~2015 | ナノ

ぼちゃん、と大きな音を立てて、携帯電話が川に落ちた。ゆらりゆらゆらと川の流れに沿って、買ってもらったばかりの最新機種のスマートフォンと、精市とお揃いで買って半ば無理やり精市につけさせた大きなうさぎのストラップは流れてゆくのだ。わたしはそれを見つめる。泣きたいような、だけれどどこかすがすがしいような気持ちで。





それを落っことしてしまった理由は、うっかりといえばうっかりだけれど、そのうっかりしてしまった理由は、画面に映し出された「幸村精市」の文字のせいだったといっても過言ではないだろう。わたしとたくさんの時間を共に過ごしてきたうさぎのストラップは、まだガラケーを使っていた頃は真っ白だったのに、今ではすっかり黒ずんで汚れている。スマートフォンに変えるタイミングで外してしまおうかとも思ったけれど、どうしてか外せなかった。精市の携帯に揺れるうさぎも薄汚れてしまったのだろうか。
わたしがそのうさぎのストラップを見つけたとき、どうしてもこれを精市とお揃いで持ちたいと思い、最後の二つだったそれを急いでレジへと運んだ。売り場の片隅で赤い値下げの札を貼られ、震えるように残されたその二匹を、どうしても救いたかった。
最初は「こんな可愛いものをつけるのは気が引けるよ」と笑ってごまかしていた精市に、そのことを話せば、しぶしぶではあったが、「それはまるで俺たちみたいだね」と笑い、うさぎは精市の手へと渡った。そんな付き合い始めの日のことを考えていたら、何度目かわからない精市からの着信があった。着信履歴はすでに「幸村精市」の文字で埋まっていたのだ。さっきからずっと着信音が鳴りやむのをただただひたすら待っていたけれど、なぜか、うっかり、携帯電話を握る手の力を緩めてしまえば、という考えが浮かんでしまった。


流されたのか沈んだのか携帯電話を見失ったので軽い足取りで家へと帰った。精市はまだわたしへと電話をかけているかもしれないけれど、もうそれはわたしの耳へは届かないし、わたしへとつながることはない。救い出したはずの二匹のうさぎは今ではもう黒く汚れ、ばらばらになってしまった。それもまるでわたしたちみたいだと思った。精市はまたそうやって笑うだろうか。まだ精市は笑ってくれるだろうか。





ピンポンと、チャイムが鳴ったので玄関へ行けば、扉の前で立つのは予想通り精市だった。重い扉を開けば額にうっすらと汗を浮かべた精市の姿が見えて、思わず笑ってしまいそうになるのをひたすらにこらえた。精市は睨みつけるようにわたしを見ていたけれど、すぐに安心したように「よかった」と漏らした。


「ずっと家にいたの?携帯は?どうして電話もメールも無視するの?」


精市はそこらじゅうを走り回ってわたしのことを探していたのかもしれない。わたしたちにとって離れ離れの時のコミュニケーションと言えば携帯電話がすべてだったから、それが繋がらないとなれば焦るのかもしれない。


「どこに、誰と居たんだ?」
「携帯、なくしたの」


疑いの色を隠さない精市の視線に、本当はうんざりしている。定期的にかかってくる電話の理由も、それをとれないとひどく怒る理由も、すべてはわたしの浮気を疑って阻止しようとしているからだろう。部活で忙しくて会えない時間が増えることに負い目を感じているのだろうか、精市はわたしを監視したがっている。もちろんわたしは浮気をするつもりなんて、一切ないのに。それなのに精市はわたしを疑っている。


