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三日ほどして、要は帰ってきた。その間に健司の教育は進み、彼はだいぶまともになったとおもう。すくなからず、ひとの話を聞くということを覚えたし、耳を塞ぎたくなるようなおおきな声も出すことはなくなった。
生徒会室に入り浸ったり、人目のあるところで役員や人気のある人物と騒ぐのも、それがあまりよくないことだということをきちんと順を追って説明すれば、健司は納得した。あまやかされすぎていて度が過ぎた自己中心的な考えを持つようになってしまったらしいのだが、精神年齢が実際の歳に近づくと今までの自分が恥ずかしくなったのか、ずいぶんとおとなしくなった。
健司はいつの間にか真理に懐き、顔を見つけるたびに寄ってくるようになった。徐々に変わっていく健司を周りもすこしずつ認め始め、毎日のように騒がしくなっていた学園はようやくおちつきを見せてきた。
元々、顔も成績もいいのだ。性格さえまともになれば、親衛隊が結成されることだってありえるだろう。そのとき健司がどのような判断を下すのか、真理は楽しみだった。子を育てる親のきもちが若干ではあるが、理解できた気がする。
真理は要が帰ってきたその日の放課後、迎えにいくから自室で待つように、という彼からの言づけを秋南から受けとり、おとなしく部屋へと向かった――のだが。扉の前にはなぜか、健司が座り込んでいた。
「坂井……? どうしたの、こんなところで」
訊ねれば、彼は立ちあがって真理の問いに答えてくれた。
「……久木を待ってた。今日、要が帰ってきたから」
今度こそ約束をきちんと守ってくれ、とでも念を押されるのかとおもっていた。だが、その考えは的外れであった。
「おれ、たぶん要がこっちを見なかったからどうしても手に入れたくなって、躍起になってただけだとおもうんだ。だから……、もう、おれのことは気にしないで」
まさか彼の口からこんな言葉が出てくるようになるとは。
健司がそうできるようにと動いた真理自身ですら、この変化には驚いてしまった。
「あの、おれ、まだまだ久木に教わりたいことがあるんだ。だから……、迷惑かもしれないけど、これからも指導、お願いします」
敬語まで使って、頭をさげて。頼んでくる健司を突っぱねることができるほど、真理は薄情ではない。しかし、もう教えなければならないことはほとんどないのかもしれない。
「……いいよ。坂井に親衛隊ができるのも時間の問題だろうし、そのことについてもすこし話をしておきたいんだ」
「あ……、おれ、親衛隊ができるなら、久木がつくったみたいな、おれがおれでいられるような親衛隊にしてほしくて……。そういう話、聞きたいっておもってたんだ」
「じゃあちょうどよかったね。近いうちにまた話そう」
「うん。ありがとう」
素直で、純粋で、明るくて。そんな健司の人気がこの先、出ないはずがない。
――今さら健司の魅力に気がついたんですか?
そんなことを言う副会長が脳裏に浮かび、苦笑が洩れた。――ほんとうに、今さらだ。
「どうしたんだよ、久木」
「……真理でいいよ」
「え……」
うつくしい翠の瞳が、おおきく見ひらかれる。もう一度、名前で呼んでいいという旨を伝えれば、健司はうれしそうに笑った。
「じゃあ、おれのことも健司って呼んでくれ!」
それは以前よく発していた元気に満ち溢れた声だったが、真理はうるさいとはおもわなかった。
健司とは、秋南のような関係が築けるかもしれない。そんな未來を想像すれば、真理も笑みを返さずにはいられなかった。
「――楽しそうに話してるとこわるいが、真理、借りていっていいか」
背後からかけられた声にはっとし、振り向くとそこには要がいた。
「ああ、うん。どうぞ」
ひきとめようとせず、むしろきもちよく真理を送り出そうとしている健司は、ほんとうに要のことはもう「そういう」対象として見ていないようだった。
だれかに健司が変わったという話を聞いたのか、その態度にもさほど驚きを見せることなく、要は「さんきゅ」と礼を口にした。そして、真理の腕を掴み歩き出す。
「――真理」
顔だけを健司のいる方向に向け、台詞の続きを求める。
「すなおに、なれよ」
それは、真理にとっては簡単ではないことだ。それでも、ちいさくちいさくうなずいた。実際に素直になれるかどうかはともかく、素直になりたいと、そうおもったから。
要の部屋に足を踏み入れるのは、二度目だ。
初めて訪れた日――とはいっても数日前のことだが――と同様に、紅茶を出されたので「いただきます」と言って口をつけた。
「びっくりした。秋南のやつが、『真理が健司を教育しなおしてる』とか言うから。しかも、実際にめちゃくちゃ変わってるし。今日、帰ってきてから生徒会室にいって書類とか確認してもあいつが起こした事件の量が各段に減ってた。おまえのおかげだ。ありがとな、真理」
「……いえ。おれは、たいしたことはしてないんです。この短期間で坂井――健司がどうしてあそこまで変わったのか、変わることができたのか、おれすらも疑問におもってるくらいで」
ふ、と要は「おれにはわかる気がする」と笑みを零した。
「おまえのそばにいて、そのままの自分でいるのが恥ずかしくなったんじゃねーかな。……認めてほしく、なっちまったんじゃねーの」
まるで自身のことのように語るものだから、どきりとしてしまう。その瞬間、空気が変化したのがわかった。
「真理……、おれは、おまえに誠意を見せると言った」
「……はい。覚えています」
「――これが、おれの誠意だ」
さし出されたのはちいさな箱。紺色の手ざわりのいいそれには、真理の予想が外れていなければ、とんでもないものが入っているに違いない。
ふる、と首を振ってあけることはできないという意志を示せば、要が代わりにあっさりとふたをあけてしまう。
「勝手に振り込まれてた小遣いで買ったやつだし、そこまで高いやつじゃなくて申し訳ないんだが、ちゃんとしたものはおれが働いて貯めた金でプレゼントする。だから、それまではこれで我慢してほしい」
そういうことではない。そういうことではないのだ。
声が出ない。手が震える。
「忙しい両親に、むり言って時間つくってもらって、話をしてきた。すきなやつがいるって。学園のやつだ、って。そいつのことがすきだから、結婚はできないし孫の顔も見せてやれない、ごめんって、そう伝えてきたんだ」
涙が溢れた。歓喜したからではない。真理がいだいたのは――絶望、だった。それは、要に未來を捨てさせる覚悟をさせてしまったことに対する、失意の涙だった。