※DV 降り続く痛みにただ耐えるしかできなかった。どうすれば許してもらえるのかわからなかったから。震える声で必死に吐き出す「ごめんなさい」の言葉も本心からくるものではない、それはもうわかりきったことだったので、怒りを増長させることしかできない。にいと口角を上げる口からは、もう、ごめんの言葉も聞けない。それがわたしは悲しくて涙を抑えられないのだけれど、それすらも彼の怒りへと変わる。 「そんなになってまであいつがいいのか?」 柳さんの言葉はいつも正しくて、確信めいていて、冷たい。もう聞き飽きたその言葉は痛いくらいにわたしの心に染みわたっていた。柳さんの言葉は正しいのだ。悲しいくらいに、正解だ正論だ。それに従えないわたしが、すべて間違っている、と、責めるようで、柳さんは冷たい。 もう何度目になるかわからない、逃げるように押しかけてきたわたしを柳さんはいつも何も言わずに受け入れてくれる。自宅とは大違いの片付いた部屋は一人暮らしにしては十分すぎるくらいに広々としている。余分なものなど一切見当たらず、整理整頓されたこの部屋は柳さんの性格をよく表しているなと何度も思った。 「傷は痛むか?」 「ちょっとだけ」 「全く、お前たちはいつまでも変わらないな」 柳さんが呆れたように笑う。腕に付いた切り傷の手当てをしながら。消毒は痛いから苦手だけれど、そのままにしておくとどんどん化膿し悪化するとずっと前に柳さんが教えてくれた。それも正しかった。現に消毒した傷は癒えていくのに、わたしの気持ちは放っておいたまま、どんどんどんどん悪化している。痛くて痛くてたまらないのに、治す方法は見当たらない。 「こうしているのがバレれば、また何かされるだろう」 「そうなんですけど」 「あいつはいつまでも子供だな」 「困りましたね」 「抜け出せないお前も、お前だ」 脚や腹部や背中に数か所の痣。柳さんだけが知っている。柳さんの細い指がわたしの痣に触れる。「痛い」と小さな声が漏れるが、柳さんはわたしの言葉なんて気にも留めずに、脚の、腹部の、背中の。わたしの痛みに触れてゆく。柳さんは口では冷たいのにわたしに触れる手はいつだって優しくてわたしはそのたびに堪えきれずに涙を流す。柳さんは決まってわたしの涙を拭い、泣きやむまで頭を撫でてくれる。 「こんなふうに泣いたら、赤也はわたしを殴ります」 二人で暮らすには狭すぎる散らかった部屋をまるで他人事みたいにソファーに座って眺めている。家に帰れば赤也は出かけていて、昨晩赤也が散らかした残骸だけがここには残っている。読みかけの漫画や雑誌、脱ぎ捨てたままの赤也の服、投げ捨てられたゲームのコントローラー、割れたガラスの破片。片づける気持ちにもなれない。どうせまたすぐに散らかってしまうのだ。いつまでたっても綺麗にはならない。むなしくなって一人で声を押し殺して泣いた。帰宅した赤也がまた怒るかもしれないと、頭の片隅で考えながら。 初めて赤也がわたしに手を挙げたのは、多分高校生の頃だった。赤也の部屋で二人だったとき。きっかけは全く覚えていない、おそらく些細な喧嘩だろう。きっかけの思い出せない喧嘩なんて付き合い始めてからもそれ以前からも数えきれないほどにあった。けれどそれまではごく自然に仲直りできた。どちらかが暴力を振るうことなんて、なかった。 赤也がわたしの肩をつかみ、その力が強くて、初めて赤也に恐怖を抱いたことを今でも覚えている。その次の瞬間にわたしの頬には鈍い痛みが走り、瞬間に殴られたのだと分かった。赤也が握ったこぶしは震えていた。 「…赤也?」 「……ご、ごめん」 赤也は震える手のひらでわたしの頬を撫でた。さっき当の本人が殴ったとは思えないくらい心配そうに不安そうに、撫でた。何度も何度も「ごめん」と繰り返していた。赤也の目から涙がぼろりぼろりとこぼれるのを見てわたしも泣いていた。 その翌日、柳さんに会ったとき、すぐに「頬が赤くなっている」と指摘された。上手い言い訳も浮かばずに口を噤んでいると、「赤也か?」と問われた。一つ上の柳さんはすごく大人だった。今も昔も。何もかもお見通しな柳さんのいつもは閉じられた瞳が開くことはものすごく怖かった。それと同時に何か救われた気がした。 「いいんです、わたしが悪かったんです」 そう言って誤魔化したことを覚えている。