「なくした?」
「川に落としたの」
「…馬鹿だな、心配するだろう」
「今日はずっと一人でいたよ」


精市の表情が疑いから安心に変わり、左手でわたしの頭を少し乱暴に撫でた。右手では携帯電話をポケットから取り出している。ポケットから引っ張られたうさぎのストラップはやはり少し汚れていて、それでもつけた当初と変わらずに、携帯からぶらりとぶら下がっている。精市はわたしの頭を撫でながら、誰かに電話をかけ始めた。「もしもし」「真田?」「すぐ戻るから」と、精市が言葉を紡ぐのもどこか非現実に思えた。電話の向こうは恐らく真田だ。部活を放ってわたしを探していたようだ。精市の顔の横で揺れるうさぎをぼーっと見つめながら考える。


「部活に戻るけど、いい子にしてるんだよ?」


同じ歳なのに聞き分けの悪い小さな子供に対してお母さんがするように、精市はわたしに言い聞かせた。頭を撫でる手はさっきまでより優しくなって、ますます子ども扱いだ。


「携帯は一緒に買いに行こうか。明日は部活が休みなんだ」
「明日まで連絡つかないね」
「だからいい子にしてろって言ってるだろう?」
「わたしがどこで何してるか精市には分からないね」
「どこでなにするつもりなんだ」


急に精市の声が低くなり、わたしの頭を撫でる手が止まった。さっきまで笑っていた口元もきつく結ばれている。怒っているのだと思う。精市はこうやってよく怒る。たとえばかかってきた電話にわたしが出そびれたとき。「今どこにいるの?」と問う声は冷たくわたしの耳に響くのだ。そうやって精市はわたしのことをいつも監視している。わたしの行動を把握しきるように、電話を、メールを、絶やしてはいけなかった。そんなの、部活をやめてわたしのそばにずっといれば、すべて解消される不安なのに。そんな簡単な方法があってそれには精市も絶対に気づいているはずなのに、精市が部活をやめることはなかった。


「携帯は買いなおせても、お揃いのストラップはもう手に入らないの」
「そんなの今はどうだっていいよ」


はあ、と大きなため息が響いた。それが精市のものだとは信じたくない事実だったけれど、この場にはわたしと精市の二人しかいないのだから、それは間違いなく精市のものだ。あのうさぎはわたしだ。薄汚れ川に流され今はもうどこにいるかわからない、あのうさぎはわたしそのものだ。あの日救われたはずのうさぎたちは、精市の言葉によって捨てられた。


「あのうさぎのストラップ、わたしたちみたいね」


精市は目を丸くしてこちらを見ている。前に自分の言った言葉を思い出しているのだろうか。そこからたくさんのことを思い出せばいいのに、と思う。わたしがまだ精市のことを幸村くんと呼んでいたときのこと。その頃はわたしたちはこんなに薄汚れてはいなかったのだ。わたしたちのつながりは携帯電話の電波だけではなかったのだ。


「わたしのうさぎは川に流されて遠くだよ」
「…でもお前はここにいるよ」
「気持ちは一緒に流されてるんだよ」
「何を言ってるの」
「どうして気づかないの」


精市はわたしの手を握る。「どこにもいくなよ」と、かすれた声でつぶやく。自分の言葉を押し付けるばかりで、彼がわたしの気持ちを決めつけて、見ていないことが、近くにいるのに遠いことがとてもとても悲しくて、精市の手を握り返す気持ちにはなれない。


「わたしのなかの一番はいつも精市だったのに、精市の一番はずっとわたしにはならなかったね」




精市はもう一度うさぎのストラップのついた携帯電話をポケットからひっぱりだして、恐らく真田と思わしき人に電話をかけた。「今日はやっぱり行かない」と。電話の向こうからは真田の怒鳴り声が聞こえたけれど、精市はそれを聞かずに電話を切った。うさぎのストラップは精市の手によって外され、そしてゴミ箱へと捨てられた。


「新しいのを買おう、またなにか選んでよ」
「うん」
「今度はかならず大切にするから」


返事をする代わりに精市の手を強く握った。精市は笑っていた。流されたうさぎはもうどこにもいない。


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電波依存の幸村とさびしい女の子