~2015 | ナノ

小さいころは手を繋ぐことが当たり前だった。公園で泥だらけになるまで遊んだ後の、汚いちいさな手を、二人でぎゅうっと握りしめて、隣同士の家まで帰ることが当たり前だった。いつからか自然と、手を繋がなくなり、今ではそれが当たり前だ。



「名前のこと好きなんだ、付き合って」


クラスメイトの石井くんがわたしのことを苗字じゃなくて名前で呼び出したのは最近の話だった。「あいつ、絶対お前のこと好きだよ。」と言った精市の声が頭の中で響き渡る。

それは昨日のことだった。わたしが石井くんと二人きりで一緒に帰ってきたことを知り精市が怒った。委員会でたまたま帰りが遅くなったのだ。石井くんはご丁寧にわたしを家まで送り届けてくれた。精市がわたしの家の隣の家に住んでいるとも知らずに、「遅いし暗くなったから家まで送るよ」と、それはもう紳士的に家まで一緒に帰ったのだ。隣の家の部屋の明かりがついているのを見て、わたしはあわてて石井くんに「ありがとうさようなら」と早々と別れを告げ、そのまま自宅ではなく精市の家に上り込んだ。石井くんは精市の家をわたしの家と思ったかもしれないけれど、そんなことは構っていられなかった。


「わざわざ言い訳しに来たの?怪しいなあ」


精市の家には本当に自宅のように上り込み、精市のお母さんにはただいまのかわりに「こんばんは!」と言う。「あら、名前ちゃん、ご飯食べていきなさいよ」と精市に似た優しい笑顔を向けてくれる。「とりあえず精市に大事な話があるの」、と二階の精市の部屋に向かうべく階段を駆ける。精市はわたしが弁解にくることをわかりきっていた。ずっしりと待ちかまえ、怪しいという割には精市は自信たっぷりの笑顔でわたしを見ていた。


「石井くんは委員会が遅くなったから送ってくれただけだよ」
「そう思ってるのは名前だけかもよ」
「どういうこと?」
「あいつ、絶対お前のこと好きだよ」
「石井くんが?わたしを?」


ないない、と両手を大きく振って見せても、精市は少し不機嫌な顔をするだけで意見を変えるつもりはなさそうだ。だいたい何の根拠があってそんなことを言うのだろうか。わたしは石井くんに好きだと言われたこともないし、そんな素振りを見せられたこともない。


「最近名前のこと名前で呼び出した」
「それだけ?」
「何も思ってないやつのことわざわざ家まで送ったりしないだろう」
「すごく心配性なのかも?」
「だいたい、名前も、悪いんだ」


そこから長々と精市の小言がはじまった。誰にでもいい顔をしすぎだとか、男相手にもボディータッチが多すぎるとか、気のない相手に優しくし、期待を持たせることをするな、とか。精市の言葉は右耳から左耳へするするりと流れていった。そんなの精市にも言えることなのになあとぼんやり考えながら。


「名前はモテるんだから、おれ以外のやつに気を持たせるようなことするなよ」


そこでわたしは初めてモテていることを知った。モテるというのは精市のような人のことを言うのだろう、わたしはモテたためしなんてなかった。


「石井くんは絶対わたしのこと好きじゃないってば!」


そう言い切ったわたしに、精市は呆れたようにため息をついた。


「痛い目にあっても知らないぞ」




それが昨日の夜の話だ。精市の言葉は見事大当たり。わたしは痛い目にあうかもしれない。石井くんがわたしの手を握っている。気持ち悪い、と瞬時に思う。けれど男の子の力は思ったより強いのだ。ぐいと抱き寄せられると抵抗もできない。


「石井くん、やめて」
「名前も俺のこと好きなんだろ?」


掌で石井くんの胸板を押し返そうとするけれど、しっかり回された両腕は固定されたままでわたしはそこから抜け出せない。昨日しっかりと精市の言葉を聞いていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。


「す、好きじゃない」
「は?」
「わたしが好きなのは、」


石井くんがわたしを抱きしめる力が強くなる。苦しい。気持ちが悪い。自分以外の人間が自分に触れることはこんなにも不快なことだったのだろうか。なぜかわたしは小さいころの精市の小さな手のひらの温もりを思い出す。あのときはこんなふうに気持ち悪いなんて微塵も思わなかったのだ。


「もう離してやってくれる?」


一瞬幻聴かと思った。けれどすぐに石井くんが腕を回す力が緩まったので、そこに精市がいることに気づいた。わたしはすぐさま石井くんの腕の中から抜け出し、後ろにいる精市の元へと駆け寄った。


「名前はおれのだから、もう近寄らないでね」


精市の静かな、けれどはっきりとした声が響く。精市の手がわたしの右手を捕まえて歩き出した。精市の手はあの頃ように小さくない、大きなおとこのこの手になっていた。さっき石井くんの手はあんなに嫌だったのに、精市の手はすこしも嫌じゃなく、むしろ心地よかった。ぎゅうと握り返すと精市の手の力も少しだけ強くなった。その手はあの頃と変わらず暖かくて、わたしはなんだか涙が出そうになった。またこうやって手を繋いで隣同士並ぶ家に帰ることが、きっと当たり前になるから。


小さな世界
20130305/誕生日おめでとうございます