6.宝物


「なあ宮城。今の待ち受け、弟とかか?」
 おとこがそう訊ねれば、瞠目して透は振り向いた。が、すぐに笑みを浮かべ、言った。
「……まあ、そんなところ。父親似で、すごく可愛いんだ」
 宮城くんの弟? えっ、見たーい! わたしも!
 女子がきゃいきゃい騒ぐも、彼は「あとでな」と冷静に対応する。しかし、彼女らはそれに不満をいだくことなく、語尾にハートマークがついていそうなあまい声で「はーい」と返事をしていた。
 予鈴が鳴り、皆が席につき、授業の準備をする。本鈴もすぐに校内に響き渡り、廊下からこつこつと足音が聞こえてきた。
 扉がひらいた刹那、委員長が「起立」と号令をかける。
「礼」と言葉をかければ「よろしくお願いします」と皆が一斉に頭をさげるのだが、ひとりだけ棒立ちになっている人物がいた。朝から話題の中心になっていた、透だ。
 ほかの全員が座っても彼だけはそのままで、室内はざわついた。
「今日はプリントやっとけ。終わったやつから自習だ。――宮城は、おれとこい。話がある」
 ふらり、足を踏み出した透の顔色はわるい。だが、異様な雰囲気にだれも口を挟むことはできなかった。
 なんであのひと一枚も配っていかないんだと、委員長だけが文句を言いながら、プリントを配布していた。




「ここなら、だれもこねえだろ」
 多目的教室のBだがDだかにつれてこられ、透は混乱を極めていた。
 自分は、桃山学園をやめてここにきた。だれひとり、自分を知っている者はいないはずだった。――なのにどうして。一番会いたくなかったひとが、ここにいるのか。
「なんで、いるんだ、あんた」
「ここの数学教師だからだろ」
「そうじゃなくて……!」
 わけがわからない。これは夢か幻だと言ってほしい。
「……おまえを捕まえにきた」
「は、なに……?」
「もう離さない。……透」
 痛いほどに抱きしめられる。ふわり、鼻腔をくすぐるのは懐かしい彼――政貴のかおり。
 ひどい、最低だ、もう二度と顔なんか見たくない。
 そう突き放したいのに、この体温を失いたくなくて涙が零れた。
「……っ、お、おれ、もうなにも、できない。あんたの妻と子ども、悲しませたくない。おれ自身も、誠実な人間になるって、決めたんだ。だから、だから、もう――」
「あいつとはわかれた。子どもは、ジジイにやった。あとは、おまえがおれだけにすればぜんぶ解決だろ」
「い、いみが、わからない」
 初めからそういう「契約」だった。あのおんなはガキができればおれが心を改めるとでもおもったらしいな。だがまさか、おまえの家までいくとは予想してなかった。それについては、謝る。
 すらすら、台本でも読んでいるかのごとく言葉を紡ぐおとこに透はどんどん追いつめられていた。
 ――違う。ほんとうに謝らなきゃいけないのは、自分のほうだ。
 腕を振り払い、ずるずるとしゃがみ込み、顔を覆って「ごめんなさい」と泣いた。
「おれ、おれ、あんたに隠してたことが、あった。怖くて……、話せなかった。ゆるしてなんて、言えない。軽蔑して、きもちわるいっておもってくれていい。ただ、お願いだからおれの一番大切なものだけは、奪わないで」
「……なんのことだ?」
 ごめんなさい、ともう一度謝罪し、透は覚悟を決めた。
「――去年の冬に、妊娠、してたんだ。勝手に、産むって決めて、ほんとに、産んだ。ごめんなさい、でも、あんたの子だっておもったら、おろすなんてむりだった。どうしても産みたいって、おもってしまった」
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 壊れた機械のようにひたすらそればかりを繰り返す透に、彼は沈黙したのち、ため息をついた。
「……ほんとに、ばかだな、おれたちは」
「……せんせーは、ばかじゃない……」
「ばかだよ。たった一言を口にすることを渋ってたせいで、おまえにつらい想いをさせた」
 確かに、出産までのあいだは死ぬほど怖くなって何度も泣いた。でも、後悔なんて微塵もないし、家に帰ってあの子に会えば、最高にしあわせだと感じる。
「今がしあわせだから、いいんだよ。あの子はおれの宝物で、生き甲斐なんだ。だから、奪わないでください、お願いします」
 最後はほとんど消え入るような声だった。
 おちつけ、というように背中をやさしくぽんぽんたたかれ、涙がすこしずつひいていく。
「……いろいろ言いたいことはあるが、とりあえずまずは、これだけ聞け」
「うん……」
 なにを言われるのか。心の準備もままならない状態で、政貴は――言った。
「――透、愛してる。おれの子を産んでくれて、ありがとう」
 静寂が訪れた。まるで、世界から音が消えてしまったかのようだった。
 しかし、次の瞬間それは盛大に壊された。
「うっ、う、うえっ、うそ、うそだぁ……っ」
「なんでだよ。ほんとだっつーの」
 小学生のような声をあげて泣くなんて、初めてのことだった。感情がうまく制御できない。わけがわからないことが続きすぎて、もうなにが真実なのかわからない。
 ただ、おもったのは。
「じゃあ、もう、いいの? 我慢しなくて、せんせーを、すきになって……、すきって言って、いいの?」
「おれはもうフリー。子どももいて、跡継ぎに関してとやかく言われることもない。……ほかに、なんか問題あんのか?」
「……わかんない。ない、気がする」
 じゃあいいだろ。
 笑う。だいすきなひとが、太陽のような笑顔を浮かべて、すべてを受け入れてくれようとしている。
 あきらめていた。ふつうに恋をして、ふつうに結婚して、ふつうにしあわせになることを。
 確かに、それらはかなわなかった。けれど、今手を伸ばせば「ふつう」ではなくとも、形は違えども、すべてがかなうのだと、透は気がついた。
「せんせー、あのね」
 ずっと、言えなかった、言いたかったことがあるんだ。
 ――聞いてやるよ。
 そう、やさしく、柔らかな声音で返される。
「初めて会ったあの日から、ずっと、ずっとすきだった」
「……だった?」
「……これからも、ずっとすき」
 よくできました、と唇を奪われる。
 ぐちゃぐちゃの顔は見られたくなかったが、キスをしたいきもちのほうが勝った。
 いっそのことこのまま政貴に抱かれてしまいたいとおもわなくもないが、さすがにそれはまずいと冷静になってきた脳が囁いてくる。
 まだ、話さなければならないことがたくさんあるのだ。
 もう、過ちは犯さない。
 政貴の子を産むと決めたとき、腹の子にそう誓った。それを、さっそく破るわけにはいかなかった。
「……今度、説明するから。おれの体のこととか、家族のこととか、ぜんぶ」
「ああ。聞かせてくれ」
 ――それでも今はこのまま、息もできなくなりそうなほどのしあわせに溺れていたい。
 政貴も同じ想いなのか、緩やかな口づけが繰り返される。
 ぼんやりあまい霞がかかった思考の隅、でもやっぱり今日えっちしたいな、と考えてしまうどこまでもゆるい自分の頭に、透は呆れ果てたのだった。




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