31-6

宵の入口。
帰り道に、月を見上げた。


言うべきか、言わぬべきか。
散々迷った挙句、笹川了平は言わないことを選択した。

(これでよかったんだろうか)

興奮に任せて思わず彼女の肩を掴んだ時のことである。
目の前の彼女の表情が一瞬だけ歪み、指先からは、服の下に包帯が巻かれているであろうことがすぐに分かった。なにせつい数日前までは自分も散々包帯まみれだったからだ。よく知っている感触だった。そういえば、彼女の衣服は、不自然なほど肌を露出しないようなものばかりで、季節を先取りどころか真冬のような恰好だった。

そして、隣に座る彼女が、サンドウィッチを頬張っているのをそっと覗き見た時に、気づいた。妙な化粧で、頬にある傷を隠していた。


『なんでも、突然出てきた親知らずを抜くことになったとかで、緊急入院して手術してるらしい。』


やはり、大嘘だったのだ。
親知らずを抜いたばかりの人間が、あんなに元気に、美味しそうにサンドウィッチを咀嚼することなどできないのだから。

「なにをやっているんだ」

いつだって、柊美冬は人のことばかりで、自分のことを顧みない。
誰かのために調べたり、走り回ったり、そんなことばかりで、気持ちも体も置いてけぼりをくらっている。

それでも、これまでなら持ち前の機転や頭脳で乗り越えられてきたかもしれないが、今回だけはきっと、危ない橋を渡ったに違いないのだ。ふつふつと、怒りが湧く。

「……ぐ」

その昔、妹の心に要らぬ恐怖を植え付けてしまったことを、笹川了平は悔やんでいた。だから、妹には嘘を吐いたし、危険から遠ざけるようなことをした。それは正しいことのはずだ。何故なら、妹は、守るべき者だから。

だが、柊美冬はどうだ?

笹川了平は彼女がどういう人間なのか解っていたはずだ。こうなることも予測できたはずだった。嘘を吐いて、彼女を現場から遠ざけるべきだと直感した。

だが、彼女は笹川了平のトレーナーだと言い、真実を教えろと懇願した。

真摯な、まっすぐな瞳に絆されて、ついつい本当のことを言ってしまった結果がこれだ。


「なにをやってるんだ、俺は」


自宅で彼を迎え入れた彼女は、いつものように呆れ、小言を募らせ、そして笑った。笹川了平を責めることばなど、ひとつも零さなかった。そんなことをされては、笹川も黙るしかなかった。

危ないことには無駄に首を突っ込むな、とか、自分の弱さを知っているなら無茶はやめろ、とか、余計な真似はするなと言ったはずだ、とか。言いたいことは山のようにあった。
だが、そんなこと、一つも言えないのだ。彼女を前にすると何故か思考は止まって、ことのはを編むことが出来なくなってしまう。

今の精神状態なら、この結果は容易に想像できた。あの時、どうして彼女を巻き込むようなことを教えてしまったのだろう。きちっと言ってやらなければ、あのお人好しはすぐに要らぬ騒動に首を突っ込んでしまう。

後悔と怒りが己の内に沸いて、ふつふつと彼の内面を焼き切ろうと焔を燃やす。


『私は、貴方の身体を預かるトレーナーです。なにがあったか、知る権利があります。』


それは、病室でのことだ。彼女の放つ真摯な圧力に押し切られたかっこうで、笹川了平は本当のことを、彼女に伝えてしまった。



高みを共に目指せる人間が現れたこと。

その人間が真摯に、自分のことを思い、心配してくれた。


笹川了平は内心、嬉しくて、舞い上がってしまった。むずむずと口元が緩みそうになるのを堪え、いけないと思いながら、口を開いてしまった。

だがそれは、彼女を危険な目に合わせるきっかけになってしまった。それはのちに、とんでもない後悔を呼び寄せることになった。



(俺は、もっと強くならなければ)

丈夫な身体。負けない技術。そして、強い心。
つい高揚して、守るべきものを危険に晒すような真似を今後はしないためにも修練が必要だ、と思う。心技体全てを磨かなければ、目指す強さに到達することは到底不可能だ。

彼が強くなるためには、彼女が心身ともに健やかでなければいけない。そして、彼女が健やかでいるためには、彼自身が強くならなければいけないのだ。

己の内を燃やし尽くそうとする怒りを、強くなるという目標に昇華しなければいけない。笹川は怒りを大きく飲み込み、腹にためこみ、その場で吐き出すした。深呼吸は、人を冷静にさせるーーいつだったか彼女に教えてもらったことだ。

空を見上げると、紫紺の絨毯に、きらきらと星が瞬き始めていた。




『もう、しょうがないなあ』

秋のやわらかな風に乗っかって、記憶の中の少し困ったような響きが笹川の耳を甘くくすぐった。

笹川了平と柊美冬は、トレーナーとプレイヤー、つまりはパートナーだ。これまで確約こそしていなかったが、きっと彼女もそう思っているに違いない。そうじゃないとあんな言葉は出てこないはずだ。笹川には確信がある。
高校も一緒に行くと決めた。だから、次の秋大会は優勝しなければいけない。この先も、高みを共に目指すために。

それは全て正当な想いだ。

そこにはやましいことなど、何一つない。





『ねえ、お兄ちゃんは、美冬さんのこと、どう思ってるの?』

妹やクラスメイトから問われる度に、むず痒くなった。
ともに高みを目指すパートナーだ、と言ってやりたかった。それを明言できなかったのは、自分だけがそう思っているのではないか、と心のどこかで思っていたから。2年の春、無理やり彼女を自分の隣に据えたことを、笹川了平は自覚していた。

だが、明日からは、胸を張って「パートナー」と言える。



『ていうか、柊さんはどこに行くんだろな。』

クラスメイトのことばに、ぞっとした。
このままずっと一緒とは限らないと気づかされた。当たり前が当たり前ではないことを、今更思い知らされた。が、結局彼女は自分と同じ高校に進むことがわかった。

だから、明日から安心して、「並高ボクシング部に行くぞ」と答えることが出来る。




「……よし、走るか!!!」

心の奥底に、ぼう、と明るい炎が燃え立つようだ。
何せ彼は、今から秋大会に向けて、身体を作り直さねばならないのだ。思い立ったが吉日、とりあえず彼は自宅まで走ることにした。ちなみに、先程大事なパートナーに「まだ長距離ランは避けてくださいね」と言われたことなど、すっかり頭から抜け去っていた。

制服で、ランニングシューズでもなければ、荷物も背負ったままである。決してランニング向きではない格好だが、その心のままに笹川了平はアスファルトを蹴った。



(柊、俺は強くなる。誰にも負けないし、今度はお前を守る!)



西の空の低いところ、山の端に浮かぶ一等輝く星に向かって。
笹川了平は軽い足取りでさらに一歩を、踏み出した。





(そうして笹川了平は夜の並盛の街を走り、自宅を通り過ぎ、並盛町を飛び出し、隣町を通り過ぎ、……日付が変わるころには県境の山奥で警察に不審者として発見されることになるのだが、それはまた別の話である。)
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