9
****
放課後。連絡を入れるべきだったかな、と悩みながらもおれは鬼頭先生の研究室の前まできてしまった。まあだいじょうぶだろうとノックをして、「失礼しまーす」と扉をあける。
「嵯峨野?」
「えへ、きちゃいました」
「奥村はいいのか」
「おもいのほか飲み込みがはやかったんで、そこまでペースきつくしなくてもいいかとおもって。……あの、またちょこちょこきてもいいですか?」
もうきてるじゃないか、と薄く笑いを洩らした先生に「うわ、レア顔だ……」と内心感動してしまう。このひとは負の感情以外をあまり表に出さない。なんだかとても気分がよくなって、「コーヒー淹れますね!」と元気いっぱいに叫んでしまった。うるせえ、と自分でもおもった。
物理的な距離は変わらない。おれはわざわざ先生の隣に座ることはなく、窓際で回る椅子に腰かけ、好きなことをしている。そう、いつもならば。
「…………なんだ」
「え?」
「おれの顔になにかついてるか?」
「ええと、目と鼻と口と……?」
そういうことじゃない、と呆れたように言われ、ですよねーと苦笑する。
今日は、彼のことを熱心に見つめていた。愛嬌はまったくといっていいほどなく、自分にも他人にも厳しそうな顔立ちではあるが、隠しきれない端麗さがそこにはある。おそらくおれは、先生の顔がそうとう好きだ。
「あー……いや、その。顔、が」
「顔がなんだ」
「ええと、好きだなあって」
不意討ちをくらったかのような表情でこちらを向いた彼に、あれおれまずいこと言ったかな、と不安になる。
「……おまえ、そういうことほかのやつらにもほいほい言ってるのか」
「え!? そんなわけないじゃないですか!」
この学園でそんな調子でいたらあっという間に食われてしまう。タチネコ、両方から。だから、ふだんはこんなこと言わない。でも、このひとになら。言ってもゆるされるかなって、だいじょうぶなんじゃないかなって、そう感じてしまったのだ。
「……すみません、不快、でした?」
「……嵯峨野」
名前を呼ぶと、彼は立ちあがった。そして、こちらに近づいてくる。
避ける間も逃げる間もなく頬を両手で包み込まれ、口を吸われた。
――いや、なんでだよ。
突っ込みは声にならず、おれはただおとこの顔を凝視することしかできない。
たった数秒が、ひどく長く感じた。
くちびるが離れたあとも唖然と先生を見つめていると、頭の上に顎を乗せるという子どもみたいなことをしながら彼はぼそりと呟く。
「おれが鋼の精神を持ってることに感謝しろよな」
意味がよくわからなかったけれど、体が硬直してしまい動かなかったので、心の中でうなずいておいた。
それから一週間とすこし。自分のきもちを自覚したものの、行動に移せないまま毎日が過ぎていく。
なんの変哲もない日常に仲間入りする予定だった、週半ばのその日の放課後。いつものごとく数学研究室にやってきたおれは、最近はまっているソシャゲをプレイしていた。
「限界だ」
突然そう言った先生になんだなんだ、と視線を向けると、彼は珍しく頭を抱え、深くため息をついていた。
話しかけるのもためらわれ、じっと先生の黒い髪を見つめつつ沈黙を保っていると。
「……わるいけど、あの契約、終了させてほしい」
「え……」
――契約。それは、お互いに利があるからと本命ができるまで、偽装で交際をするというもの。
愕然とした。先生の申し出はすなわち、「本命ができた」という宣言にほかならなかったからだ。
「あ、そ、そうですか……。わかりました。じゃあ……、短いあいだでしたけど、ありがとうございました」
スマホをポケットに突っ込んで立ちあがり、そそくさと退散しようと試みる。たぶん、このままここにいたら泣いてしまう。いや、ここにいなくてもたぶん泣くけど。
「待て」
「…………」
「それではいさようならってことじゃなくてだな……」
歯切れがわるい。滅多にない先月の様子にずきずき痛んでいたはずの胸や涙が出そうなほどの悲しみが一旦、霧散した。
「あー、くそ、……ちゃんとした恋人にならないか、ってことだ」
ぽぽぽぽぽん、と頭上に大量のクエスチョンマークが浮かんだ。
ほんとうの恋人。おれとそんなものになって、先生にどんな得があるというのか。
湊って頭いいけどばかだよな、とは幼なじみ談なのだが、今回ばかりはそれを認めざるを得なかった。
「すきです、つきあってください」
「へ」
「――って、告白のテンプレート言わないとわからないか?」
どっくん、心臓がひときわ大きな鼓動を奏でた直後、ぶわっと顔が熱くなる。
「う、あ、え、ま、まって、いつから……」
「いつだっていいだろ」
どうしよう。どうしようどうしようどうしよう!
これが呪いの力によるものなら、受け入れないほうがいい。のちのちつらくなるのは自分だ。けど。けど――
「な、なんで今……」
「言っておくが、おまえのせいだぞ」
「え?」
「おまえがおもわせぶりな態度とったり、可愛い顔したりするから我慢がきかなくなったんだろうが」
きゅ、とくちびるを結んで次の瞬間、先生の胸に飛び込んだ。
「おい、」
「……なります」
「あ?」
「先生とちゃんとした恋人に、なりたい、です」
恥ずかしさにぐりぐり頭を押しつけると、顔をあげさせられてそのままキスされる。
「ぅ……っ」
驚いたのは一瞬で、すぐにそれを受け入れた。
遠慮のない口づけを、おれも積極的に返す。お互いに矢印が向いているのがわかってから交わす行為の甘美さを、改めて感じさせられる。
このひと、こんなあまったるいキス、できるんだ。
そんなことを、ぼんやりとおもう。
「ん、んん……」
もっと深く繋がりたくて、腕を先生の首に回した。いっそこのまま犯されたいなどと、とんでもないことを考えていると。肩を掴んで、体ごとひき剥がされた。
「せんせ……?」
「これ以上はまずい」
彼もしたいとおもっているのだと知り、たまらないきもちになる。
「まずくない……。先生、して」
きもちわるいほど媚びた声が出た。自分はおとこを誘うとき、こんなふうになるのか。そう、頭の隅にある冷静な部分が分析していた。