「ぁ、えと、その……、どちら様ですか? それに、なんで、こんなところに……?」
なんとなく、このままわかれてしまうのが名残惜しくてそう話しかければ、おとこは胸のポケットをとんとん指でたたいた。
「おれは高等部の数学教師。中等部に書類届けにきたついでに煙草、吸ってたんだよ。最近この学園も厳しくて吸うとこねえんだよなあ」
「高等部の、先生」
「そ。なんか、新鮮だな。自分の名前を知らないやつに会うの」
その言葉は自慢でもなんでもなく、ただの事実なのだろう。こんな教師、いたらこの学園では大人気に違いない。もしかしたら自分が知らないだけで、中等部でも有名なのかもしれなかった。
「そっちこそ、なんでこんなとこにおとことふたりでいたんだ? 自分からついてこなきゃ、さすがにこんなとこまでこないだろ」
簡単に事情を話すと、ああー……と、複雑そうな表情をされ、いたたまれなくなった透は「そろそろ帰ります」と頭を下げ彼の横を通り過ぎようとした。――のだが。
「おい、あんなことがあったあとでひとりで行動しようとするんじゃねえよ。おれが送ってく。不安なら、ほかに信用できるやつ呼び出してもいいし」
「……おれを守る立場の風紀にあんなことされたんだ。親しい友人だっていないし、親衛隊なんてもってのほかだし、信用できるやつなんてこの学園にいるわけない」
風紀委員に襲われたというのが、おもいのほかこたえていたらしい。つい愚痴を零してしまい、我に返った瞬間ひどい羞恥に襲われた。
「……っ、すみません、今のは忘れてください……」
赤くなった顔を隠すように片手で顔面を覆えば、頭をぽんぽん撫でられたのち、「いくぞ」と手をひかれた。
なんとなく冷えていそうだとおもったそのひとの掌はほどよい温度を保っており、透のささくれだっていた心が若干、おちついた。
中等部によくくるのか、それともかつてはこちらの校舎で働いていたのかはわからないが、おとこは迷うことなく寮のエレベーターに向かい、ボタンを押した。
「部屋どこ?」
「あ……、えっと、役員フロア……」
「ああ、おまえ生徒会入ってるのか。顔、めっちゃととのってるもんなあ」
容姿を褒められたことなんて、それこそ星の数ほどあるのに、心臓がばくばく高鳴って仕方なかった。
さっきの話を聞いて、透がだれにも心をゆるしていないことがわかったからか、どうやら彼は部屋の前まで送ってくれるつもりらしい。確かに、同じ役員ですら完全には信頼していないので、ありがたいといえばありがたかった。しかし、役員フロアには入る際も出る際も、とくべつなカードが必要になる。いきはいいが、帰りは自分がカードを貸さなければこのひとは帰れなくなるのではないか。
そんな心配をしていたのも束の間、おりてきたエレベーターに先に乗った彼は、ポケットから黒いカードを出して認証機にかざした。すると、光が灯らずいけなくなっていた役員フロアのボタンがぱっと明るくなった。
――黒なんて、初めて見た。
学生証や財布の役割を兼ねているカードは一般生徒は暗めの灰色で、生徒会役員や風紀委員がシルバーだ。黒いカードがなんなのか、気にならないわけではなかったが、追及してもきっとこのおとこは答えてくれないだろうからと、透は口を噤んだ。
十一階にある部屋まで、たどりつくのはあっという間だった。
「何号室?」と訊ねられ、「1103」と小さく返せば一分もしないうちに自室の前にやってきてしまう。
「ほら、ついたぞ」
「あ……、ありがとう、ございました」
まだ、このひとと一緒にいたい。自分にしてはかなり珍しい想いをいだいたが、それを素直に告げることは性格上できないし、これ以上迷惑をかけることも避けたかった。
きゅ、と唇を噛んでノブに手をかけると、声をかけられた。
「――ひとりで、だいじょうぶか?」
きっと、その言葉に深い意味はなかったのだろう。けれど、これが最後のチャンスだとおもうとどうしようもなく切なくなって、首を振ってしまった。――横に。
そのとき、自分がどんな顔をしていたのかは、わからない。でも、おとこの同情を買うほど、ひどいものだったということは予想がつく。そうでなければ、彼が部屋に入ることなんてなかったはずだ。
ソファーに押し倒し、恥を忍んで「抱いてくれ」とねだれば、美しい漆黒の瞳が見ひらかれた。
「どうせ処女を守り切れないなら、初めてくらい自分で選んだひととしたい」
それになにをおもったのか、おとこは「あーあ、おれ、これでも一応いい夫やってたんだけどなぁ」なんて言いながら透の願いを受け入れた。
左手の薬指ひかる金色にたびたび視線を奪われつつも、初めての快感に透は淫らに体をくねらせ喘いだ。挿入のときは痛かったけれども、「最初にきもちよくなって、こっちにはまったら困るだろ」と笑う彼に、胸がぎゅっとわし掴みにされた。
そのときはまだ、名前も知らなかった政貴に抱かれ、自分はとてつもない幸福感を得ていた。寂寥感もあったが、後悔はなかった。
おとこに不貞を働かせ、その妻に申し訳なくおもうきもちはあれども。――それを悔やむことは、できなかった。
「せんせ……っ」
泣きそうな声で呼べば、やさしくキスをしてくれる。一足先に絶頂に至り彼も自分の中で達した瞬間、このひとが初めてでよかったなと目をとじれば、初体験に途方もない疲労を感じた体に限界が訪れ、意識が遠のいていった。
そのとき、おとこが慈しむように頬を撫でた感覚を、透はしばらくのあいだ忘れられなくなってしまったのだった。
****
朝、目を覚ましたとききのう自分を抱いた教師の姿は見えず、透は一瞬あれが自身が都合よく考えた妄想だったのではないかと震えた。しかし、あらぬところに痛みと違和感、けだるい体にセックスをしたことだけは間違いないようだとおもいなおした。
あのあと彼が風呂に入れてくれたのか、身体はどこもかしこも綺麗になっており、すこしだけ安堵した。すくなくとも、犯すだけ犯して放置するような輩に抱かれたわけではないとわかったからだ。
よたよたと歩き、なんとかリビングにまでやってくるとテーブルの上にメモがおいてあった。
なんだろう、とそれを手にすると、透は目を見はった。そこには「なにかあったら言えよ」というメッセージとともに連絡先らしきものが書かれていたのだ。
「きりゅう、まさたか……」
舌の上で転がる、昨晩自分がはしたなく求めたおとこの名前。
透は彼の名を口にした刹那、恋におちていたことに気がついた。
「も、さいあく……」
ちょっとかっこいいやつに助けられたからって惚れるなんて、手軽すぎるだろ。――ばかみたいだ。
そう自身を貶してみても、想いが変わることはなく。
始まってしまった。おそらく、最初で最後になるであろう、かなうことのない恋が。
bookmark / back