~2015 | ナノ


お化粧なんてしたことがなかったわたしに千石くんがマスカラをくれた。千石くんは明るくてみんなの人気者で、わたしは地味で目立たない。そんな正反対のわたしに、千石くんがマスカラをくれた。「君に似合うと思ったから」と素敵な笑顔付きで。わたしはその時千石くんがみんなの人気者である理由がわかった気がしたんだ。
その次の朝、わたしはいつもより少しだけ早起きをして鏡の前に座る。鏡に映るわたしは冴えない女の子だったけれど今日のわたしには千石くんのマスカラがある。慣れないビューラーはまぶたを挟まないか怯えながらだったけれど、なんとか上向きになったまつげはわたしのものではないみたいだった。千石くんのマスカラはチョコレートの色で、甘い香りがした。塗ればダマになったけれど、チョコレートの香りはわたしをいつもより女の子らしくしてくれた。





「あ、つけてきてくれた!」


千石くんがわたしに駆け寄り、顔を覗き込み、おはようよりも先にそう言った。気にかけてくれたことが嬉しくって、真っ直ぐ正面から顔を直視されたのが恥ずかしくて、きっとわたしは赤面しているだろう。


「やっぱり可愛いね」
「そ、そんなことないよ」
「ううん、可愛い」


千石くんがまぶしい笑顔でわたしのことを可愛い可愛いって言うから、もしかするとわたしは本当は可愛い女の子なのかもしれない。そう自惚れてしまうくらいの力を千石くんが持っているのだと思う。





最近可愛くなったよねえ、と友達に言われたのは千石くんにマスカラをもらった一週間後のことだった。マスカラをつけてから、千石くんは毎日そのきれいな瞳でわたしの顔を覗き込みに来てくれる。わたしは千石くんの魔法にかけられて、どんどん可愛い女の子になっていったようだ。そして千石くんとよく目が合うようになったのは、わたしが千石くんのことばかり見るようになったからだろうか。わたしは恥ずかしくて上手く笑えないのだけれど、千石くんは必ずわたしに笑いかけてくれる。それが嬉しかった。


「可愛くなったね」
「千石くんのおかげだよ」
「俺の?」
「千石くんが魔法をかけてくれたの」
「そっか」


千石くんはくすくすと楽しそうに笑う。魔法なんてバカみたいなことを言ってしまっただろうか。頭の上に手のひらの感触がする。千石くんがわたしの頭を撫でている。


「でも、それは、君が頑張ったからだよ」
「え?」
「俺があげたマスカラ、頑張って練習してるんでしょう?」


上手になったよ、と千石くんがわたしの顔を覗き込む。すぐ近くに千石くんの顔がある。心臓が止まるかと思った。


「もっと可愛くなれる方法を教えてあげる」


千石くんが耳元で内緒話のようなひそひそ声で言う。わたしは耳を傾ける。


「恋をすると、女の子は可愛くなれるんだ」





次の朝、いつものように鏡の前に座ったときに、千石くんにもらったマスカラがもう無くなったことに気づいた。たくさん練習に使ったからだろうか。わたしは泣き出したい気持ちになった。

学校に行っていちばんに千石くんに声をかけようと思ったけれど、千石くんは女の子と一緒だった。楽しそうに笑う千石くんたちの中は入っていきにくい。
千石くんの隣に居たのは可愛い女の子だった。思い返せば千石くんの周りにはいつも可愛い女の子がいた。ちょっとでも自分のことを「可愛くなれた」と思ったことがばかばかしくなる。千石くんはわたしの些細な変化なんて、きっとすぐにどうでもよくなってしまうに違いない。わたしがどんなに背伸びしてお化粧して飾ったって、千石くんには可愛い女の子がたくさん、たくさん居るのだから。


「あれ?お化粧やめちゃったの?」


女の子の群れから飛び出した千石くんが、今朝も、おはようより先にわたしの顔を覗き込んだ。「可愛かったのになあ」と言った。泣きたい気持ちは止まらなかった。お化粧しなきゃ、わたしは可愛いって言ってもらえない。


「別に、わたしが可愛くなくても千石くんには関係ないよ」
「どうしたの?」
「千石くんの周りには可愛い女の子がいっぱいいるもの」


千石くんがひどく傷ついたみたいな顔をしていて、わたしはこんなのただの八つ当たりでしかないと思った。謝ろうと思ったけど、声が震えて上手く言えなかった。


「ごめんね」


わたしが言うより先に聞こえた言葉は千石くんのものだった。わたしは回れ右して来た道を引き返す。魔法が解けてしまった。





薬局の化粧品売り場は独特の甘い香りだった。滅多に立ち寄らないそこには、カラフルな魔法がたくさん売っているようだった。千石くんはこのたくさんの魔法の中から、わたしに似合うものを選んでくれたのだろうか。わたしはそれなのにひどいことを言ってしまった。早くチョコレートのマスカラでもう一度魔法をかけて、可愛いわたしになって、千石くんに謝らなきゃ。
だけどチョコレートのマスカラはどこにも売っていなかった。3件目のお店を出たところで、千石くんを見つけた。オレンジの髪は目立つからすぐにわかる。思わず逃げ出しそうになったわたしを見つけた千石くんが走ってわたしを捕まえる。


「やっと見つけた!」


千石くんは息を切らしていて、走り出したわたしを追いかけて探してくれたのだと気づく。千石くんは優しい。それなのに傷つけてしまった。


「さっきはごめんね」


わたしが謝るよりも先に、また千石くんが謝った。慌てて「違うの…」と発した声はとても頼りなかった。


「マスカラ、もうなくなっちゃって」
「それじゃあ一緒に買いに行こう」
「う、でも」
「でも?」
「わたし、可愛くなんてなれない」
「なんで?可愛いよ?」


千石くんの目にわたしはどう映ったのだろう。何の疑問も持たない顔で、可愛い、なんて言うからどうしていいかわからなくなる。


「千石くん、ごめ」
「謝らないでよ」


千石くんの人差し指がわたしの口をふさぐ。


「君はなんにも悪くないから」
「でも、さっきのはやつあたりで…」
「いいんだよ」
「え?」
「さっき妬いてくれたんでしょ」
「え、そんな」
「可愛いよ、君は可愛い、ほかのどんな女の子より、君がいちばん可愛い」
「…本当?信じていい?」


わたしの手をぎゅうっと強く握りしめて、千石くんが笑う。


「言ったでしょ、恋をすると女の子は誰でも可愛くなれるんだ」




20120213/女の子は誰でも