしい記憶を封じるように首を振るった後、呻くように言葉を絞り出す。
「……大丈夫、バスだってあるし」
「先輩……」
哀れむ色は更に濃くなって、無性に苛立たしい気分になる。だけど、これは八つ当たりだ。八つ当たりしても仕方ないと気分を変えるために、ノートに向き合う。ここ最近、もうひとりの後輩は家の用事で席を外していた。要点をまとめたノートなりあれば、勉強会を再開した時に便利だろう。
「ねえねえ、先輩」
しばらくしてから、後輩がやっぱり甘ったれた声で呼ぶ。顔を上げずに、なに、と問い返す。
「今度、どこかに出掛ける時は俺を呼んでくださいよ」
「どうして」
「俺が一緒だったら、バスだって電車だって安心して乗れるでしょう?」
視線を向けてみれば、にこにこと笑う後輩の顔があった。なにが嬉しいのか、名案を思い付いた子供のように無邪気な笑顔で、見ていると自然と口角が持ち上がる。
「きみは優しいね」
「やー、そんな、もう、ねっ!」
照れているのか、頬を赤くして頭を掻く。口の中でもごもごと、ただの下心っていいますか、などと呟いている。
「そうだね、今度、電車に乗って出掛ける時はきみを呼ぶよ」
「はいっ!あ、俺の番号とアドレス教えますね」
いそいそと携帯電話を取り出し、ちょっと失礼します、と持っていたシャープペンシルを取り上げ、ノートに数字とアルファベットの文字列を書き込んだ。
「家に帰ったら、連絡してください。待ってますから」
自室の机の上に置いたままになっている携帯電話を思い浮かべながら了承すれば、満足げにうんうんと頷く。
「で、次の日曜日とかどうですか?」
「……次の日曜日に出掛けるなんて一言も言ってないよ」
「予定でもあるんですか」
「ない、けど」
「俺、参考書とか欲しくて、先輩に選んでもらえたら超安心っていうか」
ね?と両手のひらを合わせて首を傾げてみせる。おねだりする子供のような仕草に苦笑が零れた。仕方ないなぁ、と諦め混じり呟けば、やったー!と叫んで図書委員の子に叱られた。
2011.0525
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