「……ようやくここまできた」
「え?」
「おれは、おまえを手に入れるためにここまで突っ走ってきたんだ」
 わずかに瞠目する。
「すみません」
「あ?」
「わたしはどこかで、組長にお会いしたことがあったのでしょうか……? あいにく、自分にはその記憶がないのですが」
 若干、不満げに目を眇められたが彼は文句を言うわけでもなく、最後には「わからなくていい」と呟いた。
 こんなおとこ、見たら忘れるわけがない。なのに、彼と顔を合わせた記憶がないということは――、あちらが一方的に見知っていた、ということなのだろうか。
 龍治が話してくれないので、椿は憶測をするしかない。
「餓鬼は三人いる。跡継ぎの心配はしなくていい。おまえをここに迎えるにあたって、関係があったおんなはひとり残らず追い出した。ここまでのぼりつめれば、盃を盾に結婚を迫られるようなこともないだろう」
 どうしてそこまで、とおもうと同時に足元から、なにか冷たいものに絡めとられていくような感覚に陥った。
「椿」
「はい」
「恋人や、すきなやつはいるか?」
 います、と答えたら逃がしてもらえるのか。しかし、椿にはそんな人物は存在しない。
「いません」
 即答すると、その答えに気をよくしたのか龍治が微笑んだ。
「そうか。ならいい。もし肯定していたら――、おれはその相手を処分しなけりゃなんなかった」
「…………」
 どうやらあれが正解だったようだ、と安堵する。
 身を守る術を教わったくらいで仕事にはほとんど関わっていなかった椿は、極道の息子だというのに暴力があまり好きではなかった。
 二十三にもなって親の臑を囓っているのは情けなかったが、それは外で働く許可が出なかったせいでもある。内でもちょっとした書類の整理くらいしか回ってこなかったので、樫村組の組長にひき抜かれた理由がまったくわからなかったわけだが――、それがようやく判明して、靄が晴れたような気がした。しかし、また新たな靄がかかる。
 自分は龍治と、どこで出会ったのか。語る気がなさそうな彼が、真実を明かしてくれる日はくるのだろうか。
「……わたしはここで、なにをすればよろしいのでしょうか」
「そうだな。まずはその鬱陶しい口調を やめろ。自然体でいい」
 わかりました、とうなずけば満足げな表情をするおとこ。
「あとは――そうだな、この家にいて、だれにも会わずにおれに守られていればいい」
 簡単だろう? とでも言いたげな龍治に反応せずにいると、彼は「ここはどこよりも安全だからな」と言葉を重ねた。
 独占欲というよりは椿を喪うことへの恐怖心が強いように感じて、とりあえず今はおとなしく従っておくのがいいなと結論を出した。
「籍を入れることはできないが、おまえには文字通り『正妻』として振る舞ってもらう。……異存はあるか」
 ない、と言えば嘘になるが大々的に反対するつもりはない。
 自分は組の繁栄とひき替えに、龍治のもとへとやってきたのだ。意見などできるはずがない。
「ありません」
「……いい目だ。じゃあさっそく、妻としての責務を果たしてもらおうか」
――その日、椿の花は龍に呆気なく手折られてしまったのだった。


 ****


 ここにきて一週間、龍治は時間があるときに好きなように椿を抱いたが、彼が不在のときは世話係とともに過ごすことになった。
 彼らの反応は三種類にわかれる。
 ひとつめ。組長が選んだ相手ならばどんな人物でも大切にするという意思を感じられる、トップに盲目的に尽くす者。
 ふたつめ。突如現れおとこであるというのに龍治の正妻の座についた椿の存在にどうしたらいいのかわからず、戸惑う者。
 みっつめ。組長の気まぐれだろうと、おざなりな態度で接してくる者。
 椿を、小さな組の中であまやかされて育った赤子のような存在だと見くびっている輩は多い。自分は舐められている。それを椿は理解していた。しかし、色事には疎い椿が自覚せざるを得ないほどに、龍治は自分に執着している。これは、強力な――強力すぎるアドバンテージだ。
 椿はその外見のせいでおとなしく、意見をしない人間だと勘違いされがちだが、それが通じる相手と場面がととのっている状況なら、きちんと想いを口にするのだ。だから、いつそういう行為に及んでもおかしくない夕飯後、に告げるのではなく、食事の最中にそれを切り出した。
「あの、お世話をしてくださるかたのことなんですけど」
「……なにかあったのか」
「いえ、直接的な被害があったわけではありません。ただ……、日高(ひだか)さん、でしたか。頬に小さな傷のある、サングラスをかけている男性です」
「ああ、そいつは日高だな。……日高がどうした」
「あまり感じがよくないかたなので、ローテーションから外してほしいんです」
 自分の頼みに、龍治が片眉をつりあげた。それに微笑みを湛え、椿は続ける。
「おれは、ここでおとなしくしていることにさほど不満はないんです。ただ――……、弱者として、あなた以外の人間からいびられるつもりもない」
 それは、本心からの言葉だった。そして、そう言えば彼が気をよくして動いてくれるということも、わかっていた。
「椿……」
「はい」
「おまえはほんとうに、可愛いやつだな」
 可愛い。そう褒められてもおとこである自分はよろこびを感じない。龍治からの賛辞をスルーして、もうひとつお願いが、と口をひらく。
「なんだ」
「護身用に、銃をひとついただけませんか。小型のものでかまいません。……おそらく、今後必要になるとおもいます」
「……不届き者が出ると言いたいのか?」
 龍治の手腕を疑っているわけではないが、構成員すべての心を掌握することは現実的に不可能だ。実際、日高のようなおとこが存在しているのだから。
「あなたが気に入ってくれているように、おれの顔の評判はわるくないので。血迷う輩が出る可能性は否定できないとおもいませんか? まあ、組員のかたには反対されるでしょうけど……、考えておいていただけるとうれしいです」
 彼がいる際はふたりきりで過ごすことが確定している。組の者たちは椿がなにかしないか気が気でないはずだ。自分にその気がないと信じてもらえるまで、簡単に許可はおりないだろう。
「すぐに手配させる」
――しかし、予想に反しておとこは呆気なく椿の申し出を承諾した。
「ええと、いいんですか?」
「下のやつらに文句は言わせねえ」
「……おれがそれを使ってあなたを裏切るとは、おもわないんですか?」
 それは、まっとうな疑問であるはずだった。
「おもわないな。……おまえが、斑鳩組を捨てるとは考えられない」
 ふしぎなほどに、理解されている。
 そうおもった。
 龍治の言葉は正しい。椿にとってあの組はなによりも大切なものだ。そうでなければ、自らをさし出すなんてことはしなかった。
「その通りです。おれは、あなたを裏切らない。……裏切れない」
――今は、まだ。
 台詞を呑み込んで、じっと黒い瞳を見つめる。彼は、満足げに微笑んでいた。


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