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おれと先生がつきあい出したという噂はあっという間にひろがった。
本来ならば教師と生徒が恋愛関係に発展したらまずいどころの話ではなく、交際がばれないようひっそり逢瀬を交わしたり連絡をとり合ったりするのがふつうなのかもしれないが、ここはBL王道学園。難なく周りから受け入れられ、こんなんでだいじょうぶなのか? と生徒たちに対して安堵より不安が募る。
ほんとうの恋人どうしになったわけではないから、ふたりきりになったからと言ってなにをするわけでもない。
鬼頭先生のいる研究室には前よりもよくいくようになったけれど、それだけだ。時折飲み物を出してもらうだけで、同じ空間にいてもそれぞれが課題や仕事とべつのことをしているのだ。
噂を確かめようとおれたちがふたりのときを狙ってやってくる面倒な輩もいたが、なぜか彼らはらぶらぶしているわけでもない様子を見てなにかを察したようにすごすご退散していく。ありがたいが、心底不思議だった。
夕暮れどき、おれはぽつりと呟いた。
「……だいじょうぶなのかな」
「なにが」
「ひょわあっ! せ、せんせ、聞こえちゃいましたか、すみませ」
まさか、聞かれているとはおもわず変な声をあげてしまったが、不可抗力だ。いきなり話しかけられたら、だれだって驚くだろう。
「だから、なにが『だいじょうぶかな』なんだよ」
「ううう……、言わなきゃだめ、ですか?」
じろりと睨まれ肩を竦める。べつに、先生が怖いわけではない。言いたくなかったら言わなくていいって、そうおもってくれているはずだし。
話しづらいのは、内容が内容だからだ。だって、これを口にしてしまったら――、おれがこのひとと今以上の関係になりたいと望んでるって、そう捉えられてしまう可能性が出てくるから。
けれど、結局現状に対する不安のほうが勝って正直に白状することにした。
「……なんか、恋人らしいことひとつもしてないのにみんなに疑われないのかな、って。いや、あの、べつに先生となにかしたいってことではなくてですね、ただこう、漠然とした不安が……」
コーヒーを一口飲み、コップを机におき、鬼頭先生は「どこまでいいんだ」とおれに訊ねた。
「どこまで……?」
「手を繋ぐとか、キスするとか。そういうのだよ」
さぞかしおモテになるのであろうが、内面はストイックそうな彼の口からそういった言葉が出てくるのは衝撃だった。
いやそりゃ、おとこだからオナニーとかするんだろうけどさ! なんかさ! 先生が言うととくべつやらしく聞こえる!
ひとり内心で悶えながら、考えてみる。
このひとと、手を絡める。唇を合わせる。体を重ねる――は考えなくてもいいか。
きりりとした顔だちを見て、「かっこいいおとなのおとこのひとだ」と頭で認識する。そして、ぼんやりおもった。
「キスまでなら、できるかなあ……」
切れ長の目がこちらに向いて、心にあった想いを声にしてしまっていたことに気づいた。
赤面してしまう。それをごまかすように、おれは笑って言った。
「先生、かっこいいから」
橙色に照らされた彼の指先が、こちらに伸びてくる。反射的に目を瞑ってしまう。その瞬間、これではキスをねだっているようではないかとおもって、慌てて瞼を持ちあげた。
――あなたはだれですかと問いたくなるようなやさしい表情が見えた気がしたが、それはまばたきをしたのちにはもうなくなっていた。
「……糸くず、ついてたぞ」
「えっ、あ、ありがとうございます」
おとこのそれだとわかるすっとした長い指が髪の端っこを摘まむようにして、離れていく。その刹那、ふわり、あたたかな熱が皮膚をかすめた。
あたりが暗くなったころ、「そろそろ帰ります」と告げれば先生はパソコンから顔をあげ、眉間のしわを揉んだのちに「もうそんな時間か」と呟いた。
「送ってく」
先生は毎回、こうして生徒寮の前まで送ってくれる。断ることができるほど平和にぼけた頭はしていない。腐男子であるからこそ、この学園の危険にも精通しているのだ。ときどき、ひどく申し訳なくなるのだが、なにを返せるわけでもない。自分にできるのはうちのクラスの数学の平均点をあげようと努力することくらいのものだ。
先ほど手を繋ぐうんぬんの話をしたばかりだが、とくにそれを実行することもなく、さほど長くもない帰路を歩いた。
会話は、ぽつぽつ続く程度だ。ものすごく弾むわけでもない。歳が離れているし、当然のことなのかもしれない。でも、べつに気まずさはなくて、同年代の男子とは違った時間が楽しめた。
部活をやっている生徒はまだ校舎に残っている時間なので、寮の周りにまったくひとがいないというわけでもない。そこで、わかれようとしたとき。
「嵯峨野」
「はい?」
肩を掴まれ、振り向いた瞬間。眼前に鬼頭先生のきれいな顔がいっぱいにひろがって、そして。
背後できゃあっと黄色い悲鳴があがった。
「じゃ、またあした」
「あ、はい……」
背中をぼうっと見送っているあいだに「やっぱり、あのふたりつきあってるんだ」という声がちらほら聞こえてきた。
疑われるのは面倒だし、これで先生とほんとうにつきあっているのだと信じてくれるひとが増えるなら助かるけれども。
「…………いきなりは、だめだろ」
その言葉が口から零れおちたころ、おれの顔は真っ赤に染まってしまっていた。
キスなんて初めてでもなんでもないのに、先生の唇がふれた部分がひりひりするほどの熱を持っている。
部屋に戻って課題と予習をこなしていても、夕飯を食べている最中にも、彼とふれ合った部位が気になってしかたない。これは、しばらく先生とぎくしゃくしてしまうかもしれない。「キスまでならできる」と言っておいて、こんな生娘のような反応をしてしまう自身に困惑した。
今日はさっさと寝てしまおうと床についても、眠気はまったくやってこない。むしろ、目をとじると彼の端整な顔が瞼の裏にくっきりと浮かびあがってきて眠れなくなってしまった。
跳ねなどない、さらりと流れるような艷やかな黒髪。きつい印象をいだかせるつり目も、おれはきらいではない。鼻は日本人にしてはすこし高くて、唇は薄め――だが、柔らかい。
そこまで考えて頭が爆発した。
こうなったら素数でも数えようという謎の思考に至った結果、おれはほとんど寝ることができないまま朝のひかりを浴びることになったのだった。