ぐいと足に力を込め、力一杯でペダルをこぐ。生ぬるい風が頬に触れる。束ねた髪が風に乗って揺れる。空は青と白の絵の具をたっぷりとって塗りつぶしたように鮮やかだ。じりじりと照りつける太陽がとてもとてもまぶしい。夏だ。 普段は運動なんてほとんどしないので、少し走っただけでも息切れしてしまう。それなのに今日は平気だ。全速力で自転車を進めることに少しの疲労も感じない。それどころか心地よさすら感じている。わたしをこんなにも動かす存在は何だろう。その答えはいつだって決まっているのだ。 びゅううんと風を切って長い長い坂道を下る。風が気持ちいい。この道をまっすぐに進めば見えてくる、ずっと忌々しかった白い建物が今日のわたしの目的地だった。 「幸村くん!!」 彼の姿を見つけてすぐに自転車を投げ捨てる勢いで降り、乱暴に止め、わたしは幸村くんの元へ駆け寄る。病院の入り口のすぐそこに幸村くんはいた。今まで見てきた憂いを含んだ表情ではない、今日の晴天に良く似合うすがすがしい表情だった。わたしはそれにひどく安堵する。 「お大事に」と笑う看護師さんに軽く会釈をし、すぐに病院を後にする。安心したからか、全速力の疲労が今になって押し寄せてきて息を乱すわたしを見て幸村くんは笑っていた。 「っ幸村くん…!」 「そんなに急いでどうしたの」 「…っだって…幸村くんが」 「おれは逃げないよ」 幸村くんの笑顔を久しぶりに見た気がする。昨日までの幸村くんもわたしを見て笑っていたけれど、それとは比べ物にならないまぶしい笑顔だ。青空の下だからかもしれない。 乱暴に止めた自転車を今度は優しくおして、幸村くんとならんでゆっくりと歩く。こんなにも穏やかな時間が流れるのは幸村くんと居る時の特権だ、と思う。 「ねえ」 幸村くんがいたずらっ子のような笑みを浮かべて、わたしの名を呼んだ。何か楽しいことでも思いついたらしい。 「なあに?」 「うしろ乗って」 ぐいっとわたしの腕をひっぱりわたしから自転車を奪い取り、幸村くんは自転車にまたがった。急に起きた予想外の出来事に驚くわたしを見てくすくす笑いながら、「早く」と急かし後ろを指す。 「え、でも」 幸村くんはなにも答えずに、またわたしの腕を引き半ば強引にわたしを後ろに乗せた。「しっかりつかまっていてね」という幸村くんの声が少し遠くに聞こえて、自転車がゆっくりと進む。 「幸村くん、大丈夫なの?」 前より細くなった背中を遠慮がちにつかまえて、問う。 幸村くんは「大丈夫だよ」と笑った。幸村くんが大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう。幸村くんの背中に寄り添って身をゆだねる。幸村くんの髪がゆらゆら揺れて時々ひたいに触れるのが少しくすぐったい。 先ほどのわたしの全力に比べて自転車はゆっくりゆっくり進んでゆく。さっきまでのわたしは一秒でも早く幸村くんに会いたくて必死だったのだな、と思う。今度は幸村くんが運転しているので行先はわからない。それでも心配なんて少しもなかった。心はふわふわとはずんで今にも飛んで行きそうだった。 「幸村くん!」 「何だい?」 「どこへ行くの?」 「内緒!」 ふふふと楽しそうな笑い声が聞こえる。わたしもつられて笑みがこぼれる。わたしは幸村くんとならどこへだってしあわせだ。そして幸村くんもきっと同じだ。 「ありがとう」 びゅうと風の吹く音にかき消されてしまいそうなくらいに小さな声だった。わたしは驚く。お礼を言われるようなことをした記憶はなかったから。 「なんで?」 風にかき消されないよう大きな声で言うと、幸村くんも声を張り上げて、もう一度同じ、「ありがとう」と言った。 「君が居てくれてよかった」 幸村くんはまっすぐ前を見たままに自転車をこぎ続けている。だから顔はわからない。幸村くんの背中からつたわる心地良い体温がわたしの体へと流れてゆく。 「君がいたから強くなれたんだ」 照りつける太陽も、吹き抜ける風も、幸村くんの背中のぬくもりも、全部が幸せだと思った。わたしは幸村くんがいたから強くなれた。幸村くんがいたから強くいられるんだ。わたしをこんなにも動かす存在はなんだろう、その答えはいつだってどんなときだって幸村くんなのだから。 120510/退院のお話 |