※幽霊と日吉と女の子 死んでしまえばよかったんだ、と思う。もしもわたしが普通の人間には見えない幽霊だとしたら、きっと日吉にだけは見えただろう。家族や友達には見えなくなるし今のように話せなくなるだろう、けれどいっそ死んでしまえば。幽霊になったわたしを日吉はわたしを見つけてくれる気がした。死んだあとのことは解らない。幽霊なんてテレビの中の生き物で(生きていないけれど)、実際に見たことがないから本当にいるのかはわからない。死んだからといってわたしが幽霊になれるかどうかもわからない。 日吉は、今ここにいるわたしよりも、いるかいないか解らない幽霊のあの子を、見ている。見えているのかどうかは、見えないわたしには全くわからない。もしかしたら探しているのかもしれない。先月屋上から飛び降りたあの子は同じクラスの女の子だ。わたしはほとんど話したことがなかったし、多分日吉もそうだ。結局飛び降り自殺の原因は突き止められないままだった。いろんな噂が飛び交ったけれど、本人が居ないのだから真相は永遠の謎である。噂のほとぼりが冷めたころに新しい噂を耳にした。どうやら飛び降りたあの子の幽霊が屋上に現れるらしい。みんなは「ばかばかしい」と笑ったけれど、日吉の瞳は期待で輝いていた。 夏が近づいているといえ、夜風は少し冷たかった。びゅうびゅうと風が吹き、木々が揺れるのを上から眺める。普段見慣れている風景なのに、明かりが少ないだけでいつもよりずっと不気味に感じた。 「日吉、やめよ、帰ろう」 「怖いのか?」 わたしと同じように屋上から下を眺めながら、日吉が言った。どうやら機嫌が悪いらしい。今日はまだ目も合わせてくれない。 怖いのか、と聞かれればこの感情は確かに恐怖に似ている。けれどそれは日吉が想像している「恐怖」とはかけ離れているものだと思う。わたしが怖いのは、得体のしれない幽霊なんかではなく、その幽霊に日吉が連れて行かれてしまうのでは、ということだった。 「幽霊なんていないよ」 その言葉は日吉に向けたものではなく、自分自身を励ますための言葉だった。 「あの子はもういないよ」 「おれには見えると言ったら?」 「…信じられない」 「ずっと見えてるんだ」 日吉が指をさす場所には、ただ真っ暗な夜空が広がっているだけで、何もいない。日吉がこんなくだらない嘘を吐くとは思えない。けれどそこに死んだあの子の幽霊がいるなんて、もっと考えられない。 「いるの?」 「ああ」 「わたしには見えない」 「おれにしか見えないんだよ」 どうして日吉にだけ見えるのか?その疑問はすぐに消えた。仮にその場所にあの子がいるならば、それを見る日吉の視線はあまりに優しすぎた。優しく、切ない、真っ暗の中の月明かりのような視線で日吉はわたしの目には見えない彼女を見ていたのだ。今日、この場所に来てからずっと。 「好きなんだね」 「…っ違う!」 日吉がそう告げた相手はわたしじゃなく、あの子だった。わたしには日吉が一人で話しているようにしか見えないので異様な光景だが、会話をしているらしい。 「…わたし帰る」 「信じられないか?」 「…わかんないよ」 わたしは生きている。身体が透けてなくなったりしていなければ、手足だってしっかりある。手を伸ばせば簡単に日吉に触れることができる。だけれど日吉の目にわたしは映っていない。日吉にとってわたしはまるで透明人間だ。見えないあの子のほうが日吉の中でちゃんと生きている。 いっそわたしが死んでしまえば、そうすれば日吉はわたしのことを好きになっただろうか。だけれどわたしはここから飛び降りる勇気もなければ、ちゃんと在るこの手で日吉に触れる勇気すらなかった。 夜に溶ける 20120604 |