訓練に関して龍治はしばらく渋っていたが、断られるたびにおちこんだ顔をしてみせれば五回目にしてようやく許可がおりた。
「怪我はするなよ」
 何度も何度も念を押されたが、稽古をつけてもらうのに無傷でいろとはまた無茶なことを言う。苦笑し、「ちょっとくらいは見逃してください」と頼めばいやそうにではあるが「すこしだけだぞ」とおゆるしをもらえた。しかし、これでは椿の相手をする人物が困るだろう。まあ、きちんとした指導をしてほしいわけではないのでかまわないのだが、本心を悟られるわけにもいかない。
 とりあえずは護身するための術を学ぶよう命じられ、合気道の師範が週に二度ほどやってきて、離れの庭で稽古をつけてくれることになった。それを、その日の世話係とともに学ぶというのが椿の日常の一部になる予定だ。合気道をきちんとものにするためだと言えば、室内で筋力トレーニングをしていても不審ではないはずだ。体力づくりをするのにもこうした言い訳が必要になる不便さに文句を垂れたくなる瞬間は多々訪れるが、我慢できないほどではなかった。というか、自分のわがままを最終的にゆるしてしまう龍治のあまさが、窮屈さを緩和させてくれているというのが正しい。
 日高の代わりは今度こそ慎重に選ばれるとおもわれたが、その予想は外れることとなる。椿がおとこたちをおかしくさせているのか、龍治がなめられているのか。判断はつかなかったが――、どちらにせよ、問題はふたたび発生した。
 それを起こしたのは、新しい世話係に任命された谷上(たにかみ)という人物だった。
「椿、茶でもどうだ?」
 気さくに名前を呼び、茶をすすめてくる谷上にふざけてんのか、と内心罵倒する。
「……谷上さん、あの」
「ん?」
「何度も言っていますが、名前で呼ぶのはちょっと……」
「なんだよ、おれとおまえの仲だろ」
 彼は、初めのうちはふつうだったのだ。それこそ、藤丸のように。
 なにがきっかけとなったのかはわからない。ただ、徐々に椿を見る目が変わっていったことだけは確かだった。
 谷上は当初、自分を「姐さん」と呼んでいたのだが、いつしかそれが「椿の姐さん」になり、現在では「椿」と呼び捨てにしている。龍治に聞かれたらどうするんだとひやひやするため本気でやめてほしいのだが、彼は聞く耳を持たない。――もちろん、谷上を心配しているわけではない。案じているのは自分の身だ。傷つけられるようなことは万が一にもないだろうが、「おしおき」などと称して抱き潰されてはたまったものではない。
 はやく手をうたないと。
 そう考えているうちに、その日はやってきてしまった。
「……谷上さん」
「椿、椿っ」
「いい加減にしてください。あなた、こんなことをしたら……自分の身がどうなるか、わかってやってるんですか?」
「おれとおまえが黙ってれば、組長だってわからねえって……!」
 龍治が表の仕事でいかざるを得なくなった出張により三日ほど家をあけると言っていなくなった日の、初日の世話係は谷上だった。そして彼は、それを好機と捉えて暴挙に出た。――組長の「おんな」である椿を押し倒したのだ。
 とても、正気とはおもえなかった。おもいたくなかった。
 椿は、その端麗な容姿と浮世離れしているような雰囲気のせいで幼いころから一部の人間を強烈なまでにひき寄せてしまうことがあった。それは母から受け継いだものだが、今までの人生で役にたったことは一度もない。しかし、極道の家の出だということで実際に手出しをしてくる者はごく少数だったし、護衛がいたために実害を被ることはなかった。そして、実行に及んだ人間は二度と過ちを繰り返さぬよう――いや、「繰り返せぬ」ようにされた。いくらヤクザらしくないとはいっても、斑鳩組とてれっきとしたヤクザだ。大切なものを守るためならば、どこまでも非情になる。うちでさえそうなのだから、龍治がこの件の当事者をあっさりゆるすはずがない。
 衣服を剥かれ、谷上の荒い息を肌で感じたところでため息をついて上に乗っていたおとこを床に叩きつけ、手首を捻って背中に乗って動きを封じた。
「暴れると痛いですよ」
「うっ、ぐ、くそ、てめぇ……!」
「なにを勘違いしているのか知りませんが、おれの立場はあなたより上なんですよ。……さようなら、谷上さん」
 しばらくは抵抗しようとしていたが、おとこは痛みにおもうような力が出せず、ついにおとなしくなった。それを確認した椿は谷上の尻ポケットからスマートフォンを抜きとり、片手で番号をタップする。トゥルルルル、という呼び出し音が何度か繰り返されたのち、「だれだ」と聞き慣れない厳つい声で飼い主が電話に出た。
「お忙しいところすみません。椿です。ええと……あの、あ、そうだ、鼠。鼠が出まして。すぐに退治をお願いしたいんですけど、可能ですか?」
「鼠……?」
 訝しげな声音を発するも、通話先のおとこは「鼠」がさすものの正体に即刻、気がついたようだ。
「そっちに待機してるやつを今向かわせる。……大事ないんだな?」
「ええ。でなければ、こんなふうに電話してません」
「わかった。そのまま待っていてくれ」
「はい。ありがとうございます」
 がちゃ、と向こうから切られたので機械を耳にあてている必要はなくなった。ぽい、とてきとうに携帯を放って、助けを待つ。
 ものの五分もしないうちに外が騒がしくなり、どたどたと走る音がこちらに近づいてきた。
「姐さん!」
 真っ先に飛び込んできたのは屈強な男性だ。名前は知らない。どうも、と小さくお辞儀をすれば一瞬惚けたような顔をしてから、しまったというように表情をひきしめて自分のそばまでやってきた。
「ご無事ですか」
「ええ。それより、はやくこれをどうにかしてもらえますか」
「これ」呼ばわりされた谷上はかっとなり、「そもそも、てめぇがおれを誘ったのがわりぃんだろうが!」と怒鳴った。
 あとからやってきた組員たちもどういうことだ、と眉を顰めて互いに顔を見合わせている。
 自分の言いぶんが信用されるに違いない。
 そう、確信した表情でにやりと口角をつりあげた谷上に、椿はおもわず吹き出した。
「っふ、ふふ、はは、あははっ」
「あ、姐さん……?」
「はぁ、は、すみません、あんまりにもおかしかったもので、つい……」
 ひとしきり笑ってから、若干、乱れた呼吸をととのえ整然と微笑む。


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