~2015 | ナノ

ふにゃりと笑った顔が好きだと思った。そのだらしのない笑顔はわたしだけに向けられるものではないことにすぐ気づいたけれど、好きだと思ってしまえばあとは加速して行くばかり。

「千石くん?!どうして?!」
「やめなよ、女好きって噂だよ!」

まるでわたしが悪いことでもするかのように批難の言葉を幾つも並べる友人に、わたしはうんともすんとも言えなかった。女好きは噂じゃなくてほんとうだ。彼を好きになってはだめかもしれない、近づいてはだめかもしれない。友人たちの忠告を聞き入れ引き返せばよかったのかもしれない。そうわかっていたけれどあのオレンジ色の頭にはなぜか引き寄せられる。好きになっちゃだめ、好きになっちゃだめ。頭の中で何度も唱える言葉に効力なんてないのかもしれない。
千石くんは笑う。


「あれ?前髪切ったでしょ、かわいいね」


千石くんは笑う。ふにゃりと目を細め笑う。ほんの少しの変化も見逃さない千石くんの瞳に見つめられるとわたしはそれはもう溶けてしまいそうだった。まるで真夏のアイスクリームのように、溶けてしまうのは一瞬だ。
好きになっちゃだめ、は、好き、と同じだ。




「もしもし」
「今日は会えないんだ」
「うん、ごめんね」
「好きだよ、きみのこと、大好き」


目の前にはわたしの大好きな笑顔、そして向けられる相手はわたしじゃない。千石くんの携帯電話は絶え間なく千石くんを呼び出す。ラインの通知音は分刻み。一時間に一回は電話の呼び出し音。わたしとのデートの最中に千石くんはどこの誰とも知らない女と話している。わたしの目の前でわたしの大好きな顔でわたしの知らない女に愛をささやいている。それがわたしたちの普通だった。わたしと千石くんは恋人同士ではない、こうやって二人並んで映画を見た後ファミレスに立ち寄り向かい合ってご飯を食べ、デザートのアイスクリームを待っている、デートのようなことをしているけれど、わたしたちは恋人同士ではない。千石くんにはわたしみたいな女の子がたくさんいるし、わたしもそれを理解した上で千石くんのたくさんの女の子の中の一人になったのだ。
だからわたしが家で千石くんと電話で話した時に、受話器越しに聞こえる千石くんの背景が騒がしくても気にしないし、「キヨくん、電話だあれ?」という甘い声が聴こえても気にしてはいけなかった。
わたしは千石くんが電話をしている間、一切の声を出さなかった。相手にわたしの存在を知らせないように呼吸すらもひそめていた。


「お待たせいたしました」


可愛いエプロンを身に纏った若い女性の店員は、さっき注文を取るときに来てくれた人と同じだった。千石くんが「かわいいね」と声を掛けていたので覚えている。アイスクリームを受け取るときに一瞬気の毒そうな表情をわたしに向けたが、「ごゆっくりどうぞ」と気持ちの入っていない言葉を残して店員はすぐに立ち去った。


「うん、来週なら会えるよ」


千石くんは電話を切ろうとする様子はない。ついつい長電話をしてしまうことはわたしもあった。その時千石くんと一緒にいる女の子はこんな気持ちだったのかと思うとなんだかいたたまれないような気持ちでいっぱいになった。
アイスとけちゃうよ、と言うか言わないか迷っているうちに、千石くんの電話は終わった。


「ごめんね、アイス溶けちゃったね」


ごめんねという言葉にはなんの反省も込められていないんだ、と思った。それでもわたしは怒ってなんかいなかったし、ただ千石くんがいつものように笑っている顔を見られたらそれでいいと思った。
向かい合うわたしたちの丁度真ん中辺りに置いてあるアイスは、周りから溶けはじめていて小さな器に真っ白な湖を作ろうとしている。まだ溶けていない場所をスプーンで掬い口に運ぶと甘ったるい香りが広がった。


「美味しいね」


千石くんは溶けたアイスを食べながら、入り口のほうを指さして「あの子たちすごくかわいいね」と笑っている。「そうだね」とわたしも笑い返すと千石くんは嬉しそうでわたしはそれが嬉しかった。のんびりアイスを食べていると、千石くんの携帯が大きな音を鳴らした。


「ごめん、電話だ」


千石くんが電話に出ると、電話の向こうから女の子の甲高い声がわたしにまで聞こえてきた。内容まではハッキリとわからないけれど女の子は泣いているようだった。千石くんが眉を八の字に下げて困っている顔からも想像できた。


「千石くん」
「え、あ、ごめんちょっと待ってて」
『キヨくん、今誰といるのよお!』


わたしが千石くんに呼びかけるとすぐに千石くんは電話の向こう側の女の子に謝った。しかし相手の女の子にわたしの声が聴こえてしまったらしい。女の子の怒鳴り声が今度ははっきりと聞こえた。
千石くんが携帯電話を置いて困った顔でわたしを見た。『ねえ、キヨくん』『キヨくんってばあ…』女の子は怒鳴るのをやめてしくしく泣いているようだった。


「わたしはいいからその子のところに行ってあげて」
「…でも」
「いいの、気にしないで」


「ありがとう」と困ったように笑う千石くんの顔は寂しかった。「ごめんね、今行くから」そう言って泣いている女の子を上手くなだめられたのか、すぐに電話を切った。


「…おれ、泣かせたいわけじゃないのにな、皆のこと本気で大好きなのに。それって駄目なのかな?」


疑問符がついているけどわたしに問いかけているのではない、独り言のように聞こえた。


「どうして千石くんは一人しかいないんだろう」


わたしも独り言のように返した。千石くんはすぐに立ち上がって携帯電話を握りしめた。わたしの独り言には答えずに、もう一度「ありがとう」と言って店を出た。カランコロン、と音がして扉が開き、千石くんが出ていくのを見送った。千石くんが二人いればいいのに、と思う。いや、二人じゃ足りない。三人、四人、五人、六人…。わたしの頭の中で千石くんが増え続ける。千石くんがあと何人いたら足りるだろう、そうしたらもう千石くんが好きな女の子は泣かなくなるのに、そうしたらもう千石くんが悲しまなくて済むのに。テーブルの真ん中にはわたしと千石くんの食べかけのアイスが残されたままだ。もう原型をとどめていないそれを残してわたしも席を立つ。
今度千石くんに会えるのはいつだろう、女の子が大好きな千石くんが、女の子に「かわいいね」と言い笑う姿を早く見たかった。


20150731