あのころは誤魔化したつもりでいたけれど、思い返せば柳さん相手にそんな適当な言い訳が通じるわけがない。話した記憶はないけれど、わたしが思い出せない喧嘩の原因を柳さんなら知っているのではないだろうか。もしかしたら赤也が話しているかもしれない。赤也もわたしも、学生時代から柳さんを慕っていた。そして赤也が話していなかったとして、柳さんならわたしたちのことを知っていても不思議ではないと、なぜかそう思えた。 「そんなに泣くならもうやめてしまえばいい」 「…柳さん」 「赤也が好きか?それとも怖いか?」 余計な音の一切ない広い部屋に柳さんのはっきりとした言葉と、わたしのゆらゆらした泣き声だけが響いている。柳さんは正しい、そして、とても、残酷である。 「お前はまだ気づかないんだな」 「何にですか?」 「おれがずっと待っているということ、だ」 わたしの期待を見透かしたような、瞳だ。待っていたってどうにもならないのは柳さんならきっとずっとわかっていた。救い出す勇気もないくせに柳さんは残酷だ。 鞄の中からカギを取り出し、玄関のカギを開けること。そこから始まる。ストラップの紐だけが残されてカギ穴からぶら下がっている。このカギを回せば玄関の扉が開いてしまう。ふうと一つ深呼吸をして、カギを回す。カギ穴から抜いて、カギをポケットに押し込みもう一度深呼吸。扉を開けたら赤也は怒っている?笑っている?それは大きな賭けである。けれどここがわたしの帰る家。 「ただいま」 「おかえり、早かったじゃん」 赤也は笑っている。安心したのもつかの間、すぐに右腕をつかまれた。さっき柳さんにしてもらった包帯が控えめに巻いてある右手を、赤也の手が力強く捕まえている。 「ちょっと、赤也、痛いよ」 普通に、普通に。赤也を怒らせないようにと笑っては見たものの赤也の眉間にはきつく皺が寄っている、ほんの数秒前までは可愛らしく笑っていたのに、今は意地悪く口角をあげている。右腕に込める力はどんどん強くなっていく。 「また柳さんのとこ行ってたんだろ」 その言葉と同時に、腹部に痛み。わたしの口からは用意されていたように「ごめんなさい」とこぼれる。その言葉すら赤也をいらつかせるのだろう、わかっているけれど、赤也の怒りを収める言葉をわたしは知らなかった。 「そんなに柳さんが好きかよ」 「ごめんなさい」 「なんで否定しねぇんだよ!!」 「…っごめんなさ……」 赤也の右手が振りかぶって、わたしはきつく目を閉じた。けれどいつまでも痛みはなく、恐る恐る目を開けてみると、赤也は泣いていた。 初めてわたしに暴力を振るったあの日のように、赤也がわたしを撫でる。赤くなった頬も、ガラスの破片で傷ついた右腕も、脚にできた痣も、お腹も背中も、優しく優しく撫でまわす。それを付けたのが誰なのか忘れてしまうくらいに、その手は優しい。赤也がうわごとのように涙でとぎれとぎれになりながらも「ごめんごめん」と繰り返す。 「本当はおれだってこんなことしたくねぇよ」 「…」 「お前、ずっと柳さんが好きなんだろ?」 「…わかんないよお」 わたしも赤也と同じように泣きじゃくる。赤也は今日は怒らなかった。ひどく傷ついているみたいな目でわたしを見ているだけだった。 「最初から柳さんが好きだったんだろ、だからあの日おれはお前を殴った」 「わかんない…」 「最初におれがお前のこと殴ったの、お前が柳さんの話したからだ」 「覚えてない」 「思い出せよ!」 「だって」 「ちゃんと思い出して、ちゃんとおれのこと好きって言えよ…」 「…す」 「そしたら、おれ、もうお前のこと殴ったりしないから」 赤也が泣いているのがとても悲しかったけれど、好きというたった二文字がすごく難しかった。柳さんの顔が浮かぶ。「待っている」と言った声が幻聴のようにわたしの耳を侵す。わたしは柳さんが好きなのだろうか。それとも赤也が好きなのだろうか。あの頃蓋をし嘘をつき通したわたしの心はもうわたしにすらわからなかった。赤也も柳さんも、ずっと待っていたのだろうか。わたしが答えを出す日を、待っていたのだろうか。 もう何年も前に考えるのを止め放り出した心の傷はどんどん化膿して痛む。もう、わたし、どうしていいか解んないよ。 溺れるいのち title:icy 130401/うそつきの話 |