~2015 | ナノ

鏡の前に立つわたしは、いつもなら着ないような色のワンピースで、なんだか別人のようだった。似合わないだろうか、と何度も着替え、ベッドの上には脱いで、着て、また脱いで、を繰り返した沢山の洋服が散らばっている。結局一番最初に決めていた、今日この日のために買ったワンピースを身に纏い、こそばゆい思いでわたしの心臓ははちきれそうだった。ずっと前に勇気を振り絞って聞いた、好きなタイプは、「清らかな女子」。それってわたしとは違う女の子のことかなあってその日の夜は眠れなかった。部屋を出ようとした瞬間、ベッドの上に散乱したお洋服に気が付く。清らかな女の子は、柳生くんが好きな女の子は、お部屋もきっと綺麗にしている。そう思うと自然と足が止まり、ベッドの上のお洋服を一枚一枚丁寧に畳んでタンスへとしまっていた。いつもより丁寧に行ったせいで、時計の針は家を出る予定の時間を過ぎていて、わたしはあわてて家を飛び出す。





「柳生くん、遅れてごめんね」
「いいえ、私も今来たところです」


待ち合わせ場所にはすでに柳生くんがいた。いつものようにピンと背筋を伸ばす立ち姿は他で見たことのないくらい綺麗だから、たくさんの人がいる街中でもすぐに気が付いた。待ち合わせの三十分前にはここへきて、今柳生くんが言ったのとまったく同じセリフをわたしが柳生くんに言うつもりだったのに。待ち合わせから五分遅刻したわたしを柳生くんはやわらかい笑顔で受け入れてくれた。「では」と、右斜め上から柳生くんの声が聞こえる。それと同時に右手に暖かい感触がする。「行きましょうか」、柳生くんはスマートにわたしの手を繋ぎ、歩き出した。柳生くんが歩幅を合わせてくれているのがわかる。紳士の肩書き通りの紳士的なところがすごく好きだなと思った。



水族館に着くと柳生くんは慣れた手つきで入場券を買い、わたしの手を引いてくれた。お財布を出す隙も与えられなかったので慌ててお財布を鞄から引っ張り出す。


「お、お金…」
「いいんですよ」


言い終わる前にさえぎられる。「デートなのだから、当然ですよ」、デートという言葉に心臓がはねる。優しく聞こえた彼の言葉に今日は甘えさせてもらおう。素直にありがとうとだけ伝えると、柳生くんが笑ってくれた。





水族館へ行こうと誘ってくれたのも柳生くんからだった。その日はわたしの委員会が長引いて、たまたま柳生くんと帰りが一緒になった。「遅いから送ります」と、わたしの家へと向かう帰り道の途中だった。


「今度の日曜日は部活が休みなんです」
「珍しいね」
「貴女の予定は?」
「ううん、特にない」
「では水族館に行きましょう」


きゅうんと、心臓が震える。柳生くんが時間、待ち合わせ場所、と、ぽんぽんぽん、と提案し、わたしがうなづく。どんどん予定が決まっていく。今度の日曜日、柳生くんと二人で水族館。これは紛れもないデートだ。放課後も休日も部活の柳生くんと一緒に居られる時間は限られていたので、それは初めてのデートだ。奮い立つ心臓はせわしない。ドキドキ、と柳生くんにまで聞こえてしまわないか心配だった。





薄暗い館内で、繋いでる手だけがやけにリアルだった。休日の水族館は家族連れやカップルが多く、そこにわたしが柳生くんと来ているということが本当に現実なのか疑わしく思えるけれど、わたしの右手は柳生くんの左手に包まれている。水槽を泳ぐ魚たちを見ているふりをして、柳生くんの顔を盗み見る。眼鏡の奥に潜む切れ長の目は、優しい眼差しで色鮮やかな魚を見ている。わたしを見てる時は、どういう顔をしているんだろう。眼鏡の反射で良く見えないのと、まっすぐ見つめるのが少しだけ恥ずかしい。わたしを見ているときも、こんな風に幸せそうな瞳だったらいいな。
今日のために買ったワンピースがひらりと揺らぐ。清らかと聞いて浮かんだ滅多に着ない膝丈のワンピース。淡い色合いのワンピース。もう一度柳生くんの顔を見る。柳生くんはこっちを見ない。浮かんだ不安を打ち消すように、柳生くんの手をきゅうと握る。


「どうかしましたか?」
「ううん、なんでもない」
「顔色が悪いですよ」
「なんでもない、なんでもないの」
「そうですか」


柳生くんがどんな目でわたしを見ているかは、やっぱり眼鏡が反射してよく見えなかった。紳士的な柳生くんの優しさが、とても怖くなった、不安になった。せっかくの初めてのデートなのに、胸が詰まって苦しかった。
どうして、どうしてこんなに慣れているの?どうしてデートの場所に水族館を選んだの?好きなタイプの清らかな女の子と、前に、二人で来たのかなあって。そんな小さな醜い嫉妬を、柳生くんには知られたくないけれど。わたしは清らかではないし、今日のワンピースだって似合わない。可愛いってたった一言柳生くんが褒めてくれなきゃどんなお洋服も全部おんなじなのに。


「少し休みましょうか?」
「平気だよ」
「無理はしないでください」
「せっかくのデートなんだから」
「ですが、今にも泣きそうな顔をしているから」


優しさが苦しいなんて、そんなことを言えるわけがない。初めてのデートで、いっぱいいっぱいなのはわたしだけで、余裕の柳生くんに不安になって前の彼女に嫉妬していたなんて、言えない。清らかな女の子はそんなこと言わない、思わない。わたしちゃんと柳生くんの彼女でいられるかな。


「わたし、柳生くんが好きなの」
「はい」
「好きすぎて、もう、おかしい」
「どうしたんですか」


わたしの顔を覗き込む柳生くんの顔色は不安に満ちていた。そんな顔をさせたかったわけではなかった。こんな顔をしたかったわけではなかった。柳生くんまで不安にさせたいわけではなかった。


「今日はちゃんと楽しめていますか?」
「…」
「貴女に喜んでもらえないと、私は楽しめませんよ」
「わたしは、柳生くんが居ればそれで」
「私も貴女のことを、すごくすごく、好きなんです」
「柳生くん」


繋いでいたほうの、反対側の手も、柳生くんの手の中に納まっていた。両手から伝わってくる温もりにひどく安心する。どうしてさっきまであんなに、何を不安に思っていたのか分からなくなるくらいに。


「眼鏡を外してほしい」
「はい」


眼鏡を取った柳生くんの顔を、正面からじいっと見つめる。わたしを見ている目はさっき盗み見たときよりも、ずっとやさしい。「好きです」と、もう一度。柳生くんの声がする。押しつぶされそうだった心臓が、ぷかぷか浮かんでいくような感覚。「わたしも、好き」と、答えるとやわらかく微笑む柳生くんの素顔を、初めて見られた気がして。わたしはあの魚たちみたいに、上手く泳ぐことも水中で呼吸することもできないから、いつかきっと、このまま溺れて死んでしまうね。それって幸せだ。


ぶくぶく


20130528/一万打フリリク
まりこさんへ(柳生と水族館)
柳生は紳士なので事前にデートの計画をしっかり練ります。前に彼女がいたという事実は一切ございません。